【関西】定例研究会報告 川面凡児の神道思想――近代ナショナリズムにおける宗教・政治・身体

令和元年8月31日に開催された民族文化研究会関西地区第16回定例研究会における報告「川面凡児の神道思想――近代ナショナリズムにおける宗教・政治・身体」の要旨を掲載させて頂きます。

 

はじめに

 戦前期の神道家である川面凡児は、伝統的な禊の復興者として知られている。しかし、川面が重視した神道儀礼は禊だけではない。川面は、「振玉」「雄建」「雄詰」「伊吹」など、禊以外にも独自の修養法を案出していた。これらの修養法は、既存の神道作法や掛け声を基調として、決まった身体動作を反復する形を取っており、一種の体操とも理解される。こうした点から、川面が重視していたのは、身体運動を通した修養を志向する身体論・身体技法なのではないか、と思われる。この視座から、禊と「振玉」「雄建」「雄詰」「伊吹」といった一群の修養法を統一的に解釈できる。

 そして、同時代に目を向けると、ナショナリズムが勃興しつつある時代的状況を背景として、同様に身体運動を通した修養を志向する身体論・身体技法が幾つも展開されていた。原理日本社の三井甲之や佐藤通次の身体論、筧克彦の「日本体操(やまとばたらき)」の提唱などが、具体的事例として挙げられる。本稿では、特異な身体論・身体技法をもつ川面の神道思想を検討することによって、こうした同時代の身体論・身体技法に対し、示唆を獲得することを目的とする。

 まず、前掲の、川面凡児と同時代の身体論・身体技法を概観し、これらに伏在する特質や問題を把握する。さらに川面凡児における身体論・身体技法を検討し、同時代における身体論・身体技法に対する示唆を獲得する。かかる作業から、近代ナショナリズムにおける宗教・政治・身体の相互関係を、ごく一部であれ、明らかにしたい。

 

一 同時代における身体論・身体技法

 それでは、本稿の前提となる、川面と同時代において展開され、問題意識を少なからず共有していると思われる身体論や身体技法を参照しておきたい。川面が、しばしば「超国家主義のイデオローグ」[1]と評されるように、彼が国家主義の立場を採用していたことから、ここで主題とするのは近代ナショナリズムと身体論・身体技法の関わりとなる。この近代ナショナリズムと身体論・身体技法の関りは、近年の日本思想史では注目を集めているテーマである。たとえば、片山杜秀は、原理日本社のメンバーだった三井甲之や佐藤通次における身体論をもとに、こうした近代ナショナリズムにおける「身体性」を論じている[2]

 三井甲之は、民間療法に傾倒し、「手かざし療治」という、手をかざすことによってエネルギーを相手に送り込み、治療を行うとする療法に関心を示した。片山によれば、こうした「手かざし療治」への関心と、原理日本社のイデオロギーは無関係であると見なされてきたが、両者は「あるがままの心による相互感応」とでも言うべき主題で繋がっている。「手かざし療治」は、あるがままの心になれば、生命力を手からエネルギーとして放射することができると説いており、原理日本社のイデオロギーの核心にある短歌は、まさにあるがままの心による現実の感受を理想としている[3]

 佐藤通次も、三井のようなオカルティズムへの傾斜というラディカルな形態は取らないが、「身体性」へと関心を示していた。佐藤には、『身体論』(昭和14年)という文字通りに「身体性」を主題とした著作がある。佐藤は、人間存在を物体・肉体・身体という三つの次元によって理解しようとする。佐藤は、人間存在は、物体という「単なる物質としての人間存在」に過ぎないものから、「人間の肉体と、それを含んだ周辺の生活圏」も内包した身体まで、低次の存在から高次の存在へと展開していくと説くが、ここでも三井と同様に「あるがままの心の相互感応」とでも言うべき、身体を基礎とした精神的交流が重視される[4]

 また、近代ナショナリズムにおける「身体性」という主題は、単なる身体論の展開に留まることなく、身体技法を主体的に構想・実践するようになった。その代表例が、中道豪一によって近年研究が進んでいる、筧克彦によって提唱された「日本体操」(「皇国運動」とも表記し、「やまとばたらき」と読む)である[5]。この「日本体操」とは、神道の身体作法や掛け声を基礎に構成された日本精神の修養を目的とした体操である。この「日本体操」は、岩手県知事だった石黒英彦や満蒙開拓青年義勇軍訓練所長だった加藤完治に影響を与え、一定程度の広がりを持って実践された[6]。 

 こうした三井甲之や佐藤通次の身体論、あるいは筧克彦の「日本体操」といった身体技法だが、現在では否定的な評価が下されている。たとえば、片山杜秀は、三井や佐藤の身体論を紹介しつつ、これらを思考停止の結果もたらされたものとして一蹴する。片山は、日本のナショナリズムが、天皇による変革を掲げつつ、これが果たせないために、終わりなき現状肯定に帰結したという図式を示し、この潮流がもたらしたものとして身体論を捉える。すなわち、こうした終わりなき現状肯定では、主知主義的な理性すら用済みとなり、あるがままを感受する身体だけが残ることになる、という見解である[7]

 また、筧克彦の「日本体操」に対しても、批判が提起されている。筧克彦の「日本体操」を始めとして、松本学が創始した「建国体操」や、高木兼寛が考案した「国民運動」といったナショナリズムの勃興を背景に出現した国家主義的体操を研究する佐々木浩雄は、これらを「身体の国民化」として定式化した[8]。スポーツへの国家統制が進み、体操という身近なスポーツにおいてもナショナリズムの作興に援用されてしまい、一種の動員のための装置として機能してしまったのではないか、という見方である。

 

二 川面凡児における身体論・身体技法

 これまで、川面凡児における身体論・身体技法を検討する前提として、同時代におけるナショナリズムの勃興を背景とした身体論・身体技法を概観してきた。また、これらが、総じて、否定的な評価がなされていることにも触れた。身体論については、現状肯定に陥った右派思想の影響を受けた、思考停止による自己完結に過ぎず、身体技法については、スポーツを媒介として国民を統制し、国民の身体にまで支配を波及させる、動員装置に過ぎないのではないか。これが、現在の研究の動向だった。

 しかし、こうした「自己完結」や「動員」といった否定的な評価しか、この時期における身体論・身体技法は語りえないのか。本稿では、こうした「自己完結」や「動員」といった評価を参照しつつ、川面凡児の身体論・身体技法を検討していくが、最終的には、こうした「自己完結」や「動員」といった評価に限定されない、より豊饒な思想的含意を取り出したい。それを足がかりに、同時代の身体論や身体技法の全体像を再考することも視野に収めていきたい。

 それでは、川面の検討に入りたい。川面の著作は膨大な数に上り、その全体像を概観するのは、紙幅の問題もあり、とりあえず避けたい。身体論・身体技法に関わる、霊魂観、身体観、行法観について触れたい。ここで、最も参照すべきなのは、川面における「鎮魂帰神」論の把捉を目的に、川面における身体観を検討した、津城寛文の業績だろう[9]。簡潔な記述ながら、川面の業績の全体像を素描する西川旭の論考[10]や、川面の生涯を記した金谷真の伝記的著作[11]にも目配りしつつ、津城の業績に多くを負って、本稿を進めたい。

 また、この検討には、「身体と意志/理性」と、「身体と自我/個人」という分析視座を用いる。ずっと述べてきたように、同時代の身体論・身体技法には、(思考の逃避の結果としての)「自己完結」や、(自我を否定し、国家の統制を許すという含意での)「動員」などといった否定的な評価がなされてきた。こうした評価の是非を、川面をテストケースに検討するのだから、川面の身体論・身体技法における意志/理性ないし自我/個人の位相が確認されなければならない。川面において、身体と意志/理性、身体と自我/個人は、いかなる関係を結ぶと想定されているのか。これを軸として、分析を進める。

 

二・一 身体と意志/理性

 では、「身体と意志/理性」という分析視座に沿って、川面の身体論・身体技法を検討する。まず、身体観・霊魂観だが、川面の身体観・霊魂観は、微細な粒子状の霊魂が段階的に集合・構造化し、物体・身体を実現するという、「一種の原子論的な性格」をもっている。直霊⇒生魂⇒足魂という順序で集合・構造化は進み、その魂の各段階で、おのおのの機能分化が規定されるとしている。津城の述べるように、神道において霊魂を「肉体(物質)そのものとする考えは稀である」。魂の集合・構造化を貫徹した結果が、上記のような原子や細胞を想起させるような霊魂論である。

 津城は、こうした川面の身体論・霊魂論を、「霊魂論的生理学」と呼称しているが[12]、注意すべきなのは、川面が自身の身体論・霊魂論を叙述する上で、こうした原子論的構造を採用した所以である。確かに、こうした「霊魂論的生理学」は、科学的知見を一種の比喩として使用しているに過ぎず、原子論的構造をしているからといって、川面の神学的思惟の真理性が担保されるわけではない。だが、重要なのは、科学的知見を説明概念としてではあれ、自身の神学体系に援用するのを躊躇わない川面の態度には、留意しておくべきだろう。

 続いて、さらに細かく川面の身体観・霊魂観を見ていきたい。ここで主題になるのが、川面の「鎮魂帰神」観である。「鎮魂帰神」とは、神道における伝統的な霊的実践の総称である。ここで、津城によって提示されている、「憑霊型シャーマニズム」と「脱魂型シャーマニズム」の区分を説明する必要が生じてくる[13]。憑霊型シャーマニズムとは、トランス状態のシャーマンに神霊界から超自然的存在が「外から内へ」入ってくる。他方で、脱魂型シャーマニズムとは、人間界のシャーマンがトランス状態に移行し、そこから神霊界の超自然的存在に向けて魂が「内から外へ」出ていく。津城は、近世以降の神道家の「鎮魂帰神」観念を調査し、その殆どが憑霊型シャーマニズムの類型に該当するとしている。それに対し、川面は極めて珍しく、脱魂型シャーマニズムの類型に該当するとされる。

 なぜ、この「憑霊型シャーマニズム」と「脱魂型シャーマニズム」の区分が重要かといえば、両者には意志・理性の捉え方において、大きな径庭があるからである。津城が言うように、川面における「鎮魂帰神」観念の中核的概念は、「脱魂型シャーマニズム」に分類されているように、主要な魂が体外に脱する「魂の分出」である[14]。こうした「魂の分出」は、全身の統一した状態において、主要な魂が体外に脱出して何らかの活動を行うことを指す。これは一方的に超自然的存在が依代に憑依するケースや、俗に言う「幽体離脱」でイメージされる放心状態での魂の遊離という発想とは対極に立つもので、津城が指摘するように、「無自覚的・消極的ではなく、きわめて自覚的・意志的な状態」だと定義されている[15]

 これまで、川面の霊魂観・身体観を概観してきた。では、こうした川面の霊魂観・身体観について、先だって掲げた「身体と意志/理性」という分析視座に照らし、評価していきたい。川面の霊魂観・身体観は、魂の集合・構造分化という原子論的構造を採用しており、科学的論理を説明的概念として援用することに躊躇しないことが明らかになった。また、その「鎮魂帰神」観念は、主流である憑霊型シャーマニズムとは異なり、脱魂型シャーマニズムに分類され、きわめて自覚的・意志的な状態として位置付けられる。かかる状況から、川面の霊魂観・身体観は、身体と意志/理性を、少なくとも対立するものとは見なしていないのではないか、と結論付けられる。

 

二・二 身体と自我/個人

 それでは、続いて、「身体と自我/個人」という分析視座に沿って、川面の行法観について概観したい。川面における行法は、先ほど述べた「鎮魂帰神」観念を具体化したものであり、祓・禊・振玉・雄建・雄詰・伊吹という六段階から構成される。本稿冒頭で触れておいたが、これらの行法は決まった身体動作を反復する形をとっており、一種の体操とも解されている。すなわち、川面における行法は、本稿の主題であるところの身体論・身体技法そのものなのである。

 だが、こうした祓・禊・振玉・雄建・雄詰・伊吹という一連の行法に触れる前に、その前提であるところの川面の「鎮魂帰神」観念について、もう少し触れておきたい。先ほど、川面の「鎮魂帰神」観念とは、「魂の分出」としてイメージされる、人間界のシャーマンが超自然的存在へと「内から外へ」出ていくタイプだと説明した。だが、川面はもう一つの霊性のやり取りの方向性、すなわち超自然的存在が「外から内へ」入ってくるパターンについても想定していた。川面は、魂の粒子が人間に常に降り注いでいるのであって、これが人間の身体にも浸透することで、入り込むとする。これを、川面は「万有の息気」だとするが、これが良いものであるならよいが、中には悪影響を及ぼすものもあり、こうした悪影響を及ぼす「外から内へ」入ってくる魂を、川面は「禍津毘」と呼ぶ。

 そして、川面にとって、「鎮魂帰神」とは、単に人間の霊魂が「内から外へ」出ていくだけではなく、先ほど触れた「外から内へ」入ってくる「禍津毘」といった悪影響を及ぼす霊体を除去することも目的の一つとなる。そして、こうした「禍津毘」の対策として川面が講じるのが、身体内の諸霊魂の「主宰統一」であった。すでに触れたが、川面の霊魂論は原子論的構造を採用しており、無数の霊魂を人間は抱懐している。ここで、こうした無数の霊魂をコントロールし、一個の肉体あるいは一個の自我たらしめなければならない。そして、この「主宰統一」が上手く実現されなければ、外部から身体に入り込んでくる「禍津毘」の影響を容易く受けてしまう。ここで、川面の「鎮魂帰神」観念は、諸霊魂をコントロールすることによって一個の肉体、一個の自我を獲得し、外部から侵入する「禍津毘」に対抗、これを排除することも、目的となるのである。

 そして、こうした、以前触れた「魂の分出」に留まらない、「主宰統一」や「禍津毘」の排除といった川面による「鎮魂帰神」観念のもう一つの側面に、津城は自我・主体の投影を読み取る。津城は、不断に入り込んでくる「禍津毘」を身体的鍛錬である行法によって阻止し、「主宰統一」によって自己を懸命に立ち上げようとする川面の「鎮魂帰神」観を、吉本隆明共同幻想論の援用によって説明しようとする[16]。吉本は、「個々の人間の観念が、圧倒的に優勢な共同観念から、強制的に侵入され混乱してしまう」(『共同幻想論』)として、ここに個人の存立を難しくする共同観念(共同幻想)の問題を定式化した。そして、同様の問題図式が、川面にも発見できる、と津城は仄めかす。不断に入り込んでくる「禍津毘」が共同幻想に、厳しい身体的鍛錬を伴う「禍津毘」に抗する「主宰統一」の試みを、それでも個人を成立させようとする吉本の試みに、それぞれ対応させているわけである。

 確かに、「禍津毘」は「個人の存立を難しくするもの」として把握でき、「主宰統一」は「阻害要素を排してでも、自我を実現しようとする試み」として理解することも可能だ。こうした構図において、確かに川面と吉本は重なり合う。突飛な組み合わせだが、(同様に身体技法である)ヨガが個人的であるのに対し、鎮魂帰神は集団的だとする神道家の見解も紹介されており[17]、身体技法から個人モデルを析出するのは的外れではない。それでは、こうした鎮魂帰神の具体的プロセスである、祓・禊・振玉・雄建・雄詰・伊吹を見て行こう。祓は風の力による浄化、禊は水の力による浄化、振玉・伊吹は呼吸法、雄建・雄詰は神話の再演であり、それぞれ「禍津毘」の除去と、「主宰統一」の確立を企図したものとなっている。こうした行法を修めた結果として、「魂の分出」と呼ばれる鎮魂帰神の中核に進める、と川面は説いている。先ほどの個人モデルを援用すると、「禍津毘」の除去と「主宰統一」によって自我の確立を行うことで、意志の放射である「魂の分出」に取り掛かれる、という形で整理できるだろうか。かかる身体技法や、津城の見解から言って、川面の身体論・身体技法は、少なくとも個人/自我と敵対的ではない、と言えるのではないか。

 

おわりに

 これまで、昭和戦前期・戦中期において、ナショナリズムの勃興を背景として出現した身体論・身体技法は、三井甲之や佐藤通次の身体論であれ、筧克彦の「日本体操」であれ、現状肯定の果ての思考停止による「自己完結」状態であるとか、国民の身体までも国家の統制に服させようとする「動員」であるとか、否定的な評価がなされてきた。

 そこで、同じくナショナリズムに立脚し、「身体性」への関心を示し、特異な身体技法をもつ川面凡児における霊魂論・身体論を検討したところ、同時代の他の身体論・身体技法とは異なって、意志、理性、個人、自我と必ずしも敵対的ではないのではないかという結論を得られた。これは、「自己完結」や「動員」という戦後におけるナショナリズムと身体論の関係をめぐる研究における定説的な見解に回収されない、身体論や身体技法のもつ新たな含意を探る端緒になりえるかもしれない[18]

 

[1] 『近代日本哲学思想家辞典』(東京書籍、昭和57年)182~183頁

[2] 片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社、2007年)第四章「右翼と身体」

[3] 片山・前掲注(2)197頁以下

[4] 片山・前掲注(2)210頁以下

[5] 「日本体操」について、中道豪一「筧克彦『日本体操』の理論と実践」明治聖徳記念学会紀要51号(2014年)

[6] 筧は貞明皇后に進講しており、この関係から、貞明皇后の周辺にいた女官らも、この「日本体操」を行っていたという。こうした筧と宮中の繋がりについて、中道豪一「貞明皇后への御進講における筧克彦の神道論 : 『神ながらの道』の理解と先行研究における問題点の指摘」明治清徳記念学会紀要50号(2013年)

[7] 片山・前掲注(2)205頁以下

[8] 佐々木浩雄『体操の日本近代:戦時期の集団体操と〈身体の国民化〉』(青弓社、2016年)を参照。「日本体操」については、同書261頁以下。

[9] 津城寛文『鎮魂行法論:近代神道世界の霊魂論と身体論』(春秋社、1990年)第四章「川面凡児の鎮魂行法説」

[10] 中西旭「川面凡児」神道宗教41号(1965年)や、同「今泉定助翁における皇道思想の展開:特に川面神学との関係について」『今泉定助先生研究全集(第一巻)』(日本大学今泉研究所、1969年)を参照。

[11] 金谷眞『川面凡兒先生傳』(みそぎ会星座連盟、昭和33年)

[12] 津城・前掲注(9)249頁

[13] この「憑霊型シャーマニズム」と「脱魂型シャーマニズム」という区分そのものは、佐々木宏幹『シャーマニズムの人類学』(弘文堂、昭和59年)において提示されたものである。

[14] 津城・前掲注(9)251頁

[15] 同上

[16] 津城・前掲注(9)287頁

[17] 津城・前掲注(9)351頁。山蔭基央の発言。

[18] 川面の身体論・身体技法は、川面の死後に大政翼賛会によって国民的行事として採用され、(表面上は)筧克彦の「日本体操」と同様の政治的展開を辿った。しかし、本稿では、身体論・身体技法の政治的展開よりも、身体論・身体技法の内在的性質に注目した議論を行った。

 

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川面凡児

 

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川面凡児の霊魂論