【関西】定例研究会報告 日本音楽を私達の生活に取り戻すために(番外編)――演歌

 令和元年7月27日(土)に開催された民族文化研究会関西地区第15回定例研究会における報告「日本音楽を私達の生活に取り戻すために(番外編)――演歌」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は、番外篇として、現代音樂の演歌を解説します。演歌の歴史、演歌にまつはる人々、そして演歌と傳統音樂との關聯性を解き明かしていかうと思ひます。


一、演歌の定義 二、演歌の歴史 三、演歌を形作つた人々 四、演歌の構造 五、演歌の時代的役割

一、演歌の定義

 演歌は明確な定義がなく、時代によりその内實が變化した不明瞭な種目です。何をもつて演歌をするかは、明治大正昭和初期の時代と、昭和中期以降に大きく二分されます。現代一般的にはヨナ拔き音階(あるいはニロ拔き音階)を用ゐ、〝こぶし”の效いた歌聲、歌のテーマは主に海(特に日本海)、酒、女、北國、雪と云つた傾向のある歌謠曲を云ひます。「艷歌」や「怨歌」とも言はれ、人の情を説いた内容の歌詞が多くなつてゐます。

二、演歌の歴史

 演歌は、もとは明治中期の自由民權運動の壯士が,演説代りにうたつた歌を祖にもちます。演説歌、略して演歌の誕生です。思想を歌に託して表明することは古くから行はれてきましたが、植木枝盛(えもり)作『民權田舎歌』や安岡道太郎作『よしや武士』のやうに、「數え歌」や「どどいつ」の旋律に頼るものは演歌とよびません。したがつて演歌の嚆矢は川上音二郎作『オッペケペー』となります。明治二十二年の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席で公開されるや、忽ち京都市民の心をとらへました。政府の施策を非難することなく、自由と民權の伸張を平易に説く『オッペケペー』は、多年にわたる川上の反權力鬪爭の成果と云へますが、翌年に壯士芝居を率ゐて東上した川上一坐の公演によつて、横濱や東京でも流行し始めました。
 歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音樂的にはデクラメーションと云ひます。端唄や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かつた當時の民衆にとつて、だれもが容易に口ずさめる『オッペケペー』は、民衆娯樂の新分野を形成することになりました。
 東京にたむろする壯士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を賣つて生活の糧を得る者が現れ、『ヤッツケロ節』『欽慕節(きんぼぶし)』『ダイナマイトドン』など同類の歌もつくられました。ただ、政府を彈劾する歌詞もあつて、屡々官憲の彈壓を受けました。かうした壯士の歌に「演歌」の名を冠する一團もありましたが、世間では一般に「讀賣」とか「壯士歌」とよびました。ところが壯士の大半は書生であり、『法界節』や『日清談判破裂して』を月琴で流したので、壯士歌はむしろ「書生節」と云ふ名稱で親しまれるやうになりました。そのころ、黒地の着物に編笠(あみがさ)をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歡心を買はうとする書生たちの行爲は、社會問題として大きな波紋をよびました。
 やがてバイオリンが用ゐられると、目新しさにひかれ、書生節の周邊を聽衆が取り卷くことになります。大正中期、『一かけ節』や『七里箇濱の仇浪』などが全國に滲透するころ、書生節の歌手は「演歌師」と云はれ始め、映畫の力とも相まつて『船頭小唄』や『籠の鳥』が一世を風靡しました。
 昭和になつてレコード歌謠に人氣が集まると、書生節は消滅して「歌謠曲」が臺頭し、多數の作詞家・作曲家が活躍しました。そして、昭和三十五年前後に「艷歌(えんか)」と云ふことばとともに「演歌」が復活します。美空ひばりをはじめ、島倉千代子、春日八郎、三波春夫ら、枚舉にいとまがないほど多數の歌手が出現し、その歌聲は民衆の魂を搖さぶつて黄金時代を形成しました。外國のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謠曲を演歌とよんだわけですが、しだいに歌謠曲は演歌とニューミュージックに二分さました。かうした用語の變遷や歌詞ないしは歌ひ方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壤に立脚した歌聲だと定義づけることができます。最近は、歌謠曲のさらなる多樣化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謠曲分野に占める演歌の位置附けは相對的に低下してゐます。

三、演歌を形作つた人々

 この項では、現在に至るまでの演歌を形作つてきた作曲家・作詞家・歌手を七人紹介します。
 一、川上音二郎(文久三-明治四四)。筑前黒田藩出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・藝術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壯士芝居はやがて新派となり、歌舞伎をしのぐ人氣を博し、「新派劇の父」と稱されました。最初にレコードに音を吹き込んだ日本人としても有名。
 二、添田唖蝉坊(明治四-昭和一九)。演歌師。横須賀で日雇ひ人夫などをしてゐるうち、壯士の街頭演歌を聞き心醉、東京・新富町にあつた壯士演歌の本部へ入ります。これが一八歳のことで、以來、演歌師として盛名をはせ、明治後期から大正にかけて『ラッパ節』『マックロ節』『ノンキ節』『デモクラシー節』など數多くの演歌の作詞を行つてゐました。堺利彦を知つて社會主義運動に入り、その勸めでつくつた『社會黨ラッパ節』などがありますが、彼の資質はむしろ非政治的と云つてよく、「過去の演歌はあまりに壯士的概念むき出しの“放聲”に過ぎなかつた」と云ふ述懐のとほり、風俗世相を諷刺、した『むらさき節』や晩年の『金々節』などによくその本領を發揮しました。
 三、中山晉平(明治二〇-昭和二七)。作曲家。多くの傑作と云はれる童謠・流行歌・新民謠などを殘し、作品は多岐にわたり、學校の校歌・社歌等などを含め中山の作品と判明してゐるだけで一七七〇曲あります。彼の演歌とのつながりは、船頭小唄や哀愁演歌を作曲し、ヨナ拔き音階を定着させたことです。また、民謠を愛し、その音階やメロディーの動きを研究し、三味線も彈くと云つた多才ぶりを發揮してゐました。
 四、古賀政男(明治三七-昭和五三)。作曲家。少年時代に絃樂器に目覺め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音樂を研鑽しました。流行歌王古賀政男と言はれ、昭和期を代表する國民的作曲家としての地位を確立し數多くの流行歌をヒットさせました。その生涯で制作した樂曲は五千曲とも言はれ、「古賀メロディー」として親しまれてゐます。演歌の始祖とも云はれ、古賀以前の演歌と以後の演歌で區分されるほど、その影響力は大きいものでした。
 五、古關裕而(明治四二-平成元年)。作曲家。多數の軍歌、歌謠曲、応援歌を殘し、五千曲以上作曲しました。戰時中は戰時歌謠で數々の名作を殘してゐて、古關メロディのベースであつたクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のものが多くありました。それが戰爭で傷ついた大衆の心の奧底に響き、支持されました。
 六、西條八十(明治二五-昭和四五)。詩人・作詞家・佛文科教授。早稻田教授を勤める傍ら、詩人としても活躍し、高踏的象徴詩をつくる一方、北原白秋と竝ぶ大正期の代表的童謠詩人でもありました。。民謠や歌謠曲の作詞家としても活躍し、演歌の一時代を築いた一人です。
 七、美空ひばり(昭和一二-平成元年)。歌手・女優。十二歳でデビューして「天才少女歌手」と謳はれて以後、歌謠曲・映畫・舞臺などで活躍し自他共に「歌謠界の女王」と認める存在となりました。昭和の歌謠界を代表する歌手であり、女性として史上初の國民榮譽賞を受賞しました。

四、演歌の構造

 前述の通り、演歌には古賀政男以前と以後に分かれてをり、最初の壯士歌とは全くの別物になつてゐます。また、書生節がレコードにより姿を消してから、西暦一九六〇年代に入るまでは、演歌と云ふ種目は無く、歌謠曲・流行曲としてくくられてゐました。古賀政男は昭和初期から活躍してをり、古賀メロディは演歌が復活する前からありました。オッペケペーから始まる初期演歌は幅が廣く、また決まつた曲調も無いのでその特徴を正確に現すのは困難です。しかし、現代一般的に聞かれてゐる演歌のルーツである古賀メロディであれば、その特徴をはつきりと現すことができます。ですので、ここでは古賀メロディから演歌の構造を解明していかうと思ひます。
 古賀メロディを簡單に説明すると、日本の傳統的な音樂構造に洋樂・ジプシー音階・ハバネラのリズム・ジャズの諸要素など、多種多彩な音樂のエッセンスを盛り込んだものです。また、樂器もヴァイオリン・アコーデオン・ギターなどを多用してゐます。
 古賀メロディーの音樂構造に就いて。まづは言葉。一例として、音の強弱をつけるとき、上昇するときには漸弱を用ゐ、下降するときには漸強を採ります。長唄常磐津・淨瑠璃・新内・民謠の歌ひ方もこのとほりで、これは西洋とは眞逆です。この強弱のつけ方は非科學的と云はれるのですが、日本語に照らし合はせると全く自然理なことだと云はれてゐます。
 次にヨナ拔き短音階です。ヨナ拔きは最初の方でも書きましたが、具體的に言ふとAマイナーの構成音、ラシドレミファソのレとソを拔いた五音で作られた曲のことを言ひます。ただ、この項で書いたやうに、古賀はジプシー音階なども使つてをり、それは昭和十年代まで續きました。次第に曲調は大衆受けのするヨナ拔きへと傾倒していきますが、彼は日本の長唄や清元などを土臺に、諸外國の樣々な音樂を採り入れる手法に長けてゐました。
 次にコブシやマワシと云つた歌ひ方です。これは佛教聲明の影響が強いのではと推測されてゐます。聲明用語のユリ(ある音を細かく上下動させながら歌ふ)や、ステル(下降系の最終音として、消えるやうに歌ふ)、ソリ(ある音から次の音にごくなめらかに移行しつつ歌ふ)、マワス(ある音から半音または一音低い音に降りる場合には、後ろの音を強く押し出すやうにアクセントをつける)などを自身の曲にとりいれてゐます。
 次に曲構成です。古賀の曲は主旋律とは異なる前奏や間奏がついてゐることも特徴です。古賀の曲の大半は歌なしでも器樂のみで演奏されても十分樂しめるもので、歴史的に見て聲を伴ふ音樂が發達してきた日本に於て、器樂的發想を持つた作曲手法は稀でした。この部分に關しては日本的と云ふより、西洋的と云へます。
 リズム・テンポに就いて。古賀は歌手に、ゆつくりとしたテンポで、感情を込めておおらかに歌つてほしいと言つてゐました。リズムはワルツやフォックストロット、タンゴなどのスタイルを自作に取り入れてをり、特にアルゼンチンで發達したタンゴリズムを好んで用ゐてゐました。
 和音に就いて。古賀は日本の單音主義を採用し、ハーモニーをあまり使ひませんでした。注目したいのは、コード部分を複數の音を同時に出せるアコーディオンで演奏せずに、すぐに音が減衰するギターで彈いてゐたことです。アコーディオンはメロディー部分しか彈かせてゐないのです。これは、アコーディオンで和音を持續すると、歌詞や他のパートが埋沒し、日本的な味はひがなくなるからと推測されてゐます。
 最後に、古賀政男自身が語つた眞意として、「私が自作にさまざまな音樂の要素を取り入れてゐるのは、たんなる物眞似ではなく、新しい日本の音樂を自ら想像すると云ふ氣持ちによるものだ」と言つてゐます。

五、演歌の時代的役割

 「日本の大衆の心を根柢から搖さぶるには、矢張り日本的發聲法が必要だと私は思ふ。學校教育のすべてがドレミファでやつてゐるのに、いまさら日本的發聲法もないもんだと云はれるかもしれない。だが、傳統はたやすく死にはしないのだ。〈中略〉 いまなお浪曲調、民謠調、明治の艷歌調の歌謠曲がなんと根強いことか」(古賀政男自傳はが心の歌)
 演歌には昔ながらの傳統を重んじつつも、それを發展させようと云ふ意氣込みが感じられます。實際、浪曲界や、民謠界から轉身した演歌歌手が數多くおり、日本の土着文化を吸收した人達により演歌は形作られてきました。また、演歌はロックである、とも言はれてゐます。ロックは大人をふくむ主流社會の消費主義とその適応にたいする「青少年の叛亂」と云ふ精神性があり、演歌も昭和中期の西洋的合理主義崇拜に對する、日本的情緒精神の叛亂である、と云ふ考へ方です 。
 しかし、演歌は傳統音樂と云ふには歴史が淺すぎます。超黨派の「演歌・歌謠曲を応援する國會議員の會」が平成二十八年に發足し、杉良太郎氏は日本の傳統が忘れ去られようとしてゐると警鐘を鳴らしました。
 嚴密に現代演歌歌手が成立したのは、都はるみ以降のことです。都はるみの曲に感化された五木寛之が昭和四十三年に小説『艷歌』を發行し、日本クラウンは「艷歌」と云ふジャンルを創りました。しかし、コロムビアやビクターが「演歌」を採用したことで、演歌が世間で一般化しました。これが昭和四十五年のことです。つまり、日本傳統音樂の系譜ではありますが、まだ五十年しか經つてゐないのです。
 また、古賀政男、中山晉平、古關裕而らは、皆西洋音樂教育を受け、その後で日本音樂とは何かを發見していつたと云ふ道程を經た人達でした。これは音樂取調掛が發足した明治十二年以降の西洋音樂偏重教育が原因であり、彼ら作曲家に、なぜ日本音樂を最初に學ばないのか、と問ひ詰めることはできません。
 まとめると、演歌とは日本傳統音樂と西洋音樂を混成させた流行歌である、と云ふことができます。流行歌であると云ふことは、その歌詞に當時の人々の思ひが表出してゐます。演歌歌詞の特徴と云へば、哀しさ、孤独、不幸と云つた、情緒あふれるものが多くあります。しかし惡く言へばしみつたれた歌詞が多いとも云へます。昭和四十年代は、かう云つた昔の日本的であるとされた、歌詞が大衆に好まれた時代でした。それが昭和も終はりになると、バブル景氣、そしてバブル崩潰を經て、時代精神に即さなくなつてしまつたのです。そこにJポップと云ふ新種目が誕生したことで、演歌の凋落は決定的なものとなりました。そのため、近年では不幸さ、哀しさを取り除いた曲もできてきましたが、演歌の本質である情緒的な部分を取り除けば魅力は半減してしまひます。流行歌としての演歌の役割は、ここにひとつの終はりを迎へたと云ふことではないでせうか。


參考文獻

「演歌」のススメ 藍川由美(文春新書 平成十四年)
演歌の明治大正史 添田知道(岩波新書 昭和三十八年)
昭和演歌の歴史-その群像と時代 菊池清麿(アルファベータブックス 平成二十八年)
昭和歌謠-流行家から見えてくる昭和の世相 長田曉二(敬文舍 平成二十九年)
美空ひばりと日本人 山折哲雄(現代書館 平成十三年)
演歌とはなにか?大正ロマンから昭和アイドルへ 平山朝治(歴史文化研究 平成二十九年)

 

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古関裕而