【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第十囘)――近現代音樂

 令和元年5月18日に開催された民族文化研究会関西地区第13回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第十囘)――近現代音樂」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから近現代音樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。


一、現代の樣相 二、近現代音樂に就いて 三、明治期の邦樂 四、大正~戰時中の邦樂
五、 戰後~現代の邦樂  六、 近代以降の音樂教育  七、日本人の嗜好の變質 八、現代邦樂の行方

一、現代の樣相

  昭和天皇崩御されたとき、歌舞音曲の自肅が求められました。昭和六十四年には最早遠い響きとなつてゐた歌舞音曲と云ふ單語に戸惑ふ人も少なからずいたでせう。この時期、邦樂が自肅してゐる間、テレビやラジオ、スーパーマーケットでは西洋クラシック音樂は自肅とは關係なく流れてゐました。なぜ西洋音樂ならいいのでせうか。何か歪なものを感じざるをへません。

二、近現代音樂に就いて

 近現代音樂は、近代音樂と現代音樂を總稱したものです。それぞれ、近代音樂は一般的に西洋のクラシック音樂に於てお凡そ西暦二十世紀初頭(あるいは十九世紀末)頃から第二次世界大戰の終はり頃までの音樂を指します。現代音樂は西洋クラシック音樂の流れにあり、西暦二十世紀後半から現在に至る音樂を指します。 このやうに、近現代音樂は西洋音樂の區分けとして使はれてをり、日本の傳統音樂に於る近現代音樂と云ふ枠組みはありません。この第十囘發表では基本的に純邦樂の近代・現代に於る變遷を追ふので、獨自の區分を用ゐ解説していかうと思ひます。それぞれ明治期の邦樂、大正~戰時中の邦樂、戰後~現在までの邦樂の三區分とします。

三、明治期の邦樂

 明治維新で日本は一變しました。封建體制の崩潰で各種の制度改革が急速に展開し、日本音樂にも波及しました。日本音樂それぞれの變格に就いて見ていきませう。
 能樂は數百年に渡る武士階級と云ふパトロンを失ひ、一氣に沒落しました。そのため能樂の大衆化を餘儀なくされ、三味線を持ち込む事態にもなりました。尺八は普化宗の廢止により虚無僧が失業状態になり存續自體が危機に陷ります。盲人の特權の當道制度も廢止され、檢校らは路頭に迷ひ、寄席の席の舞臺に立つほどになりました。
 三味線音樂は地歌長唄と淨瑠璃でそれぞれ命運が別れ、地歌は家庭音樂の道へ進み、長唄は歌舞伎の變はらない盛況ぶりに追ひ風を受け、創作も盛んになりました。淨瑠璃は生活文化の變化や娯樂の多樣化により愛好者が激減し、年四十日しか興行できない事態に陷つてしまひます。一方雅樂は王政復古の波に乘り急浮上しました。琵琶は平安の軍談だけでなく幅廣い題材を採用し、また薩摩人が持ち込んだ薩摩琵琶が東京で大流行し、全盛となりました。
 それぞれの凋落した樂種も、時間がたつにつれ財團らの支援により徐々に立て直してきました。特に、尺八は純粹樂器としての獨立性を保持し、樂器として伸張することになりました。明治には新しい種目も成立しました。薩摩琵琶・筑前琵琶浪花節(浪曲)です。薩摩琵琶は先程觸れたとほり、東京で流行し、日清・日露戰爭では三味線を主とした軍歌が流行しますが、薩摩琵琶が三味線音樂では表現しにくい戰時の心性を掴んだ表現で學生や書生から人氣を呼び、多くの琵琶會が結成されました。
 また、この時代の上流階級の雰圍氣として、邦樂は遊離の蠻樂で五線譜や理論體系をもたない非合理なものとして、國の音樂として通用しないと蔑視する傾向がありました。かう云つた傾向は昭和まで續き、再評價の流れは戰後暫く時間が經つてからとなります。

四、大正~戰時中の邦樂

 近代に入り、西洋音樂が齎した演奏會で音樂をきかせると云ふ方式ができました。それまで傳統音樂は芝居小屋や寄席、花街などで演奏されたり、おさらひ會で披露されて來ましたが、そこに演奏會と云ふ新たな場が加はりました。
 東京音樂學校に設置された邦樂調査掛がさまざまな傳統音樂のすぐれた演奏をきかせる定期演奏會を始め、身近な生活の中に息づく傳統音樂を、音樂として鑑賞する習慣を社會に根附かせていきました。
 大正九年に宮城道雄らが新日本音樂演奏會を設立。これは新作のみで構成された劃期的なものでした。ここから新日本音樂と呼ばれる、西洋音樂をとりいれた新しい創作活動が盛んになります。國内の交通網が整備されていくにつれ、國内の各地や植民地を含む外地でも演奏會が屡々行はれるやうになりました。
 この時期レコードが實用段階を迎へ、傳統音樂を録音する事業が始まりました。その後も、流行歌や新民謠、新小唄などが大量に生産され始める昭和期より以前は國内で吹き込まれた音盤の殆どは傳統音樂でした。
 この時期、西洋の樂器に對抗するため、十五弦筝、八十弦筝が開發されました。また、尺八にキーシステムを取り入れたオークラウロも作られました。しかしこれらは演奏が難しかつたり時局が惡かつたりで普及せずに終はりました。このやうな改良樂器により元の樂器が使はれなくなることはなく、各樂器の古典は、近隣の中國や朝鮮に比べればとてもよく保たれてゐます。
 滿州事變から大東亞戰爭の敗戰までの時期は、ラジオやレコードを效果的に使つて國民への弘報課宣傳が巧妙におこなはれました。日清・日露でも戰爭にちなんだ音樂創作は行はれましたが、廣く周知できるものではありませんでした。勇士達の活躍は義太夫・琵琶・浪曲唱歌などを通じてメディアにて廣められました。
 更に戰爭状態が進んだ昭和十五年には、内閣情報局が設置され、傳統音樂に限らず、文化領域一般に戰爭遂行・動員のための統制が及び、自由な音樂運動は制限されていきました。例へば、男女の情愛を扱つた常磐津、清元、新内は抑制され、琵琶や詩吟、義太夫などは奬勵されました。筝曲も手事のみの放送も行はれ、長唄や謠曲では時局にそぐわない歌詞の改訂も行はれました。
 兵士たちに尤も人氣のあつた浪曲は大衆への影響力が大きく、内閣情報局の肝いりで浪曲向上會が結成され、戰意昂揚のための愛國浪曲が創作されました。この時期は、日本的であることや、日本人の手による作品が歡迎され、傳統音樂には追ひ風となりました。皇紀二千六百年祭では傳統音樂・洋樂問はず、戰前に於て最大の國家的祝祭を莊嚴する動きが音樂會をあげて行はれ、數多くの新作が披露されました。この時期はむしろ創作活動自體は活性化しました。

五、 戰後~現代の邦樂

戰後の傳統音樂をめぐる環境は、戰時中とは百八十度轉換しました。平和主義が新しい價値基準となり、傳統音樂もその觀點からの評價と統制を受けるやうになります。昭和二十年十一月、歌舞伎にGHQから上演禁止令がだされました。戰爭を題材にすることが多かつた琵琶は忌避され、軟弱とされた淨瑠璃は復權しました。昭和二十年十二月、GHQ神道指令により國家神道が解體され、皇室祭祀や神社祭祀に於る雅樂の意味附けも變化しました。宮内廳發足時に五十人の定員だつた雅樂の樂師が、二十五人に減らされました。以後は宮中行事の雅樂と西洋音樂を擔當することになります。
 浪曲は戰後暫くも人氣は續きましたが、左翼智識人の強い批判を浴び、復興の本格化とともに人氣は下火となりました。また、小唄の流行も戰後ありましたが、高度經濟成長期に入ると空前のピアノブームが現出し、傳統音樂を主體にしてきた身近な自演文化の世界を一變させました。傳統音樂と西洋音樂とを對立的に捉へる論調は、むしろ戰後に始まつたと言へます。
 しかし戰後、嚴しい邦樂の状況を支へた諸制度も發足しました。昭和二十一年には藝術祭が始められ、敗戰後の日本人に傳統文化の力を再認識させ、昭和二十六年からは、優れた成果に對して賞を與へるやうになり、昭和二十五年には文化財保護法が制定され、當時世界的にも類例のない無形文化財の保護が盛り込まれ、傳統音樂や傳統藝能もその對象となりました。また、昭和二十八年に設けられたレコード部門では良質の傳統音樂の集成盤が多數作られました。昭和二十九年に重要無形民族文化財が新設され、昭和四十三年に文化廳が發足、昭和四十一年の國立劇場會場により傳統藝能に大きな影響を齎しました。國立劇場は傳統文化の保存、振興を目的に、公開・傳承者養成・調査事業などをおこなつてゐます。
 大正時代に始まつた新日本音樂が、モダンな音樂環境への入り口にゐた當時の聽衆に對する傳統音樂からの掛け橋であつたとすると、戰後の現代邦樂は、より現代化した戰後の音樂環境に即した傳統音樂の可能性を追求したものと言へます。中能島欣一をはじめ、新しい創作を始める演奏家がつづきました。この時期西洋音樂を勉強した作曲家も傳統音樂の世界に參入し、諸井誠の竹籟五章、武滿徹のノヴェンバー・ステップスなどが生まれました。彼らの參入により、西洋樂器を加へた作品や、五線譜で書かれた作品が生まれ、それまで種目ごとの活動が主であつた傳統音樂の世界にそれを越えた交流を齎し、新しい作品や活動形態に對応できる演奏家が求められるやうになりました。邦樂器のオーケストラとも云へる、日本音樂集團も結成され、定期講演を續けてゐます。
 傳統音樂の海外公演は、國内に於る傳統音樂を問ひ直させる契機となりました。昭和三十年代以降は、海外の大學で能樂・尺八・地歌箏曲をなどを教へたり、ワークショップやシンポジウムを開催する動きも廣がりました。
 國内では、高度成長の終はりとともに現代邦樂の創作活動が一段落し、再び古典囘歸がはじまりました。昭和四十年代後半に、民謠・津輕三味線・和太鼓・沖繩音樂などがブームを呼び、その公演、創作活動が活溌化しました。平成の始まりの時期、郷土に傳はる民俗藝能、民族音樂への注目や、傳統音樂とポピュラー音樂との融合の試みなども行はれました。

六、 近代以降の音樂教育

 明治五年の學生發布で小學校教科のひとつとして、唱歌科が設置されました。しかし當時は指導者や教材が間に合はず、その實施までには暫くかかりました。學校に於る音樂教育の實施を含む日本の音樂制作實現のため、明治十二年に音樂取調掛が設置され、次のやうな政策が掲げられました。一、東西二洋の音樂を折衷して新曲を作ること。二、將來國樂を起こすべき人物を養成すること。三、諸學校に音樂を實施すること。
 音樂取調掛の掛長伊澤修二は、日本政府雇傭外國人教師として、アメリカ人のL・W・メーソンを招聘し、教科書の編纂や教材の作成、人材育成などさまざまな事業を行ひました。その結果、明治十六年に日本はじめての音樂教科書である小學唱歌集初篇が刊行され、これらの教材は歐米の旋律に日本の歌詞をつけたものと、西洋音樂の基本として創作された唱歌が大部分を占め、わらべうたや日本古謠など、昔から歌ひ繼がれてきた日本の歌は極めて少數となりました。
 その後、明治・大正・昭和とつづく唱歌教育では、現在でも愛唱されてゐる數多くの唱歌が教材として取り上げられ、歌ひ繼がれてきました。また、雅樂や俗樂と呼ばれる日本の傳統音樂は、子どもたちの歌唱に適した旋律や歌詞の内容とは言へないとされ、教材としては取り上げられませんでした。
 西歐化による近代國家の建設を目指した明治政府は、音樂教育に置いても日本の傳統音樂より西洋音樂を重視しました。それは先程紹介した小學唱歌集初篇から既に反映されてをり、日本の學校教育で傳統音樂が輕視されてきた經緯は、明治政府の文教政策にその歴史を遡ることができます。
 音樂取調掛は、明治二十年に音樂の專門教育機關である東京音樂學校になり、そこでは西洋音樂が中心で、山田流箏曲が科目のひとつとして教へられてゐたものの、傳統音樂の專門課程は置かれませんでした。ただし、東京訓盲院、京都訓盲院などでは地歌箏曲の專門教育が行はれました。大正元年に東京音樂學校に能樂囃子科が設置され、傳統音樂の專門課程が誕生し、昭和に入つて長唄、生田流箏曲、能樂、長唄舞踊が加へられました。筝曲・能樂・長唄の三專攻からなる邦樂科が設置されたのは昭和十一年です。
 戰後の東京藝術大學設置に際して、一時邦樂科を廢止し、代はりに邦樂研究所ををく案が唱へられましたが、關係者によるはたらきかけが實つて邦樂科の存續が決まり、昭和二十五年に他科に一年遲れて邦樂科が發足しました。邦樂科は更に、長唄囃子・能樂囃子・常磐津・清元・尺八・雅樂・日本舞踊の各專攻が加へられて今日に至つてゐます。
 ここからは戰後から現代に於る一般的な學校の音樂教育の状況を解説していきます。戰後の教育は、昭和二十二年、二十六年の學習指導要領をもとに始まりました。昭和三十三年には法的拘束力をもつ學習指導要領が公示され、平成十年の第七時に至るまで改訂が重ねられてきました。小學校及び中學校の音樂科に於ても明治以來の傳統である西洋音樂を主とする點は代はりありません。しかし、徐々に傳統音樂も重視されるやうになり、鑑賞教材の多くに傳統音樂が示されてゐることや、多くの學校で郷土の音樂を教材として取り上げてゐることなどに現れてゐます。平成十年の改訂では、中學校での和樂器の體驗が義務附けられ、日本の音樂の指導を重視する氣運は高まりつつあります。しかし、肝腎の指導者たる音樂教師が傳統樂器の扱ひ方がわからず、結局和太鼓を少し觸るだけになり、筝や三味線、尺八の體驗をさせるには程遠い状況となつてゐます。
七、日本人の嗜好の變質

 これまで説明してきたやうに、明治になり西洋音樂が流入し、音樂取調掛による西洋音樂教育が始まつたことで日本人の美的感覺は徐々に西洋化していきました。
 しかし明治期に於ては、幾ら維新で世の中が變はつたとは云へ、江戸から生きてきた人の嗜好まで變へることはできませんでした。その證據に明治四十一年の東京市市勢調査に基づく東京市市勢調査職業別現在人口表によれば、多數の傳統音樂專門家がをり、全體で約七千人で、そのうちの多數を占める藝姑を除いても四千人以上が傳統音樂關聯の職業に從事してゐることがわかりました。
 それから更に下つた昭和初期であつても、まだまだ傳統音樂の勢力は大きいままでした。昭和七年に日本放送協會が全國を七地域に分けて行つた第一囘全國ラジオ調査による調査によれば、聽きたい音樂の第一位は、どの地域でも壓倒的に浪曲でした。第二位には、地域により、講談・落語・琵琶・義太夫・民謠・謠曲などがあげられました。
 その一方で、關東大震災後の東京で進行しつつあつた若い世代の傳統音樂離れや、明治四一年の市勢調査に比べて傳統音樂從事者が減りつつあると云ふ事態が徐々に顯在化してきました。都市に廣まりつつあつたモダンな生活樣式に適合的なクラシック、ジャズなどの西洋音樂や流行歌に影響され、傳統音樂をめぐる環境が少しづつ變化してゐたことがわかります。
 他の統計では、アマチュア西洋音樂團體が二百七十團體、吹奏樂團は大東亞戰爭開戰時には三千八百もあつたと云ひます。當然邦樂にもその影響は大きく、洋樂要素を持つ創作もあれば、廢絶する種目もでました。
 また、音樂の創作方式自體にも價値觀の變容が生まれました。邦樂は多かれ少なかれ、本歌取りと云ふ先行曲の旋律型や手をベースにアレンジする例が多くありました。そのため、作曲と云ふ創作行爲に價値を認めず、節附けと云つた程度の認識しか持たれませんでした。その考へが西洋音樂の價値觀の流入によつて逆轉し、新日本音樂と云つた「新」と云ふものに重きを置く新しい價値觀が誕生しました。それまでは傳統を尊び、新しいものをむしろ毛嫌ひしてゐた日本人が、新しさを享受し始めたのです。とは云へ、この流れは宮城道雄ら著名な音樂家による樣々な名作を誕生させることにもなりました。

八、現代邦樂の行方

 戰後、高度經濟成長期に入ると空前のピアノブームが卷き起こり、以後は西洋音樂を主とした生活樣式が定着し、その流れは現在まで續いてゐます。昭和初期まであつた日本の傳統音樂の人氣は落ち、ポピュラーソングが臺頭、西暦千九百年あたりにアメリカで興つたバンドと云ふ演奏樣式が一般化し、日本でも音樂グループはまづバンドを結成し世に出ていくことが普通になりました。
 現在に於ては、傳統音樂は一部の愛好家による小規模の音樂種目となりました。三味線や筝を習ふ人數も江戸後期・明治に比べて壓倒的に少なくなり、邦樂はNHKの晝番組やラジオで聞けると云つた程度になり、民放音樂番組はJ-POPや洋樂などの番組をで占められました。しかし、現代音樂も新しいを追求するあまり行詰まり感がでてゐます。そこで新しいとは別の價値觀をもつ、古典を大事にする傳統音樂にこそ、閉塞した状況を打破できる活路があるのではないでせうか。

參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
箏曲の歴史入門 千葉優子(音樂之友社 平成十一年)