【関西】定例研究会報告 「元号」をめぐる戦後思想史の一断面――葦津珍彦・上山春平の対論から考える

 平成31年4月20日に開催された民族文化研究会関西地区第12回定例研究会における報告「『元号』をめぐる戦後思想史の一断面――葦津珍彦・上山春平の対論から考える」の要旨を掲載させて頂きます。

 

はしがき

 去る平成三十一年四月一日に菅官房長官によって新元号「令和」が発表された。典拠は『万葉集』の巻五、「梅花の歌 三十二首」の序文「于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香(初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す)」である。管見の限り、ほとんどの日本人は「令和」という元号名には違和を感じても、「元号」という存在そのものに反対はしていない(今ワードで「れいわ」と打ってみたところ変換は出来なかったが、いずれ「昭和」「平成」のごとくIT機器に定着し、それと同じく日本人の生活の中にも定着していくであろう)。それはひとえに今上天皇・皇后美智子両陛下の血のにじむような三十年以上にわたる歩みの賜物である。

 一方で、「元号不要論」もまた広く流布していることも見逃せない。「元号不要論」の検討はひとまず後段に譲るとして、まずは日本の「元号」という存在が一体、文化的・思想的にどのようなものなのか。またあるべきなのか、について本稿では考えていきたい。

 そのためのアプローチのひとつとして、本稿では神道思想家、葦津珍彦と「新・京都学派」に属する哲学者であった上山春平との「中央公論」誌上での元号をめぐる応答を読み解き、両者が元号、ひいては天皇という存在をどのように捉えていたかを明らかにしたい。なお、両者の応答が行われたのはちょうど「元号法」が制定されるか否かという時期であった(昭和五十四年(一九七九年)に元号法が可決)。そのような時代背景も頭に入れておきたい。

 

葦津論文「一世一元制の意義」

 葦津は「一世一元制の意義―精神文化の視点に立って」という論文にて元号の意義を説いている。本論文で葦津は戦後、元号制の維持に尽力した「進歩的」歴史学者津田左右吉の「ヨーロッパでもヴィクトリヤ時代とかエリザベス時代とかいふのは、その時代相を表現する場合が少なくない。日本の元号にもその働きがある」という発言を引用し、あくまで元号には文化史的な価値があることを力説する。また元号制保存論者は元号・西暦の並存主義であるのに比して元号廃止論者=西暦主義者は西暦一本主義を主張している点を問題視し、「もしも西暦一本主義で、元号制を廃止したら、その後の日本社会では、国民感情のすこぶる好ましからざる思想不自由の現象が出てくる」と指摘する。

 そして、葦津は戦後の新憲法制定時における各論者の元号論を通覧、比較検討しつつ、天皇による「国民統合」の象徴という存在を真に力強い存在にしていかねば成らないということを繰り返し述べる。その上で、「今の時勢では、不文慣習法は、なにかの事があるときには必ず大きな混乱をまねく。このままに放任しておくと、なにかの時に混乱を生ずるおそれがある(略)将来国民の間で、改元を望む者が出てきた時に、ただ昭和の元号を不文の慣習法だとして改元を拒否して永久につづけていくのか、適切な手続きを経て改元するのか、いつの間にやら解消するのか、それを論議の余地の無い明確な成分法令で定めておくべきである」とし、「一世一元の元号制度を、明確な成文法令で詳しく確定すべきだと思ふ」と元号法を成分化すべきだと主張する。

 しかし、この論には続きがある。この「一世一元制の意義―精神文化の視点に立って」を読んだ地方の神社の人物が、「天皇自身に裁可権がなく、内閣が決める元号は、本質において天皇元号とは呼べないのではないか」という趣旨の質問を葦津の元に送った。葦津はその質問を紹介しつつ、追補の文章を執筆している(なお、この二種の論文は発表した雑誌や時期がそれぞれ別であるが、筆者が参照した『みやびと覇権』では一つなぎの文章として所収されている)。

 葦津はまず伊勢神宮遷宮の例を挙げる。戦後は伊勢神宮遷宮に関しては法典が定められていない。しかし、葦津は「天皇の法的な命令がないからといって、また法的な国家機関ができないからといって憲法を改正するまで御遷宮をやめておいた方がよいとでもいふのであろうか」と葦津らしからぬ強い調子で反問している(傍点は葦津)。

 さらに葦津は「現憲法はよろしくない」とはしながらも、「現憲法反対といふことの熱意はよろしいけれども、現憲法反対といふことの熱意が脱線して(中略)国体を傷つけるように傷つけるように解釈しようとする三百代言的な解釈に熱中するといふのは、まことに愚かである」と断ずるのである。その上で葦津は実質的に改元されれば形がどうであれ、さしたる差は無いとまで言い切っている。

 ここで葦津の論は奇妙な矛盾を孕むことになる。「元号法の成文化」を強く訴えながらも、憲法を含めた法の枝葉末節にこだわるな、と説いているのである。どちらが葦津の本心なのであろうか。

 

上山論文「元号天皇

 そしてこの葦津の論文に哲学者の上山春平が中央公論誌上で「元号天皇」という文章を発表した。上山はまず天皇の問題を「千数百年の歴史を持つ律令の遺訓を、西欧伝来の近代立憲制の体系の中に割り込ませ」た事そのものがそもそもの要因であるとする。その上で、日本の法思想史を概観し、「平安朝以来の京都の律令政府は細々ながら一貫して存続し(略)律令政府の頂点に位置する天皇の位は、連綿と伝承されつづけた」との史観を披瀝する。確かに天皇を頂点とした律令政治体制は早い時期に崩壊したものの、明治期まで名目上は存続していたことは事実である。

 その上で上山は皇室典範から皇位継承関連の条文が削除された現憲法下においても、「天皇の家計に伝承される皇位継承関係の儀式が、「事実たるの慣習」として踏襲されることを認めざるをえない事態が生じている」とし、元号制度は「不文の慣習としての旧態にもどされたのであった」とする。「もどされた」という表現を上山が使っていることに注目されたい。

 このようにして前提となる論を積み上げた上で、上山は現憲法下では元号制定の主体は内閣総理大臣と見なすほかは無い、との見解を示した上で、戦後の憲法制定時の識者の論や左右の論者の意見を通覧していく。そして上山は元号法賛成派も反対派も「元号制定の行為は国務的な行為であるから、現行憲法においては、天皇の権限に属さない、という見解を、どちら側も動かしがたい前提と見なしている」と疑問を呈する。そして前述の葦津論文に言及するのである。

 上山は「親しい友人を通じて葦津珍彦のすぐれた人柄についてはかねてうかがっており、この人の書かれるものは、数ある神道思想家たちのなかでもとくに説得力に富んでおり、論理的で筋の通っているという印象を受けていた」としながらも「この文章は、感情の激発のみが表面に出てしまって、はなはだ説得力を欠くものとなっている」と評する。そして上山は「いま政府の用意している元号法案が、そのまま通過するという形で元号の法制化が行われるのを善しとしておられるのか。元号制定の主体を内閣と解するほかない政府案に賛成なのか」と糾しているのである。上山はそもそも天皇の権限が戦前に比して極度に縮小させられた日本国憲法下で元号法が可決されたならば、長い歴史を持つ慣習である元号という文化そのものが天皇の下から離れ、変容してしまうのではないか、との疑念を呈しているわけである。

 ちなみに上山は元号に関しては「躊躇なく存続を望んでいる」としている。しかし様々な錯誤や混乱の下で行われる元号法制化」には反対する。「いっそ不文の慣習法もしくは「事実たるの慣習」としての姿のままにしておいた方が、へたに法制化するよりもましなのではないか」との意見を表明するのである。

 この論文から伺える上山の元号観は「法ではなく、積み上げてきた歴史そのものにその本質を見る」ということであろう。事実、上山は論文中にて「もともと法律論というのはタテマエ論である」とかなり大胆な発言をしている。では上山の本音は何か。上山は「新年号は使いたいものが使えばよい」としながらも、「少なくとも国民の半数以上は使うことになるのではあるまいか」とする。筆者が上山の本音を代弁するならば「近代以降の西洋流法律論の枠組みには天皇(とその存在に付随する元号などの様々な文化)は到底納まりきらない。無理にその枠組みに天皇を当てはめようとすれば、それこそ重大な歴史的損失である」とまとめられるであろうか。

 

葦津の応答「元号天皇―上山春平氏に答えるー」

 この上山の指摘を受けて、葦津は同年の中央公論7月号に「元号天皇―上山春平氏に答えるー」を発表した。葦津は上山の論を整理した上で、「思想的にまったく異存は無い」とする。しかし、異見もあり、葦津はまず戦後の憲法制定時の歴史を紐解き、新憲法では内閣が天皇の同意を得る行為(当然法的な裁可という意味ではない)の中でも最も重いものが「御聴許」であるという事実を引き、戦後すぐの憲法論議では政府代表の金森徳次郎憲法の改正は国体の変更を意味するものではない、という立場を堅持していたことや、憲法学者宮沢俊義が「実際政治のうえでも明治憲法と変わらない」との解釈を有していたことを挙げていく(ただし宮沢は後に変節する)。葦津はこれらの法解釈を「法的な解釈がなくとも、政治的または徳義的な聴許のことについて考えれば、「実際政治のうえでも変らない」とのロジックも理解できる」と評している。また、吉田茂もこの立場であったことを紹介している。ただし、葦津はこのロジックは信じてはいなかったとも付記している。

 葦津はこれらの論を下敷きにして「元号のような「皇位」と不可分のことは、御聴許を得ればいいと思った(略)不文慣習法としておくのがもっともいいと思っていた」と告白する。ではなぜ成文化を唱えたのか。その理由を「政府の解釈が時の推移とともに変なことになってきた」からであるという。詳細は書かれていないが、葦津は当時の政府や官僚に何らかの不信感を持っていたらしい。しかし葦津はあくまで「御聴許があればいいではないか、条件付賛成である」と結んでいる。つまりは上山とほぼ同意見であるわけである。

 しかし、葦津と上山には相違点もある。葦津は上山の「律令制が名目上も続いた」という論は基本的に同意しながらも、改元の発議権は幕府にもあり、天朝の意に反する元号が定められたこともあったことを指摘。葦津は天朝にあったのは「公布権のみだった」とする。それに比して内閣が昔の幕府のようにほしいままに政策的に改元を発議することは現在は許されていない。この状況は「幕府時代よりもはるかに「天皇元号」にふさわしいではないか」とする。

 では葦津の真の目的は何か。「改元時の円滑を期するためには、法案が成立したほうがいいと思って同意している」と上山に回答している。要するに政治的手段に過ぎないとしているわけである。

 むしろ葦津にとって大事なのは、元号、引いては天皇という存在がいかにして日本人に厳かなる「象徴」として共有されえるのか、という一点にあったのではないか。葦津は新元号公布の際に勅語あるいは「御言葉」を煥発されるのがいい、としている。そしてその上で「政府の元号法案がなくても、律令制以来の元号は必ず伝統的に社会的存続するとの確信」を持っている

 葦津と上山は細かな差異はあるものの、律令制以来の天皇およびそれに付随する様々な文化を守ろうとしている点は一致している。そして天皇という存在を近代以降の法に収まらない(さらに言えば上位の)存在であると認識していたということである。何よりも葦津も上山も日本人が「元号」という文化を法に関係なく使い続けるであろうという確信を持っていたのである。

 

むすび

 本論では葦津・上山の元号に関する論考を比較検討した。葦津と上山は元号に対する思想はそれほど隔たりがあるものではなく、むしろかなり近いものであった。

 さて、ここで最初の問題に戻りたい。現在の「元号否定派」についてである。現在の元号否定派はかつてのような左翼思想から反対しているのではない。要は「不便だから」なくしてしまえと主張しているわけである。事実、SEの業界などでは、元号変更の手間はかなり現場を圧迫しているようである。基本的に変更が無い西暦に比して、定期的に名称が変更される元号制では不便ややりにくさを感じるのも無理からぬことである。現代のような高度に発達した情報社会ではなおのことである(その意味で新元号発表を一ヶ月前としたのはまずい政治的選択であったように思われる)。

 この立場に立つ「元号否定派」の思想とは新自由主義、あるいは高度金融資本主義のそれである。世界を覆うこのようないわばグローバリズムの波に対してその地域の固有の文化や思想をいかに護っていくか。現代の元号問題はそのようなまさしく今日的な課題を内包しているのである。

 

参考文献

葦津珍彦『みやびと覇権―類纂天皇論―』神社新報社 昭和五十五年二月

上山春平「元号天皇」『中央公論 昭和五十四年五月特大号』中央公論社

 

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葦津珍彦