【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第七囘)――箏曲

 平成31年2月9日に開催された民族文化研究会関西地区第10回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第七囘)――箏曲」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから箏曲に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、箏と云ふ樂器 二、箏曲の歩み  三、八橋檢校 四、生田流と山田流
五、手事物の發達 六、近代以降の箏曲 

一、箏と云ふ樂器

 日本の雰圍氣を代表する歌曲として定着してゐる「 さくらさくら」。その旋律は平調子(五六七八九弦を「 ミ・ファ・ラ・シ・ド」にとる)と云ふ尤も標準的な箏の調弦で、隣り合つた弦を順に彈くと自然に生まれます。それが日本古謠と言はれて違和感がない理由は、半音を含む五音音階にあります。そしてこの音階こそ、江戸時代に發達した音樂の性格を尤も特徴づけるものでした。
  一般的に「 こと」と云へば箏(さう)のことを云ひます(圖一)。箏(さう)と琴(きん)は一緒のものと思はれがちですが、柱(可動式フレット)があるかないかの違ひがあり、別物の樂器です。日本に於て琴とは、三千年前の青森是川中居遺蹟から出土した現存する世界最古の絃樂器と目されるもの、奈良時代以前に三韓から傳はつたもの、箏と一緒に大陸から傳はつたものなどがあります。和琴は琴とありますが、箏の一種です。源氏物語でも、箏のコト(樂器)・琴のコト・琵琶のコトとして別物として扱はれてゐます。なぜ箏と琴が日本で一緒に思はれてゐるのかと云ふと、常用漢字に箏が無いから代はりに琴を當てはめたことが原因であり、本來使はれるべき漢字は箏です。
 箏の起源に就いてはよくわかつてゐませんが、唐の時代では秦箏と呼ばれてゐて、秦に由來する樂器と認識されてゐました。日本へは奈良時代に大陸から傳はり、古記録では西暦七〇〇年頃には箏で唐樂の演奏が行はれてゐた記述もあります。
 箏の定義は時代や音樂の種類によつて異なりますが、大抵は十三絃の箏をさします。約一八三cmの細長い共鳴胴に十三本の弦を張り、それぞれの弦には柱を立てて音高を決め、右手の三指にはめた箏爪で弦をはじいて音を出します。箏は柱を立てる位置によつて調律します。十三絃の箏では、單純には十三個の音しか出ません。しかし、柱は自由に動かすことができ、音高の微調整も簡單にできます。弦を押し下げて張力を變化させれば、一音半程度の範圍内の音は簡單に出せる柔軟な性質を持つてゐます。明治期に洋樂が入つてきたときに箏が尤もよく適応できたのは、さうした柔軟性が大きな要因でした。そのうゑ、一本の弦を普通に箏爪で彈くだけでなく、複數の弦を同時に彈いたり、あるいは箏爪の裏ですくつたり、弦をこすつたり、箏爪をはめない指ではじいたり、彈いた後の餘韻を搖らしたり等々、さまざまな纖細な手法が工夫されてゐます。その微妙なニュアンスに富んだ表現力は箏の大きな魅力です。

二、箏曲の歩み

 箏曲とは、そのまま箏(こと)の音樂のことです。現代に於て一般的には八橋檢校以降の「 俗箏」を指します。箏曲は時代によつてその性質が大きく異なります。雅樂に於ては樂箏として十三絃の箏が採用されてゐたけれども、箏曲としてはつきりとした實踐演奏の樣子がわかるのは、西暦八四五年に唐から渡來した孫賓が箏の樂曲を傳へてからです。平安時代に於ては箏の獨奏も行はれ、天皇や貴族たちが創作活動をしてゐた樣子が窺へます。その後、箏は管弦や催馬樂に使はれ、貴族の必須教養になつていきました。源氏物語では男女問はず日常生活の中で、箏や琵琶の演奏を樂しむ樣子が描かれてゐます。更に源氏物語の橋姫の卷には箏の教習に唱歌形式を採用してゐた、とあります。唱歌は言葉で旋律をなぞり、音高・リズム・強弱などを覺える方法です。やがて唱歌に替へて意味のある歌詞を當てはめるアイデアが生まれました。
 平安中期以降は淨土信仰が深まるとともに、宮中・佛教寺院に於て舞樂や管弦・催馬樂などを織り交ぜた法會が盛んになりました。これを「 寺院雅樂」と言ひます。この演奏に今樣歌體の詞章つけられたものが出現し、特に越天樂の曲に詞章をつけた「 越天樂謠物」が廣く行はれ、寺院歌謠が誕生しました。この越天樂謠物が箏伴奏歌曲に變容していき、次代に繋がつていきます。
 室町後期に賢順(西暦一五三四?~一六二三?)が、九州久留米の善導寺で越天樂謠物を箏の伴奏による歌曲として集大成して、「 築紫流箏曲」または「 築紫箏」として創始しました。賢順は大内家、大友家、龍造寺家と移り、音樂の才を高く買はれてゐました。築紫箏の特色は殆どが歌曲で、越天樂謠物に由來する四~九首を組み合はせたものです。調弦は雅樂の太食調の調弦をもとにして、第二弦を主音として半音を含まない五音音階から構成されるものを基本としてゐます。爪も雅樂のものより細長くなつてゐて、雅樂の箏よりも多彩な手法が用ゐられ、「 連」「 風連」「 滄海波」など個性的な名稱の手法が用ゐられてゐました。
 賢順の門人の法水と云ふものが、八橋檢校(西暦一六一四~一六八五)に箏を教へ、八橋は平調子と云ふ調弦法を編み出します。。そして箏組歌(箏伴奏の歌曲)十三曲、段物(箏獨奏曲)六段の調・八段の調などを作曲し、近世箏曲と云はれる箏の音樂の基礎形態を樹立しました。八橋は門弟北島檢校に箏を傳承し、北島檢校が弟子の生田檢校に傳へ、生田檢校(西暦一六五六~一七一五)が生田流を創始しました。生田流は上方で繁榮したのに對し、江戸では箏曲は流行らずでしたが、これを變へたのが山田檢校でした。山田檢校(西暦一七五七~一八一七)は江戸淨瑠璃を參考に新しい歌曲的な箏曲を創作し、江戸で大いにうけ、山田流箏曲が誕生しました。
 以降箏曲界では地歌を基盤にした器樂的な箏曲を傳承する關西の生田流、箏を伴奏に歌本位の箏曲を傳承する關東の山田流と云ふ二大會派が明治まで續きます。幕末には八橋檢校に立ち戻らうと云ふ復古的な「 幕末新箏曲」と云ふ純箏曲運動が起こりました。明治以降は皇室尊崇・高雅な歌詞の明るい明治新曲が登場し、大正時代に宮城道雄(西暦一八九四~一九五六)や中能島欣一(西暦一九〇四~一九八四)などが出現し、「 新日本音樂」と稱し洋樂を導入した新しい箏曲が登場しました。

三、八橋檢校

 八橋檢校の出生地は、福島縣岩城と福岡縣豐前小倉の二説があります。失明して當道に入つた時期は不明で、初名を城秀といい、寛永(西暦一六二四~一六四四)の中頃に初度の上衆引(坐頭の位階のひとつ)となり、二十三歳で勾當となつて山住勾當と名乘りました。二十六歳のとき檢校となり、上永檢校城談と改名し、後に八橋姓に改めました。七十一歳沒。沒地は京都で、黒谷淨光院に葬られました。
 八橋檢校は寛永のはぢめ頃は、大坂で後の柳川檢校とともに三味線で活躍し、三味線當代名人二人とまで云はれ、自ら八橋流と云つてゐたと云ひます。しかし、何らかの事情で江戸へ下り、賢順の弟子の法水に出會ひ、築紫箏を習得することになりました。時期は恐らく勾當に昇進する前の二十歳前後です。八橋三十四歳の頃、平(磐城)藩主内藤風虎の編詞に基づいて新しい箏組歌を十三曲作曲し、教習のための階梯を定めました。平調子を編み出したのはいつかは不明ですが、「 琴曲抄」にて八橋檢校が作つたと傳へられてします。また、胡弓の名人と云ふ説もあります。
 平調子は半音を含んだ調弦法で、柱を大膽に動かした初めての試みとして、コペルニクス的轉囘と賞す專門家もゐます。ちなみに最初に紹介したさくらさくらには半音♯♭が含まれてゐないことに就いては、ミをレにすればわかりやすくなります。つまり「 レ レ♯ ソ ラ ラ♯」となります。このレをミに移調したら「 ミ・ファ・ラ・シ・ド」となります。平調子は現代でも最初に習ふ箏曲の調子として受け繼がれてゐます。(圖二)
 八橋の他の業績は、當時民間で行はれてゐた器樂曲に大幅に手を加へ、段物の「 六段の調」「 亂」を成立させたことがあります。この二曲は後の箏・三味線音樂の器樂的發展に大きな影響を及ぼすことになりました。もうひとつは、八橋檢校自身がしたはけではないのですが、弟子たちにより教習カリキュラムの體系化の骨骼として八橋檢校の曲が組み込まれたことです。八橋檢校の作品群は江戸時代を通じて專門家達の指標として機能し、八橋の曲の解釋の相異が流派を分ける要因となりました。

四、生田流と山田流

 現在の箏曲の流派は圖三のやうになつてゐます。圖でわかるやうに山田流以外はほぼ生田流の派生になります。その最大の要因は現行の箏曲の殆どが生田檢校を經由した流れだからです。しかし、歴史的には地域や時代によつて數多くの流派が存在し、それぞれ異なる表現を尊重してきたことにも留意しておきたいところです。
 生田流とは、箏組歌とこれに附隨する段物などの傳承上の差による流派名のひとつです。つまり、八橋檢校から枝分かれしたうちのひとつです。八橋檢校が北島檢校に箏を傳へ、北島檢校が生田檢校に傳へたものを、生田檢校四〇歳の時(西暦一六九六)に創始したものです。この事情に就いては北島檢校が志半ばで倒れ生田檢校が受け繼いだからだとされてゐます。生田檢校に就いては京都で活躍したこと以外は、生涯も業績も殆ど不明で、いくつかの曲を作曲した傳説が或程度です。江戸時代後期に、生田流は關西で箏と三味線の合奏を加へ、地歌と融合していきました。斯樣式を生田流と呼ぶ場合もあります。
 生田流は角爪を用ゐ、この角を有效に使ふため、箏に對して左斜め約四五度に構へます。比較的段物が多く、形状は雅樂の樂箏に近いものとなつてゐます。
 山田流は江戸で流行つた流派です。山田檢校が江戸の箏曲塾で習つたものを改造し、革新的な箏曲を創始しました。山田檢校は寶暦七年(西暦一七五七)生まれで、尾張藩寶生流能樂師三田了人の子として生まれました。幼少期に失明し、一五歳の頃に長谷富檢校門下の山田松黒に入門し、數年後には箏曲の作曲も手がけるやうになりました。四十歳の時檢校になり、この前後から山田檢校の名聲が高くなり、山田流箏曲が江戸の人々の間に滲透するやうになり、以降一大勢力をなすに至りました。女性たちから山坐さんと呼ばれ、熱狂的な支持を得てゐた樣子が窺はれます。以降作品集を次々と刊行し、第六十八代江戸惣録となりましたが、その二箇月後に六十歳で死去しました。
 山田流は丸爪を用ゐ、箏に對して正面に構へて演奏します。俗箏として改良を加へられた音量が大きく豐かな音色の箏を使つてゐます。現在製作されてゐる箏は一部を除いて殆どが山田流式のものとなつてゐます。歌ものが多く、聲の表現を重視した箏伴奏歌曲であり、箏を主奏樂器としながら、三味線を加へることよつて、關西とは全く異なる表現を編み出しました。江戸で好まれてゐた河東節や一中節などの淨瑠璃を取り入れた點に特色があり、演奏者の性質を活かした歌ひ分けも大切な表現要素です。ただ、箏・三味線ともにほぼ同樣の旋律を齊奏するのが原則で、あくまでも歌を聞かせることに主眼があり、三味線音樂を箏に轉化した音樂と云つた性格が強くあります。
 山田檢校は樣々な音樂に通じ、關西系の地歌箏曲の旋律が引用されたり、高い教養を基礎にした文學性に富んだ歌詞を作り、江戸前の三味線音樂の良さをとりいれながら、箏がもつてゐる高雅な雰圍氣を損ねないやうな音樂創造を目指したと述べてゐます。儒學者・國學者・武家・歌舞伎役者とも親交を持ち、作風に大きく寄與したと目されてゐます。

五、手事物の發達

 上方では歌よりもむしろ器樂的表現の可能性を探求する傾向が強くなり、それに伴つて手事(或程度獨立した間奏)の部分に、別の旋律を重ねる演奏形態が發達していきました。「 手事物」の誕生です。このときの手事は主に地歌を歌ふときのもので、地歌とは彈きながら歌ふ聲樂曲のことです。
 初期は三味線の旋律を箏がなぞるベタ附けをする程度でした。しかし三味線の本手(主旋律)に對して、箏を替手(副旋律)とする工夫がうまれてきました。これを替手式箏曲といい、西暦一九世紀初頭の大阪で發達したと考へられてゐます。この替手式箏曲が京都に於て京風手事物と總稱される作品の創作を誘發します。三味線と箏の個性を活かしながら、技工の限りを盡くして緩急自在に掛け合ひを重ね、高音域の多樣、調弦を變へずに細かい變化音を交へて轉調を重ねる難技巧も隨所に現れます。京風手事物の特色はさうしたアンサンブル前提に曲が創られてゐることです。
京風手事物の作曲者たちは、盲人音樂家の常として、三味線・箏の兩方を專門としてゐましたが、難度の高い技を追求する過程で、それぞれの腕を發揮しやすい分業體制が自然に定着していつたと見られます。或種の職人的な趣を感じされるものもすくなくありません。專門性に對する社會的評價は、「 三絃(三味線) 松浦檢校」「 琴 浦嵜檢校」などの記述からも見て取れます。これらを總稱して地歌箏曲とも云ひます。(圖四)

六、近代以降の箏曲

 まだ近代にはなつてゐませんが、江戸末期に後世から「 幕末新箏曲」と云はれる純箏曲運動も含めて紹介します。地歌や手事物、三味線の影響から脱却し、箏曲復興にその束縛を受けない純箏曲や、單に復古的ではない新箏曲の創造運動です。陰陽折衷の調子や箏の高低二部合奏など新基軸を打ち出しました。同時期に國學を背景とする改革思想や復古思想が臺頭しはじめてをり、社會情勢に合致した運動だつたと云へます。
 明治四年に當道は廢止され、盲人達は各種特權を剥奪されました。高尚な檢校達も一部は寄席に登壇して奇拔な三味線彈きをしなければ食べていけなくなりました。しかし、箏曲の教授活動は男性盲人に限定されなくなり、箏曲市場擴大を促し、多樣な創作活動を誘發しました。
 この時代に箏曲界で臺頭したのが「 明治新曲」です。江戸期では男女の情愛を多く歌つてきた箏曲は、時代の變化から皇室尊崇や、和歌を基礎にした歴史的素材などが好まれるやうになりました。特徴としては陽音階を主とした調弦、高低二部の箏による合奏形式、左手で弦を彈く手法を交へた創作が盛んになりました。この陽音階は半音を含まない明るいもので、明清樂と云ふ中國の民間音樂を參考にしたもので、通稱カンカン調と云はれました。特にツルシャン物と云ふ、一拍目を右手でツルッと弦を普通に彈いた後すぐすくつて、二拍目は左手で弦をつまんでシャンと和音を彈く音型を地にした曲調が流行りました。しかし明治期のみに一過性のブームに終はる結果となつてしまひます。
 大正九年、宮城道雄と本居長世は合同作品を發表。尺八家の吉田晴風が「 新日本音樂大演奏會」と命名したことから、以後の宮城に代表される創作活動を「 新日本音樂」と云ひます。その特色は箏曲と尺八の演奏家が主體と成つた洋樂を意識した創作の試みに盡きます。宮城は西洋音樂の樂曲形式や和音・リズムを取り入れ、スタッカート、アルペジオトレモロ、ハーモニックスその他の新技法を工夫。十七弦などの新樂器も考案して、大規模な合奏や洋樂器との合奏も試み、四百二十餘曲を作りました。昭和三十一年に列車から轉落死し、その劇的な死は今なお稀有な才能とともに語り繼がれてゐます。
 現代邦樂は中能島欣一が先驅者とされてゐます。中能島は宮城より十歳年下で、生涯に百三十餘曲を作りました。彼が前衞的と評される背景には、箏獨奏曲「 三つの斷章」の存在が大きく、他に三味線に比重のある合奏曲に個性を發揮し、協奏曲も手がけました。宮城の抒情的・旋律的・大衆的な作風に對して、理性的・リズム的・抽象的と評され、どちらも傳統を尊重しながらも洋樂を意識し、新しい時代に即した音樂創造を志した點で共通する精神を宿してゐます。また、洋樂系の作曲家も進出し、邦樂器を積極的に活用し、多樣な活動が展開されて今日に至ります。
 箏は、近代以降に至つて獨奏樂器としての地位を獲得し、今日ではソロの樂器としても定着しつつあります。箏曲ほど時に応じて裝ひを新たにしてきた領域は他にあまり例がないのではないでせうか。


參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
日本音樂がわかる本 千葉優子(誠幸堂 平成十七年)
箏曲の歴史入門 千葉優子(音樂之友社 平成十一年)
人物でたどる おもしろ日本音樂史 釣谷眞弓(東京堂出版 平成二五年)

 

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箏曲 解説図