【関西】定例研究会報告 見沢文学の可能性 ――『天皇ごっこ』を読む

 平成31年1月13日に開催された民族文化研究会関西地区第9回定例研究会における報告「見沢文学の可能性――『天皇ごっこ』を読む」の要旨を掲載させて頂きます。

 

はじめに

  初めは新左翼、後に新右翼に転向し、1982年に組織内の仲間を「公安のスパイである」として集団リンチし殺した事件(いわゆるスパイ粛清事件)を引き起こし、獄中にて作家デビュー、2005年に自殺するというという異色の経歴をもつ見沢知廉(1959年~2005年 本名、高橋哲夫)は著作がほとんど絶版になっていることもあり、現在はほとんど忘れられてしまっている。「プレカリアート」を標榜し、労働運動を展開している雨宮処凛は元々見沢が見出した存在であり、1998年には著作『調律の帝国』で三島賞候補にもなっている等、活動界、あるいは文学界に一定の足跡は残しているにも関わらず、現在においても見沢知廉を文学者として捉え、批評・評論しようとする動きはまったく見られない。
2011年には大浦信行監督による見沢を題材とした映画『天皇ごっこ たった一人の革命』が公開されたが、これも「人間 見沢知廉」に焦点を当てたものであり、著作の内容に関してはほとんど触れられなかった。
 本稿では見沢が獄中に書いた小説を元に再構成され、出所後初めて見沢文学として世に出された『天皇ごっこ』を読み解き、現代における見沢文学の可能性を見出す端緒としたい。

 『天皇ごっこ』を読み解く
 『天皇ごっこ』は1994年度の新日本文学賞の佳作を受賞した同名の作品を、大幅に加筆訂正したものであり、出所後の見沢の作家デビュー作となった小説である。見沢は獄中で執筆を禁止されており、作中に監獄内の描写があることもあり、表立って文章を書けない環境にあった。そのため、獄中外にいる母親に暗号や「あぶり出し」で文字が浮き出る便箋を送り、清書して出版社に送ってもらっていたという。そのため、本作は見沢と母との共同作品とも言えるものである。
 本作は全5章により成り立っている。第一章は昭和天皇崩御により沸き立つ獄中の様子を、第二章は在日朝鮮人の右翼活動家のテロを、第三章は三里塚闘争、第四章は閉鎖された精神病院を、第五章は北朝鮮を、それぞれ描いている。またどの章も過去と未来が入れ替わり立ち代り転換し描かれる点も特徴である。
 作中で繰り替えし描かれるのは右翼・左翼、あるいは様々な立場の人間が、肯定するにせよ、否定するにせよ「天皇」という存在を意識し、生きる姿が描かれる。
 最も象徴的なシーンが、第三章の三里塚闘争の最終場面で、様々なセクトの活動家が、「天皇打倒」の旗の下に一致団結する場面である。それまで内ゲバばかりしていた新左翼諸派が、「天皇を殺せ」との掛け声の下、一致団結する。そして、見沢はこう記す。

  その瞬間、狡猾で理屈っぽく敵意の塊の反逆者達は、逆の意味で〈陛下の赤子〉になった。  
―おそらく、マルクスレーニンが生き返ってアジっても、もう決して一つになれぬ老大家達が。可愛い可愛い、陛下の赤子に。

 ここでは「天皇」が絶対的な「倒すべき悪」として新左翼を統合しているわけだが、これは右翼が「天皇陛下万歳」と叫び維新運動を行う様とまったく同じである。反発するにしろ、思慕の念を抱くにしろ、あくまで「天皇」の存在を前提としないと、社会運動の変革はできない、というよりも統一した組織体を起こすこともままならない。「天皇」の名を叫ぶときにこの日本列等に住む人々は初めて「日本人」となりえる。
第4章では閉鎖された精神病棟で患者たちの治療のために、天皇を題材とした演劇を行う場面が描かれる。ストーリーとしては「チルチルミチルの兄弟が青い鳥を探して偉くて強い人の所に鳥籠を持って歩き、最後は昭和天皇の所に行き、玉音放送の直を賜る」というものである。この演劇を俳優として行うことで、精神病棟の患者たちは劇的な回復を見せる。結局この演劇は圧力により中止されてしまう。最後に見沢はこう結ぶ。 

すべての人々がその瞬間、激しく凄絶と照る曙光の中で、感情失禁して、すべてを棄てた〈陛下の赤子〉と成り果てた。
 
 「天皇」は社会から疎外された存在をも、いや疎外されているからこそ、包摂する。世の中から疎外されたすべての人間はその聖性を、一般の人間よりもはるかに感ずる。現在でも外部からの調査をほとんど入れず、人権団体からも批難されている日本の「監獄の中の監獄」である医療刑務所での収監経験のある見沢にしか書けない文章であろう。
 では作者の見沢自身はどうであったろうか。本書は基本的に、全ての章は見沢自身が実体験した出来事に基づいて書かれている。いわば私小説に近く、見沢のモデルと思しき田村という登場人物も登場する。しかし、見沢はその田村を描く時には、あくまでカリカチュアし、その政治思想をきちんと突き放して描いている。見沢は革命家として生きつつも、文学者として自己を客観視し、時には冷酷なまでにその存在を「外部」から観察しようとする視点を失わなかった。「文学者」見沢知蓮の凄味はまさにここにこそある。

むすび
 見沢はついに文学者として大成することはなかった。1998年には三島賞候補になったものの、受賞はならず、相当に荒れたという(なお、選考委員の中で石原慎太郎のみが見沢を評価したという)。落選後はエッセイや公演を中心に活動したが、薬物の乱用による体調不良もあり、仕事のドタキャンを繰り返し、最後にはほとんど錯乱状態であったという(なお、小指をナイフで切り落としかけるなどの行為も行っている)。『天皇ごっこ』のあとがきにて「第六章、七章とこのテーマはライフワーク的に書き続けて行きたい」と記しているが、結局、その後が書かれることは無く、『天皇ごっこ』は未完成に終わった。そして見沢文学もその完結を見ることなく作者の自殺という結末を迎えた。
また、見沢は活動家としても疑問符がつく点が多い。スパイ粛清事件にしても殺された人物が本当に公安のスパイであったかはともかく、大勢の人間で寄ってたかって嬲り殺したという点では弁護の仕様が無い。基本的に、一人に標的を絞り、目的を達した後は自裁をする右翼・民族派のテロのやり方とは根本的に違っている。
また、『天皇ごっこ』第一章にて昭和天皇崩御による恩赦を目的として、様々な所に手紙を出す登場人物が描かれているが、これは作者の見沢もかつて獄中で行っていた。見沢は同じく獄中経験のある野村秋介に恩赦が出るように働きかけて欲しいと頼む手紙を出し、逆に厳しく叱責されている(野村は見沢を慮りつつも、「熱い風呂に入っている時はじっとしていろ」とアドバイスを送っている。この手紙は『友よ荒野を走れ』に所収されている)。
見沢は活動家としても、文学者としても半端なまま終わってしまった。自らの思想に殉じ、多大な衝撃を残した(そして現在も与え続けている)三島由紀夫や影山正治、あるいは蓮田善明や野村秋介といった人びとに比すればその思想も行動もはるかに卑小に見える。
しかし、我々は大多数が単なる卑小な凡人である。社会に衝撃を与える劇的な死も、精緻な思想も、誇るべき美学も持ちようが無い。だからといって、昨今の一部のリベラル・フェミニスト運動やLGBT運動に見られるように、自らを「弱者」と規定し、それを利権化しようとする動きにも加担は出来ない(念のため付言しておくが、私は本来の意味でのフェミニズム運動やLGBT運動には反対ではないし、弱者を圧迫しようとする思想の持ち主ではない)日々、地べたを這い蹲りながら何とか生きるちっぽけで不完全な存在である。
映画『天皇ごっこ―たった一人の革命』のパンフレットにて大浦信行は「(見沢は)未完成で成功しなかったからこそいい」と述べている。見沢は確かに未完成で、未熟なまま逝った。そのもがき苦しみは傍から見れば見苦しくもあったろう。しかし、私たちは三島や野村のような「超人」にはなれず、かといって「弱者」にもなれない。天にも昇れず、地下にも堕ちることはできない私たちは大地の上を時にのた打ち回り、苦しんで生きるしかない。監獄の中でのた打ち回って小説を書き、出所後も社会という見えない監獄の中で苦しみ、死んだ見沢の文章は、この大地の上を歩き、生きる私たちにとって、一つの道標になるのではないか。見沢文学が読み継がれる価値があるとするならば、まさにこの点にあると、私は考える。

参考文献
見沢知蓮『天皇ごっこ』 第三書簡 1995年11月
見沢知蓮『獄の息子は発狂寸前』 ザ・マサダ、1997年6月 
野村秋介『友よ荒野を走れ』1991年4月
天皇ごっこ―たった一人の革命』パンフレット

 

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見沢知廉