民族文化研究会

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【関西】定例研究会報告9 戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――ワンダーフォーゲル運動を中心として

 去る平成30年10月6日に開催された民族文化研究会関西地区第6回定例研究会における報告「戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――ワンダーフォーゲル運動を中心として」の要旨を掲載します。

 

序論 戦間期ドイツ青年運動とファシズム

 本稿の意図は、戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――こうした傾向は、戦間期ドイツ青年運動をのちにファシズム運動へと合流させるのだが――を、とりわけワンダーフォーゲル運動を中心として概観し、その思想的構造を明らかにすることである。ただ、戦間期ドイツにおける青年運動が、いかに多数の青少年を動員したにせよ、こうした運動は同時代の政治闘争の嵐のさなかでは、さほど重視すべきとは思えないかもしれない。ワンダーフォーゲル運動をはじめとして、この時期の青年運動の「右旋回」はある程度知られているものの、ナショナリズム研究においてメジャーであるわけでもない。では、なぜこうした限定的な影響力しか持たなかった戦間期ドイツの青年運動に着目するかというと、こうした戦間期ドイツ青年運動に従事した青年らの思想的履歴を参看したとき、そこに第一次大戦の敗戦というカタストロフィに動揺するなかで、「ロマン主義的心性の高まりから、急進右派運動へのアンガージュマンへ」という軌跡を辿る、同時代のドイツナショナリズムの「典型」が伺えるからである。すなわち、戦間期ドイツ青年運動の民族主義的傾向を検討することで、同時代のナショナリズムそのもののコアへと接近できるわけである。

 

一 教養市民とドイツ文化の危機

 第一次世界大戦を挟んだ数十年余に渡る時代の激動は、ドイツ社会にとって重大な転換点となった。市民層の融解と資本市場の抬頭によって、ドイツ社会の伝統的様相は一変したのである。このように、帝政末期/ワイマール期ドイツは、時代の変容によって、旧来の社会諸構造が自壊していく時代――「崩壊の経験」(蔭山宏) ――として規定できる。そして、このようにドイツ社会がその相貌を激変させるさなかで、学問的状況・精神的状況も構造転換を遂げつつあった。旧来の教養市民層 と伝統的なドイツ文化が衰勢の危機に立たされたのである。
 「文化」とその担い手である「教養市民層」は、ドイツでは格別の重みを有している概念だ。イギリスやフランスでは文化・学術の主体が経済的中間層だったのに対し、ドイツでは文化・学術の主体は大学人や高級官僚といったアビトゥア試験によって選抜されたエリート層だった。こうした文化的エリートこそ、教養市民層である。ドイツでは、文化・学術を文化的エリートである教養市民層が担い、上からの近代化の装置として機能させる構図が形成されていたのである 。そして、ドイツにおける「文化」には、イギリスにもフランスにもない固有の含意が内包されている。ノルベルト・エリアスは「文明」が先進国の自意識であるのに対し、「文化」は後発国の自意識であると唱えたが 、ドイツにおける「文化」はイギリスやフランスの「文明」との対抗図式において理解できる。「文明」が普遍性を前提とした物質的成果――産業の繁栄や経験科学の隆盛――を意味するのに対し、「文化」は固有性を前提とする精神的美質――民族精神の純粋性や伝統的文芸・美術の卓越性――を表現している。「文明」を体現するイギリスやフランスに対して、「文化」の誇示によってドイツは自意識を貫徹しようとしたのである。
 このように、イギリスやフランスの「文明」への対抗である教養市民層の強力な統御による「文化」の発揚こそ、ドイツにおける知の形式を根源的に規定していた。そして、こうした「文化」と「教養市民層」の関係こそ、「文化国家」を標榜するドイツの統一と正統性を支えていたのである。しかし、資本市場の抬頭による市民社会の構造そのもの変質と、決定的な追い打ちとしての第一次世界大戦の敗戦によって、教養市民層は没落し、価値観の多様化が生じた。特殊ドイツ的な文化――教養市民層を担い手とする文化の統合――は危機に瀕していたのである 。

 

二 青年運動の隆盛(一)――ワンダーフォーゲル運動

 近現代における教養市民層のドイツ青年たちは、こうして旧来の文化と学知の構造が破綻するさなかで、自身の地位と将来像の動揺に見舞われ、やりきれない閉塞感を覚えていた 。やがて、こうした状況下で、若き教養市民層は、旧来の教育機関や伝統的なドイツ文化に懐疑の目を向け、こうした権威の桎梏からの解放を望み始める。そして、家庭や学校に代わる自己教育の場を戸外に求めて野山を渡り歩いた。この自然散策は、既存の価値の瓦解を前に、新たな理念を探る試みでもあった。これこそ、ワンダーフォーゲル運動 であり、ドイツにおける青年運動の源流である。
 1896年春に、ベルリン大学に在籍していたホフマン・フェルカーザンプが、ギムナジウムの生徒とともに野山を散策した。これが、ワンダーフォーゲル運動の発端であった。ホフマンは、厳格な社会・学校・家庭・教会からの脱却志向と自由な生への憧憬を自然散策に仮託したが、この主張は鬱屈した教養市民層の青年たちに支持された。大学を卒業して外交官として中近東に赴任が決まったホフマンは、同志だったカール・フィッシャーに自然散策グループの指導を任せた。フィッシャーはこのグループの公的組織化まで漕ぎ着け、ワンダーフォーゲルはドイツ全国へと広がっていく。フィッシャーはこの自然散策グループの正式名称を「ワンダーフォーゲルWandervogel(渡り鳥)生徒旅行委員会」としたが、やがてこの自然散策そのものがワンダーフォーゲルと呼ばれるようになった。
 こうしたワンダーフォーゲル運動の思想的背景として、「青年の発見」と「ロマン主義的心性」に着目しなければならない。アメリカの社会史家J・R・ギリスは、ヨーロッパの1870~1900年における際立った社会現象として「青年の発見」を挙げた 。この時期に、中産階級の下で、通学期間の延長、子供の数の減少によって、若者が家庭や学校への従属と依存を強め、子供でもなく大人でもない生涯の一時期が浮上してきたのである。青年層の増大と世代間闘争の勃発は、「青年を制する者は世界を制する」というフレーズが登場するほど 、青年の存在を社会において巨大なものにしつつあった。そして、こうした時代状況において、青年運動が抬頭し始めたのである。
 そして、「ロマン主義的心性」だが、これは「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」という詩的な名称において象徴的に表れている。フィッシャーによる「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」との命名の背後には、ドイツ・ロマン派の詩人たちが流離う人生の哀歓を渡り鳥に仮託して歌いあげた心情への共感があった。ワンダーフォーゲルの提唱者たちは、ヴィルヘルム期に構築された学校システムへの反抗を、ロマン主義的心性によって充足していたのである 。彼らは、近代文明――そして、それが産出したところの近代的学校システム――に対しては自然や過去にありえた自由人としての生を、合理的知性――そして、それを育てるための教育カリキュラム――に対しては生々しい感情と体験を、近代民主主義――学級での空虚な討議を連想させる――に対しては共同体の絆と指導者の辣腕を、キリスト教――教会は国家や学校と共に青年を支配する機構だった――に対してはゲルマン信仰を対置させた。ワンダーフォーゲルに集った青年は、自らを中世の遍歴学生や吟遊詩人に見立てていたのだ。文化から逃れ、野原に解放を求めた青年は、大人に抗するための新たな理念を見出した。散策する森はもはや単なる森ではなく、回帰すべき「ゲルマンの森」として出現する。そこで、彼らは、近代文明に蝕まれる以前の、中世における遍歴学生や吟遊詩人の自由を享受するのである。ここに、のちに彼らがファシズムに旋回する遠因が潜在していた。

 

三 青年運動の隆盛(二)――自由ドイツ青年

 1910年代には、ワンダーフォーゲル運動をはじめとする諸青年運動は、連合体である「自由ドイツ青年」へと発展していく。この「自由ドイツ青年」運動の契機となったのは、青年運動家による1913年のナポレオンからの「解放戦争百周年」記念祝典だった。この対ナポレオン戦勝記念祝典は、政府・軍・教会・在郷軍人会の協力の下で、ベルリン・バイエルンザクセンなどで相次いで開催されていた。これらの国家による祭典に対抗して、青年運動家が開催したのが「自由ドイツ青年」大会だった。この大会を采配したのはギムナジウム時代にワンダーフォーゲルを経験した学生であり、祭典の会場はワンダーフォーゲルの聖地とされていたホーアー・マイスナー山だった。祭典は国家による青年の教化に反対し、「解放闘争における真の愛国心」「祖国への責務」「青年の自立」を掲げた。そして、ドイツ青年運動のワンダーフォーゲルからの脱却が唱えられ、積極的な政治行動が主張された。新時代における理想の青年像を「ドイツ的青年」と規定し、こうした「ドイツ的青年」が自由を守り抜くため闘うことこそ、来るべきドイツ青年運動の理念であるとされた。
 こうして、ドイツ青年運動は、感傷的・自足的なワンダーフォーゲル運動の段階から、思想的・闘争的な政治運動の段階へと足を踏み入れたのである。田中栄子の表現を借用すると、「いまや運動のシンボルマークは、ヴァンダ―フォーゲルの「渡り鳥」から「松明をかかげて突き進む馬上の騎手」になった」 のだ。自由ドイツ青年は、1900年代初頭にギムナジウムの生徒であった若者たちが大学生へと成長した際の受け皿となった。そして、そうした青年たちを、ギムナジウム時代におけるワンダーフォーゲルの眠りから覚まし、政治的局面へと目を見開かせた。やがて、自由ドイツ青年は、左派と右派の内紛から分裂する。しかし、以降の青年運動でも、自由ドイツ青年が提示した、ワンダーフォーゲル運動の段階におけるゲルマン回帰の夢想から政治運動の段階における現実政治上のフォルク再建への闘争の発展という路線は維持されていく。そして、ワイマール体制の危機に際会し、古ワンダーフォーゲル(のちにドイツ義勇団)・新ワンダーフォーゲルドイツ国家青年同盟といった右派の青年運動団体は、ナチへの傾倒を深めヒトラーユーゲントへと合流した。

 

結論 文化への憎悪と反転――戦間期のドイツ青年の精神性

 これまで、ドイツ青年運動の歴史的展開を概観し、その変遷を辿ってきた。伝統的な文化と学知の様式への異議申し立てとして出発したドイツ青年運動は、あらゆる桎梏からの解放を求めながら、ファシズムへと最終的に合流していくわけである。
 出口剛司は、こうしたドイツ青年における特異な時代体験を、ニーチェゲーテ・シュペングラーを援用しつつ、文化と自然の対抗というドイツ青年における思想的構図の破綻として描出している 。出口の議論を概観し、戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向を理解するための示唆を獲得したい。
 まず、検討されるのは、1900年代のニーチェ旋風において同時代のドイツ青年へとニーチェの与えた絶大な影響である。ニーチェが『悲劇の誕生』で展開したアポロン原理とディオニュソス原理そして明朗なギリシャギリシャ悲劇の対抗を、ドイツ青年は「文化」と「自然」の対抗として読解した。ここで、ニーチェのこうした対抗図式に導かれ、文化を代表する都市を忌避し、自然の森林を遍歴するワンダーフォーゲルがドイツ青年によって提起された。しかし、「文化」と「自然」の対抗――正確に表現すると、「自然」による「文化」への対抗というドイツ青年の戦略――はある陥穽を孕んでいる。ドイツ青年が解放の拠り処とした「自然」は、純粋な「自然」ではありえず、ゲルマン古代神話やゲーテの文学によって文化的に再解釈された、謂わば「文化」化された「自然」であった。こうした「文化」化された「自然」に潜む罠に、やがてドイツ青年は嵌まり込む。その契機となるのが、シュペングラーの『西洋の没落』で展開された歴史哲学である。この著作の主題は、文化論にゲーテ形態学――自然の不断の生成と消滅を比較・観察し自然の普遍的歴史相を探究しようと試みる理論――を適用し、文化の普遍的展開図式を獲得しようとすることである。このような、シュペングラーにおける文化を徹底的にゲーテ的自然論のアナロジーにおいて理解する議論は、いわば「自然」化された「文化」を含意する。ドイツ青年における「文化」化された「自然」は、シュペングラーのこうした「自然」化された「文化」を容易に受容してしまう。文化と自然の混淆という現実的様態において、「文化」化された「自然」と「自然」化された「文化」は等値である。ここで、「文化」の終焉と再生を、能動的な悲劇として生き抜こうとするシュペングラーの姿勢は、かつて「文化」へと抵抗を試みたドイツ青年を「文化」――そして、ナチズムという民族文化を復権させる政治運動――へと回帰していくわけである。

 

参考・引用文献

蔭山宏『崩壊の経験』 慶應義塾大学出版会 2013年

野田亘雄『教養市民層からナチズムへ』 名古屋大学出版会 1988年

野田亘雄『ドイツ教養市民層の歴史』 講談社 1997年

F・K・リンガー『読書人の没落』 名古屋大学出版会 1991年

西村稔『文士と官僚』 木鐸社 1998年

N・エリアス『文明化の過程(上)』法政大学出版局 1977年

N・エリアス『文明化の過程(下)』法政大学出版局 1978年

秋元律郎『マンハイム 亡命知識人の思想』ミネルヴァ書房 1993年

T・マン『ブッテンブローク家の人びと(下)』岩波文庫 1969年

W・ラカー『ドイツ青年運動』人文書院 1985年

上山安敏『世紀末ドイツの若者』 講談社 1994年

田中栄子『若き教養市民層とナチズム』 名古屋大学出版会 1996年

J・R・ギリス『〈若者〉の社会史』 新曜社 1985年

D・J・K・ポイカート『ワイマル共和国』 名古屋大学出版会 1993年

出口剛司『エーリッヒ・フロム』 新曜社 2002年