【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第三囘)――雅樂

 平成30年10月6日に開催された民族文化研究会関西地区第6回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第三囘)――雅樂」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから雅樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、雅樂の成立 二、樂制改革(區分・樂器・理論) 三、雅樂の稽古法  四、 明治以前の雅樂
五、 明治以降の雅樂  六、雅樂に携はつた人々

一、 雅樂の成立

 日本雅樂とは、日本古來の儀式音樂や舞踊などと、佛教傳來の飛鳥時代から平安時代にかけての四百年あまりの間に、中國大陸や朝鮮半島から傳へられた音樂や舞、そして平安時代に日本獨自の樣式に整へられた音樂などです。雅樂の語源は孔子の説く禮樂思想に基づいて祖先を祀る祭祀音樂として雅聲が發生し、漢の時代になつて宮廷音樂としての雅樂が誕生しました。この雅樂の意味は支配階級で行はれる雅正の樂、つまり上品で正しい音樂と云ふ意味です。漢以降、雅樂は近隣の諸國家やシルクロードを通じても影響を受け、雅樂は一部俗樂化し、後に燕樂が誕生しました。雅樂は唐にも受け繼がれ、遣唐使が唐樂を學び、日本音樂は大きな影響を受けました。その頃の日本の宮廷音樂は、朝鮮の新羅樂・百濟樂・高句麗樂が全盛で、三國樂として朝鮮音樂が演奏されてゐました。また、聖徳太子が取り入れたと言はれる呉の伎樂も法會などの餘興に採用されてゐました。
 大寶律令が定められ、治部省に雅樂寮が設置され常時百人を超える外來樂人が所屬し祭祀で演奏をする取り決めができました。この流れの中、更に大陸音樂輸入が加速し、林邑樂・度羅樂・渤海樂などが皇室行事や大社大寺の儀式音樂となりました(圖一)。西暦七五二年、東大寺大佛開眼會にて外來音樂家や日本の樂人數百人が一堂に會して、各々の國の舞樂を競演すると云ふ國際的な最大の行事が開催されました。このとき使はれた樂器の多くが正倉院に保管され、現在では毎年秋に奈良國立博物館で當時の樂器を實際に鑑賞することができます。
 平安時代に入り、律令政治から攝關政治體制になり、藤原氏が擡頭して儀式音樂も貴族によつて日本的な雅なものへと改革しようと云ふ氣運が高まつてきました。唐の勢ひも衰へ、取り入れてきた厖大な大陸音樂を整理し國風化する時勢となりました。西暦九世紀半ばから約半世紀かけて行はれた改革を樂制改革と呼びます。おおまかには樂曲の系統區分の整理、樂器と樂器構成の整理、音樂理論構造の簡素化です。詳しくは項目二にて後述します。この時代から平安新作歌曲として、民謠や俗樂を唐風や高麗風な節囘しをつけて藝術歌曲とした「催馬樂」、漢詩文を日本語讀みして聲明風の節囘しをつけて詠ずる「朗詠」が生まれました。また、國風歌舞として日本古來の歌舞を再整備して大成した「御神樂」、東國地方の風俗歌舞を源流とする「東遊」なども生まれました。宮廷音樂以外にも今樣・雜藝・歌披講などの聲樂曲が誕生した平安中期以降に、現代に傳承されるのとほぼ同じ形式の日本の雅樂が完成されました。
 このやうに眺めると、雅樂とは古代日本音樂の集合體の總稱と云へます(圖二)。これらをすべて雅樂として扱ふのですが、狹義の雅樂は大陸系舞樂を指し、最狹義で言へば舞の無い器樂の管絃を除いた舞樂のみとされてゐます。しかし現代に於ての雅樂の一般的な定義は、宮内廳樂部が扱つてゐる音樂のうち、洋樂を除くものと考へていいでせう。


二、樂制改革(區分・樂器・理論)

 雅樂の形式や使用する樂器は樂制改革により定まりました。樂制改革の内容を圖三に示してゐます。第一は樂曲の系統區分の整理統合でした。複雜になつてゐた音樂系統を中國系と朝鮮系の左右二方に分離統合します。右方は三韓新羅・百濟・高句麗渤海樂を統合して高麗樂(狛樂)としました。左方は俗樂・宴饗樂がミックスされた唐樂に、中國系とは云へない林邑樂を統合して唐樂としました。それ以前の日本で普及してゐた散樂や伎樂、度羅樂などは異質なものとして除外されました。伎樂の假面劇、散樂はその後猿樂を生み出し、更に能樂に影響を與へましたが、度羅樂は傳承が杜絶えてしまひました。統合後それまで傳承された樂曲を本來の系統や原曲を尊重しながらも、日本的風土にあふやうにアレンジしたり、また多くの新曲も作られました。結果、音樂はきめ細かい日本趣味溢れるものになりましたが、大陸風のダイナミックな曲風は薄れました。現代でも有名な管絃曲の越天樂はこの當時に日本で作られた新曲です。
 第二に樂器群の整備です。平安初期、室内音樂が好まれるやうになつてをり、樂器編成は小規模で效果を擧げられるやうに工夫されました。重複されると思はれる樂器、低音樂器などが除外されていき、十四種の樂器編成に限定されました。
 第三に音樂理論と構造の整備です。長年に渡つて渡來した音樂は、樂種が多いだけではなく中國や朝鮮の音樂變遷ごとに理論も變化しながら傳へられたので厖大な音樂理論が存在してゐました。音名の和名化や音階などもいくつもの違ふものがあつたやうですが、これらを統合して長調に相當する「呂」と短調に相當する「律」に二分し、それぞれの主音の位置で六調子にまで簡素化しました。大體が五音音階になつてゐますが、奈良時代には七音音階も相當數あつたと考へられてゐます。音樂理論は陰陽道とも結び附き、ひとつの思想としても影響を與へました。呂を陽、律を陰ととらへ、ただの理論はさまざまに異なる意味が附與されるやうになりました。また、六調子を「時の聲」として四季に對応してゐると云ふ考へ方もできました。平安時代の人々は音樂を時間の流れに關聯附けて捉へてゐたやうです。
 平安時代の音樂家である源博雅が殘した「博雅三位横笛樂譜」は改革以前の姿を傳へるもので、これと現代に傳はるものとの比較から、日本化の足跡が明確になりました。

三、雅樂の稽古法

 雅樂は打物(打樂器)・彈物(絃樂器)・吹物(管樂器)の三種の樂器群によつて構成されてゐます。雅樂を演奏する人はまづ吹物の何れかひとつを學び、その後、 彈物のいづれかひとつとみつつの打物を學びます。吹物を習ふ時、最初にするのが唱歌です。唱歌とは演奏を擬音化したもので、手で拍を取りながら曲の旋律を歌ふことです。唱歌をすることで曲の流れや息のとり方を理解したり、更には暗譜にも役立ちます。雅樂の家系を樂家といい、樂家の雅樂傳承法もしられてゐます。樂家に生まれた男子は、幼少の頃から父に唱歌を教はります。譜面もなく父の歌をオウム返しに歌ひ、樂器は持たされません。何年も唱歌をし、諳じられるやうになつたときに初めて樂器を持たされます。例のひとつとして篳篥はチラロルと發音し唱歌します。
 
四、明治以前の雅樂

 項目四では大變革を迎へる明治までの歴史を解説します。とは云ふものの前述した雅樂の成立に於て、平安時代までの雅樂は既に解説してゐます。なので鎌倉~江戸時代をこの項目で解説しようと思ひます。
 鎌倉時代に入り、政治の實權が公家から武家に移るとともに、雅樂もそれまでの時代ほど生き生きした展開を見せなくなつてきます。少なくとも音樂と云へば雅樂と云ふやうな勢ひはなくなり、むしろ、雅樂は公家代表の音樂と云つた立場に置かれるやうになりました。しかし、源平の武將たちも、足利將軍達も、公家の雅やかさには一種の憧れを持つてゐたらしく、それを代表する藝能である雅樂には大いに關心を持つてゐたやうです。雅樂に關する催しのパトロンをしたり、寄進をしたり、中には樂や舞に造形の深い人物も現れました。
 しかし、京を中心に起こつた応仁の亂で京の藝術生活に著しい損害がでました。雅樂の場合は、樂人の離散や死亡などにより、宮中での諸行事にも支障をきたすやうになり、かなりの數の行事が取りやめとなりました。応仁の亂後、正親町天皇天正十四年(西暦一五八六)大阪の四天王寺附きの樂人のうち數名が京の宮廷に召し出され、公の行事の樂舞の缺員を補ふやうになりました。更に南都(奈良)の寺社の樂人の中の四家が京に移住し、宮中の左方の樂人と合體して、左方の樂を受け持ちました。そして天王寺方の樂人は宮中では右方の樂を專業とすることになりました。これにより、宮中の行事はこの三箇所(京都・奈良・天王寺)の三方樂所を據點とする家系の樂人達によつて江戸時代の終はりまで受け持たれることになりました。このやうに、今日に傳はる古典藝能は、桃山時代に雅樂の復興が圖られたことによる影響が大きくなつてゐます。
 江戸時代になると、後水尾天皇寛永三年(西暦一六四二)に、三代將軍家光が天皇を二條城へ招いて御遊を行ふにあたり、長らく演奏されなくなつてゐた催馬樂の中から「伊勢之海」が古譜を基に復元されました。この時代は、朝廷に關はりを持つ徳川將軍家やその周邊で雅樂が愛好され、樂器の收集や書物の編纂なども行はれてゐます。また、寛永一九年には、紅葉山にある徳川祖廟の祭祀のための專從の樂人を江戸に若干名常駐させることとなりました。これを紅葉山樂人と呼びます。
 江戸時代になると中世に失はれた數々の曲目が復興されました。朝議や祭祀に密接に關はつてきた國風歌舞(催馬樂・東遊・御神樂等)も相當數斷絶してゐましたが、江戸時代の樂人達の熱心な研究に基づき復興しました。このやうに、雅樂には江戸時代の色彩がかなり含まれてゐることにも注意が必要です。

五、 明治以降の雅樂

 明治政府となり、皇居が京都から東京へ移るに伴つて、樂人たちは大擧東京へ移ることとなり、これまで宮中の行事の樂舞に携はつてきた三方樂人ばかりでなく、奈良や天王寺の社寺のための樂舞を主として行つてきた樂人たちも逐次上京しました。明治三年には宮中の太政官内に雅樂局が設けられ、從來の學所や雅樂寮は消滅しました。參集した樂人たちは、太政官布告により、伶人・伶生などとよばれ、これまで公家の家系で相傳されてきた樂曲も含め、すべての樂家の相傳曲をいつたん雅樂局へ持ち歸り、改めて共通の選定譜としてすべての樂人たちが研修することとなりました。それまでお互ひに個別の流儀で傳承してきた音樂を公開し、一緒に合奏しようと云ふのであるから、節囘し、リズムなどあらゆる細かい點での突き合はせが必要となつてきます。家の藝を否定された伶人のうち幾らかは恥辱に耐へられず三方樂所へ歸つてしまひました。
 しかし、改革は續きます。幹部伶人たちにより正式な雅樂局の曲目「明治撰定譜」が制定されました。また、これまで公家樂家が傳承を專有してゐた雅樂歌謠、和琴、樂箏、樂琵琶などの公式演奏も、今後は專ら伶人の手に委ねられることになりました。更には、樂人の家柄でなかつた一般の人々も能力さへあれば自由に稽古が許されることになりました。過去千年にわたり家の藝として雅樂を守つてきた伶人のうち幾らかはこれにも耐へられず歸つてしまつたものもゐました。幾ら能力がない子でも孫はまた能力があるかもしれない、そのやうに長い目で物事を見てゐた元樂人たちはそのやり方を否定されたのです。しかし一般人が雅樂を稽古するやうになり、樂人の東京移住によりプロのいなくなつた三方樂所の社寺や各地の由緒ある社寺の周邊で、民間人の雅樂團體が立ち上がるきつかけにもなりました。
 雅樂局の伶人は洋樂も稽古するやう通達され、當時の西洋音樂移入の受け渡し役にもなりました。ここでも若い伶人は面白がつて練習するものが多かつたのに對して、中年以降の伶人は不滿から古巣へ歸つたものもゐました。とは云へ外國人教師に就いて吹奏樂の練習を始めると、伶人達はみるみるうちに上達して二年後には雅樂稽古所で歐州樂の演奏をするまでになりました。とは云へかなりの伶人は不滿を持つてをり、樂長以下四十數名が辭表を提出するストライキ状態になりましたが、當局側の反省もあり雅樂局はなんとか命脈を保ちました。
 樂部の成員は五〇名と定められてゐましたが、大東亞戰爭の敗戰を契機に半分の二六人に削減されました。今日では一般人で雅樂を學ぶ人の數は一層増える傾向にありますが、現在も本流の宮内廳式部職樂部の定員は半減された儘です。
 科學技術の進歩に伴ひ、録音・録畫技術が發達しました。雅樂は西暦二〇世紀初頭に早くも録音がなされてゐます。現在では市販のCDでもビデオでもインターネットでも雅樂を樂しむことができるやうになつてゐます。明治以後に始まる西洋音樂との出會ひも、雅樂に有形無形の影響を與へてきました。例として近衞秀麿編曲のオーケストラ版越天樂などです。雅樂の藝術性を追求する動きも重要な動向のひとつです。寺社や宮廷の儀式から離れて國立劇場やコンサートホールに於て雅樂の演奏を耳にすることができます。しかし、宮内廳樂部以外に公的な專用ホールや劇場が未だないことは附け加へておくべき事案です。

六、 雅樂に携はつた人々

 平安時代源博雅(西暦九一八~九八〇)。源博雅醍醐天皇第一皇子克明親王の子、母は藤原時平の娘です。横笛、琵琶、大篳篥、和琴、箏などに秀でた管絃者で、催馬樂も得意としました。博雅の催馬樂は、その四男の至光を經て、藤原頼宗、俊家、宗俊、宗忠と藤原家の人々に受け繼がれ、その流儀は藤家流とよばれるやうになりました。博雅の管絃の名聲は高く、逢坂山の蝉丸のもとに祕曲、流泉・啄木を學ぶために三年間通ひ八月十五日の夜にようやく傳授されました(今昔物語より)。また、朱雀門の前で、鬼と笛をとりかへ、その笛が後に葉二となづけられたこと(十訓抄より)など、數多くの説話が殘されてゐます。源博雅は康保三年(西暦九六六)に村上天皇の敕命を受けて、「新撰樂譜」と云ふ横笛の樂譜集を編纂しました。 新撰樂譜は、當時の日本で知られる曲目の殆どすべてを網羅したのではないかと思はれるほど大規模な樂譜集で、二百曲近い曲目が收めれてゐました。この樂譜は、「博雅笛譜」として古來名高く、樂譜の一部分は後世の書寫の形で現代にも傳へられてゐます。
 鎌倉時代の狛近眞(西暦一一七七~一二四二)。源平の合戰、源頼朝による鎌倉幕府の誕生、承久の亂の失敗を經て、政權が公家から武家へと大きく轉換しようとしてゐた時期に、南都興福寺の舞人である狛近眞は、息子が家を繼がうとしないことの家藝の斷絶や、舞樂の道の衰頽を憂へて「教訓抄」を著しました。全十卷からなり、曲の由來、故實などを狛家の傳へにとどまらず、幅廣く集めて詳しく書きとどめたもので、綜合的な樂書のさきがけ的な存在となつてゐます。狛近眞は左舞を傳へた狛氏の嫡流で、孫の朝葛も「續教訓抄」を殘してゐます。
 室町時代の豐原統秋(西暦一四五〇~一五二四)。応仁の亂の後、京の都は荒廢の極みに達してゐました。樂人の多くが都を去つていき、朝廷の舞樂や管絃も斷絶の危機にありました。そのやうな時期に京都方の笙の樂家の樂人である豐原統秋は、樂道を後世に傳へるべく、雅樂全般に就いて古書を廣く引用しながら全十三卷からなる「體源抄」を著述しました。豐原統秋は和歌を歌人として名高い三條西實隆に、連歌連歌師の宗良に學ぶなど、文藝・茶・書にも通じた風流人でした。當時、町中に山里風の趣を持つた家を作る「市中の山居」なるものが流行してゐましたが、豐原統秋の庵もさうした作りであつたらしく「山里庵」と呼ばれました。
 江戸時代の安倍季良(西暦一七七五~一八五七)。「樂家録」を著した安倍季尚から六代目の幕末の篳篥の名人です。諡號は樂音樹。季良は多くの弟子を持つ一方で失はれた雅樂曲の復興に生涯努めたことが知られてゐます。著書には「山鳥祕要抄」などがあります。
 明治時代の上眞行(西暦一八五一~一九三七)。「年のはぢめの~」で始まる正月歌の作曲をした人物で、明治時代に活躍しました。京都居住の奈良方の樂家出身者でも江戸時代の末に京都に生まれました。明治三年には新たに設置された雅樂局の伶人となり、明治七年に東京へ移ります。翌年、西洋音樂の傳習も命じられ、日本で最初のチェロ奏者にもなりました。以後、唱歌の作曲、正倉院樂器の調査、東京音樂學校教授の兼務など、多くの仕事を精力的にこなしました。明治の變革期にあつて、本業の雅樂以外にもその持てる才能をいかんなく發揮した人物です。


參考文獻

雅樂入門辭典 芝祐靖
雅樂逍遙 東儀俊美
新版雅樂入門 増本伎共子
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史
ひと目でわかる日本音樂入門 田中健

 

f:id:ysumadera:20181012174052j:plain