【書評】谷崎昭男『保田與重郎――吾ガ民族ノ永遠ヲ信ズル故二』(ミネルヴァ書房、平成29年)

    

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 本書は、ミネルヴァ日本評伝選のうちの一巻として執筆された、晩年の保田の謦咳に触れた著者による保田與重郎伝である。保田本人に「侍側」(これは、保田が好んだ表現である)した著者の手になる本書は、その丁寧で行き届いた叙述において、極めて優れた評伝たりえている。だが、本書の特徴は、そうした評伝としての優秀性というよりかは、その形式に反して「単なる評伝であることを超え出る」ところだ。序文で、保田の「私の見るところ、近来の文学史研究方法は、興信所の調査以上に出来ない」という一節を引用していることからも明らかなように、「興信所の調査」を想起させるような個人史の無味乾燥な堆積に、本書は重きを置かない。

 では、本書は作品論の視座からのものか、いや思想史的手法からのものか、と問うてみても、どの技法であれしっくりと本書の雰囲気に馴染まない。無理に本書の「方法」を言語化してみると、保田の生が産出する具体的で直接的な息遣いに、作品論や思想史が反響することで湧き上がる旋律とでも言おうか。本書の冒頭で保田の故郷である大和桜井の、そして末尾で保田が晩年を過ごした身余堂の光景をそれぞれ執拗なほど描写してみせるのは、陳腐な個人史を越えた保田の生の具体的で直接的なありようを浮上させる試みであるように思われる。

 奈良の素封家である保田家に生を受け、古典の地そのままである大和桜井で過ごした幼年期。長じて旧制高校に進み、時代の知的流行だったマルクス主義に関心を示す少年期。「コギト」と「日本浪曼派」に依拠し、日本古典の復興を一大文芸運動として提起した青年期。大東亜戦争に文明開化の論理の終焉と偉大な敗北の精神を目撃した壮年期。戦後に時代が突入しても、その思惟を志操をもって一貫させた老年期。本書の叙述は、保田の文芸と行動を鮮烈に活写してみせる。だが、この一幕の劇にも似た保田の文芸と行動を描写する叙述の奔流も、冒頭と末尾に配置された大和桜井と身余堂という保田の生の二つの「現場」に挟み込まれる構成になっている。折り目正しい「評伝」の叙述も、こうした保田の生の具体的で直接的な「現場」から生まれ、やがてそこへと還ることになるわけである。

 こうした本書の「方法」は、著者が明言しているように、「文学のことばで保田與重郎を記す」ことにほかならない。本書は、保田の作品解釈や思想史的見解については、オーソドックスな立場であるように思われる。だが、本書の目的が、トリッキーな新機軸を打ち出すことではなく、保田の生を「文学のことば」によって鮮烈に活写することにあるのならば、これはいささかも瑕疵にはなるまい。この「文学のことば」によって、あるいは大和桜井や身余堂といった保田の生の「現場」を訪ねることによって、本書は「興信所の調査」のような個人史の無味乾燥な堆積であることを逃れ、評伝を超え出た評伝たりえたのである。