民族文化研究会

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【関西】定例研究会報告7 葦津珍彦の天皇観についての一考察――「思想の科学」での論争を中心に

 去る平成30年9月1日に開催された民族文化研究会関西地区第5回定例研究会における報告「葦津珍彦の天皇観についての一考察――「思想の科学」での論争を中心に」の要旨を掲載します。

 

はしがき

 戦後の神道界を代表する思想家であった葦津珍彦(1909(明治42年)~1992(平成4年)はGHQや左派言論人による天皇制廃止論に対して、理論的に真っ向から戦いを挑んだ人物である。その論はいわゆる神がかり的な神道論・天皇論ではなく、精緻な理論をつくしたもので、その水準の高さはむしろ鶴見俊輔竹内好といった「敵」の側から賞賛された。また葦津自身、右・左に関係ない幅広い交友関係を持ち、言論人としての度量を示した。著作も膨大な数に上り、全体的に見て理論面では低調であった戦後日本の右翼・民族派界においてはその存在感はずば抜けたものであった。

 その葦津の名を高からしめたのは昭和37年4月に刊行された「思想の科学天皇制特集号に掲載された論文「国民統合の象徴」である。論者のほとんどが天皇制に対して否定的な論を展開する中で葦津のみが天皇制擁護論を展開。その論理展開の強靭さに多くの論者が唸らされた。そしてこの論文に対する反論という形で橋川文三が「思想の科学」同年8月号に「国体論・二つの前提」を発表。さらにそれに反論する形で翌年の1月号に葦津の論文「続・国民投票の象徴」が発表される。結局この論争はこれ以降展開されなかったが、これをきっかけにして葦津と橋川は交友関係を持つこととなり、橋川の死まで文通が続けられたという。

 本稿では、この「思想の科学」誌上で行われた論争を検討することで、葦津の天皇論、引いてはその広大な思想像の一端を捉える試みをしていく。

 なお、「思想の科学天皇制特集号は、発刊直前に出版元の中央公論社が前年に起こった嶋中事件の影響を受け、「(発行することは)時期的にまずい」ということで雑誌を断裁し、しかも掲載内容を事前に公安調査庁や右翼に回覧させていた事実が発覚した(いわゆる「思想の科学事件」)。思想の科学編集部は討議の結果、中央公論社から離れ、新たに思想の科学社を設立。以後「思想の科学」は同社から発行されることになる。当該号はそのような緊張状態の下で発行されたことにも留意しておきたい。

 

1,「国民統合の象徴」における葦津の天皇

 葦津は論文「国民統合の象徴」の中でまず、「天皇制(あるいは君主制)は共和制に比して遅れた制度であり、時代が進むと同時に消滅する」という当時の一般的な論を浅はかであると断ずる。その上で、アメリカやフランス、英国の政治制度、あるいは王室の特色や歴史を詳細に検討し、その上で日本の天皇制と比較検討する、という方法論を採っている。その中でも葦津が頁を多く割いているのは英国である。葦津は労働党党首で英国の首相を務めたクレメント・アトリーの「国王は、もっともよく知る人である」という言葉を引用する。その上で次のように記す。

 

 王は、首相と同じくすべての情報資料の報告を受ける。ところが首相の方は、政党の総裁としては常に党の組織を固め、瞬時も油断することなく反対党と相戦ひ、行政権の執行者としては、閣僚をまとめ日常の活動に奨励せねばならない。最高の資料を受けても、静かに研究し、考へる余裕がない。これに反して王は、首相のやうな繁忙を強制されることなく、常に資料を精読し、専門家を引見して、その知見を深める。(略)ドイツの哲学者ライプニッツは、王にのみ与へられた特権の大きいことを論じて、世襲君主制の王子が通常人の水準に近い素質を持っているかぎり、いかなる学者も及ばない程度の教養人になりうるといっている。

 

 葦津が英国王の特質を論じたのは、「共和政か君主制か」といったような単純な二元論を廃する狙いがあったからであろう。議会制民主主義が根付いた国であっても、君主は単なるロボットではなく、国民を統合する機能を確かに持ちえるのだ、という一例を提示している。

 これら外国の政治制度を詳細に分析した後、葦津は日本の天皇制の検討に入っていくのだが、そこで葦津は当時の皇太子の結婚に沸く日本人の国民心理に見られるような強い国体意識を「日本の政治が生んだものでもなく、宗教道徳が生んだものでもなく、文学芸術が生んだものでもない。それら全ての中に複雑な根をもっている」と評す。そして最後に「日本の天皇制は繁栄しつづけるであろう」と結んでいる。葦津はここで拙劣に「国体」とは何か、という問いに結論を出そうとはしていない。「私は、古今の学者が努力して、しかも成功しなかった国体論を自ら建設しようなどという大それた野心は持たない」と書いているようにである。実際、葦津の他の書籍や文章を読んでも、問題意識や扱う分野が広すぎて、「天皇・国体観」が獏としてしまう印象を受けてしまうのである。

 むしろ葦津の天皇論に一貫しているのはプラグマティズムではないかと思われる。「国民統合の象徴」本文を読んでも観念的・抽象的な論がまったく出てこない。また広範な外国の政治思想史の知識を有しているのも葦津の大きな特徴であろう。だからこそ、論文のむすびが、「日本の天皇制は繁栄しつづけるであろう」と唐突に終ってしまうのを見ると、かなり奇異な印象を持ってしまうのである(この点は橋川も指摘している)。


2、橋川文三「国体論・二つの前提」について

 この葦津の論文に対し、同年8月号の「思想の科学」に橋川の「国体論・二つの前提」が掲載された。橋川は葦津論文の読後感想を「一種の「穏健」なリベラリズムのないし実証主義の印象をさえ与えた」と記す。その上で「氏の新しい護教論は君主制価値を比較制度論的実証の手続きによって立証し、とくにそれが日本人の社会心理的実態に対して有効な統合機能を果すであろうことを証明しようとするもの」であると評価している。しかし一方で「葦津論文が国体論の政治史的制度論を示していない」展を問題として明治以降の政治思想史の分野から葦津に批判を加えようとする。

 橋川は明治政治思想史において特に伊藤博文を重要視し、憲法制定前後の伊藤の記録や談話を引用する。結論として橋川は「伊藤が自然的存在としての国体から憲法を作ろうとしたのではなく、むしろ国体の憲法をつくろうとした」「その「国体」は決して日本民族の長い生活意識と連続したものではなく、彼らの宮廷崇拝や御蔭参りの意識とは異質のものである」としている。

 橋川は「国体」は近代以降、伊藤を初めとした指導者が国民統合のために作り上げた歴史の浅いものにすぎず、明治以前の日本人の心性や精神性とは分断されたものであると考えている。この橋川の論に従えば「日本民族に悠久に受け継がれてきた天皇・皇室への想い」を前提とした天皇論・国体論は無効となってしまう。

 さらに橋川は植民地にとって国体がいかなる存在であったかを問うことの必要性も訴える。戦前・戦中の皇民化政策において植民地の人間が苛烈な歴史を背負わされた事実を踏まえた上で、「われわれがもし皇室ということに限ってその永続の願望を披瀝するとしても、われわれは決してなにごともまかったかのようにーあたかも山河自然のそれを語るようにーその願望をあらわしてはならないであろう」と結んでいる。戦前日本の植民地政策をすべて天皇の問題に結びつけることはかなり強引な論理ではあるが、無視しえない意見ではある。 

 では、葦津はこの橋川の批判にどのような反論をしたのであろうか。

 

3、葦津の応答「続・国民統合の象徴」について

 翌年の「思想の科学」1月号において葦津は橋川論文に対する応答「続・国民統合の象徴」を発表している。葦津はまず「明治政府の閣内で有力なのは、保守的岩倉と進歩的大隈の二潮流」であるとし、伊藤博文については「欧化貴族主義者であり、その憲法思想といえば、すでに開設を公約された議会を少しでも無力にしようとするのに熱心なだけである」として、そもそも橋川とは前提からまったく違う明治政治思想史の見方を提示する。この根拠としては、伊藤が憲法制定時に議会の議案提出権を否認する草案を提出、あるいは天皇に対する上奏権を削除しようとした点に求めている。さらに葦津は伊藤の事跡や記録を詳細に確認した上で伊藤を「主義主張の人に非ずして、ただ局面の情勢、権勢の関係を敏感につかんで遊泳する俗物的官僚主義者にすぎない」。そのような人物である伊藤に「「国体を創出する」などというようなアムビジョンのあろうはずがない」とする。葦津はあくまで「有能な政治思想家であった伊藤博文が「国体」を新たに創造した」という橋川の史観に異を唱え、国体、あるいは天皇に対する想いが明治以前も日本人の一般意思であったということを力説するのである。

 そして植民地に対する「国体」観念の影響については石原莞爾や今泉定助、前田虎雄らのアジア開放を目指した運動を紹介し、「使命感としての国体論が、異民族圧迫の論理と結びつくケースがあると同時に、異民族解放の論理と結びつくケースのあることも知らねばならない」として一面的な「国体」論を展開する愚を戒めている。熱心なアジア主義者であった葦津耕次郎を父に持ち、その活動を身近に見てきた葦津としてはこの点は声を大にして訴えたい部分であろう。また幸徳秋水の論を引用し(少なくともアナーキストになる前の時期までは)天皇社会主義は矛盾しないという発言を紹介している。葦津はこれらの人物の国体論を引用、検討し、対外的にも「国体」思想は多様であり、そう易々と概念規定できないということを立証している。

 

結び

 以上、葦津と橋川の論争を見てきたが、どこか噛み合っていない印象を受けてしまう。その理由としては、互いが依拠する天皇観・国体観、もっと言えば歴史観の相違にあると思われる。葦津は天皇にしろ、国体にしろ、「連続性」を何よりも重視する。戦前・戦後だけでなく、明治以前からの歴史を断絶のない、一つの流れとして捉えようとする。一方橋川は、断絶は断絶として受け入れ、その上で歴史を捉えていこうとする史観を有している。この両者の史観の違いが、両者のこれほどまでの明治政治思想史の捉え方の相違を生み出している原因であろう。

 なお橋川は後に「保守派中の先鋭なポレミスト」「その天皇論は伝統的右翼者流の水準を超えたものとして注目される」と葦津を高く評価している。また葦津の著作の一つである『武士道―戦闘者の精神―』の書評を書くなどもしている。葦津の側も橋川を「能筆の人」として高い評価を下している。史観や立場が違えども、互いを尊重する古きよき知識人の交友は純粋に美しい。結局これ以降両者の間で論争は行われなかったが、論争の内容よりも両者がこのような美しい交友関係をもてたことも、一つの収穫といっていいのではないか。

 葦津の天皇論は橋川の言うとおり様々な国家:地域の政治体制との比較制度論が大きな特色であることは確かである。それは葦津の豊富な海外の政治史・法思想史の知見があればこそである。しかし、葦津の天皇論の全体像はそれだけでは捉えきれない面もある。葦津は「戦闘者」として津の地鎮祭訴訟案件、「建国記念の日」制定問題、今上天皇即位における様々な祭祀・儀式のあり方に関する運動など、多様な活動を行った。そのような場で「戦略的に」行われた言説が果してどのようなものであったのか。それらは本稿で検討したような学術的な論稿とどこが一致し、あるいは一致しないのか。この点も詳しく探求していかなければ葦津珍彦という稀代の思想家の姿は見えてはこないだろう。

 

参考文献 
葦津珍彦『日本の君主制』 葦津事務所 平成17年4月
              『次代へつなぐ葦津珍彦の精神と思想 生誕百年・歿後二十年を記念して』神社新報社 平成24年7月
橋川文三橋川文三著作集〈6〉日本保守主義の体験と思想・現代知識人の条件』筑摩書房 2001年3月
思想の科学  昭和37年4月号」 思想の科学研究社
思想の科学  昭和37年8月号」 思想の科学研究社
思想の科学  昭和38年1月号」 思想の科学研究社