民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

【関西】定例研究会報告6 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第二囘)――日本民謠

 去る平成30年9月1日に開催された民族文化研究会関西地区第5回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第二囘)――日本民謠」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。

 第一囘では日本音樂の概要に就いて解説致しました。今囘からは日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから日本民謠に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

 

一、日本民謠の定義 二、日本民謠の發生と歴史 三、日本民謠の種類と分類 四、日本民謠の詩型  五、日本民謠の移動 六、日本民謠の音樂理論 七、現代に於る日本民謠の立場

 

一、日本民謠の定義

 NHKラジオ第一、民謠をたづねて(毎週土曜日12:30~12:55)の冒頭、

 ─民謠は心のふるさと。私達の遠い祖先が素朴な生活の中から生み出した、豐かな心の現れです。今日もこの懐かしい民謠の數々でおくつろぎください。─

 民謠をたづねては昭和二七年から全國各地の公民館で觀客に披露した民謠を收録したものを放送してゐます。放送では必ず上記の文言を司會が話してゐます。一般には民謠の定義はこのやうな認識で問題はないと思ひます。しかしもう少し踏み込んで定義をしていきませう。

 民謠と云ふ漢語は誰が、いつ發案したのでせうか。もともと民謠は單語として存在はしてゐたけれども、死語と化してゐました。ではどう呼ばれてゐたかと云ふと、地方歌や風俗歌、國々田舎歌などと呼ばれてゐました。しかし森鴎外上田敏らの飜譯家の立場の人間が明治中期、das VolksliedやForksongの飜譯語として使用するやうになり學術用語として優位に立ちました。ちなみに一八世紀には西歐は日本に先んじて民謠研究が盛んになつてゐました。日本はその研究熱に觸發された形となります。

 辭書を引いてみませう。民謠とは民間に自然に發生した歌謠、俗謠、俚謠(大漢和辭典)。民衆ないし民族の間から生まれ、その生活に根附いた歌謠。流行歌が時代的に民衆的なのに對して、民謠は地域的に民族的に民衆的なのである(大辭典)。民謠と歌謠、俗謠、俚謠、流行歌との區別も完璧ではなく、各分野の學者によつても解釋が異なり、定義は簡單に決めがたいです。記紀萬葉集の歌も民謠に加へる學者、更には日本人らしい曲なら全て日本民謠と解釋してゐる學者も居ます。俚謠 ・俗謠・流行歌の定義は町田佳聲氏に依ることにします。俚謠は素朴な農民たちが自作自演した歌、俗謠は都會の專門家たちに技工化された俚謠 、流行歌は普通の歌謠が大衆の支持を得て流行したものとします。歌謠の定義は大辭林より、言葉に節(旋律)を附けて聲に出して歌ふもの、とします。

 今囘は歌謠史研究の立場からと、現行民謠の在り方から民謠の條件を定義します。第一に自然性。專門家が創作した藝術的な歌謠ではなく、自然に聲を合はせて歌はれ、口から口へ、耳から耳へ受け繼がれてきたものです。最初に口ずさんだ人間はゐても、作者はわからないものとなります。第二に歌謠性。直接口から耳ヘ音を聞き、調子を聞き、歌ひ方を聞いて感動する「 聞く文學」と云ふ性質を持つものです。第三に集團性。民謠の大部分が勞働歌であるやうに、個人的感情ではなく集團活動により創造された民衆詩であることです。最初は個人の創作であつても、集團活動により各村などに廣がるうちにその個性は消滅し民衆性・社會性のみが殘ります。第四に素朴性。「民謠には人間生活の底を流れる不易の眞實が有る。民謠が時代を越え、時には處を越えて長く歌はれる所以はそこに有る」(雨情會代表 古茂田信男)。その他北原白秋など有名な詩人が民謠の良さを素朴さに求めてゐます。第五に郷土性。民謠は常にその郷土にふさはしい律動と旋律を持つて歌はれ、必ずどこかにその土地のにほひと云ふものを殘してゐます。土地の匂ひこそ民謠の生命です。

 以上をまとめ、民謠とは本來、郷土の民衆集團の間に自然に發生し、傳承されてゆくうちに、その生活感情を素朴に反映した歌謠。このやうに定義します。

 

二、日本民謠の發生と歴史

 上記のやうに定義した民謠はいつ、なぜ發生したのでせうか。いつに就いて明らかにするのは極めて困難です。群馬縣や埼玉縣で出土した埴輪像によれば、西暦三、四世紀の頃には東國で太鼓などの樂器によつて拍子を取る郷黨の娯樂として、歌舞や民謠のやうなものが發達してゐたことが確認できます。しかしこの時代に初めて發生したとも考へられず、繩文時代にも民謠はあつたと思はれますが、現在に傳はつてゐるものは稻作以降の歌のみです。

 ではなぜに就いてです。一般に心理學的に見た文藝發生説は遊戲起源説・性欲起源説・感動起源説・摸倣起源説で、歴史社會學的には信仰起源説・勞働起源説があります。歌謠はうたふことそれ自體の快樂を目的として發生したものではなく、他の目的を達するために必要な外的條件に基づいて生まれたとされてゐます。誰が(演唱者職業)、何處で(演唱場所)、何のため(演唱目的)、どのやうな動作を伴つて(演唱時動作)と云つた四つの基本的なものが民謠の要素になつてゐます。これを民謠の四代要素とします。日本では歌垣と云ふものがあります。歌垣は最近は亂婚祭との認識がされてゐますが、本來は娯樂行事ではなく、信仰の中心となつてゐる山などの聖地で、耕作の開始される春や收穫のあげられた秋などに、老若男女が集ひ飮食したり歌舞をしたりする季節的行事です。萬葉集風土記に記述があり、信仰・生産・勞働に深いつながりを有してゐます。民謠はまづこのやうに信仰・生産・勞働の歌があり、そこから派生した祝唄・山唄・田植歌・舟歌ができ婚禮・饗宴・祭式などの樣々な用途に歌ひかへられながら流動していつたものと推測されます。また、信仰から始まつたとされる盆踊りも日本民謠の本質として舉げられます。

 次に各時代の民謠の歴史です。古代は常民(庶民)たちに歌はれる民謠、職業專門家により歌はれる藝謠、作者の自己表現を目的とした創作歌の三種類に分けられます。記紀歌謠にもこれら三種が混在してゐます。更に古代時代を二時代に區分すると、記紀・萬葉歌謠を中心とする大歌時代。神樂歌・催馬樂・風俗歌を中心とする風俗時代に分けられます。大歌時代の大歌は宮廷の大歌所から、風俗時代の風俗は元來地方民謠の意ですが、貴族たちの遊宴歌謠として風俗歌をもとにした歌が中心的勢力だつたからです。特に催馬樂は風俗歌を唐樂の催馬樂の曲調や拍子に合はせて歌つたものです。他に民謠が文獻にでてくるのは土佐日記などの物語日記類にわづかに出てくるのみで、民謠集のやうなまとまつた文獻はまだ見當たりません。

 中世時代の民謠も二時代に分けることができます。今樣雜藝時代と小歌圈時代です。日本歌謠も時代の流れに合はせ、日本固有の音樂が作られていき、貴族の沒落につれて新たに賤民階層が藝能や音樂の時代を作りました。今樣雜藝時代は、後白河上皇が撰ばれた梁塵祕抄にある田歌・足柄・黒鳥子・伊地子・舊川などと呼ばれる民族歌謠系の歌などで、これらは直接中世の民謠と交渉を持つものです。ただ、田歌以外は殆ど歌詞がわからない状態です。中世後期の小歌時代の小歌とは、田樂や猿樂などの長形式の歌ひものが次第に時代感情から遊離して新たに臺頭した新興の歌謠群のことを指します。七七七五調で歌はれることが多い小歌は、今樣や早歌の流れをくみます。小歌を收録した閑吟集(西暦一五十八年)は、田樂や早歌、貴族・僧侶などの連歌などが多いのですが、中には近世以降の傳承歌謠から見て明らかに民謠系小歌と目されるものもかなり混じつてゐます。しかし民謠集として獨立はしてをらず、あくまで文獻から民謠的要素を抽出しただけです。しかし室町時代の田植ゑ歌を大規模に收録した田植草紙と名附ける寫本類が昭和初期に見つかりました。これは完全に民謠集として作られたもので、これが中世民謠の代表文獻とされてゐます。

 近世・明治の民謠に就いて。今日わたしたちが民謠と呼んでゐるものの殆どは直接この期間に作られました。現代民謠の九割までが近世・近代民謠の延長です。小歌系の歌は三味線の伴奏なしでは歌はれなくなり、新作の歌詞も三味線に合はせて歌はれるやうになりました。近世歌謠を大別すると流行歌謠・淨瑠璃歌謠・歌舞伎歌謠・地方歌謠の四種になります。そのなかで民謠は地方歌謠に屬してゐます。近世民謠を語る上では流行歌謠との關係性がとても深くなつてゐます。小歌の七七七五調は三味線音樂によつて分解され、三・四┃四・三┃三・四┃五の輕快なリズムを生み出し、民謠にも大きな影響を及ぼしました。都市では三味線音樂が次から次へと流行してゐました。その間に地方の農山漁村にはこれらの流行唄と同時に、直接生産勞働に伴ふ純粹の民謠が田舎歌にふさはしい歌詞と律調とによつて歌はれてゐました。近世にはこれら民謠だけを集めた文獻も數多く現れました。例として『延享五年小歌しやうが集』や『山家鳥蟲歌』(別名諸國盆踊り唱歌)『鄙迺一曲』『巷謠篇』などが代表的な民謠集として今日もなほ重寶されてゐます。近世に於てもう一つ考へなければならないのは、一般に城下町ではどこでも小歌・盆踊りなどの音曲類に就いて禁制の布令が嚴しかつたことです。岡山などは藩内に於る歌舞音曲などあらゆる慰安行爲を禁止し、そのため岡山には著名な民謠と稱されるものは殆どありませんでした。

 近世後期は流行歌の全盛時代なので、幕末から明治中期までに普及した民謠は殆どが御坐敷唄化された俗謠の類で、半ば流行唄的な存在のものばかりになりました。以降に就いては「七、現代に於る日本民謠の立場」にて記述します。

 

三、日本民謠の種類・分類

 明治三九年、志田義秀氏が日本民謠概論を雜誌帝國文學に連載しました。民謠研究の要を國民詩革新・國語改良・國民樂確立の三點から説き、ドイツに於る民謠研究に範を求めながら、民謠の起源・種類から古代以來の日本民謠の形式の變遷を具體的に論じやうとしました。氏は民謠を大別して勞働に屬するもの六種(農・漁・樵・工事・馬士・茶摘)と、舞踏に屬するもの六種(神事・祝事・盆・踊・兒童・童謠)とし、更にこれらを細分化して提示しました。日本民謠概論からわかることは、現行民謠の大半は勞働に關する俗謠が中心で、舞踏に關するものは盆踊りと子守歌が大半である、と云つたことです。この分類から進んで、尤も要を得てゐる分類法は柳田國男の民俗學的分類案です。柳田氏は歌はれる場所および歌ふ人の身柄を中心として分けました。すなはち民謠には必ず歌ふ目的と場所が定まつてゐることです。柳田氏は民謠を次の十項目に分けました。田歌(田植稻刈等)・庭歌(麥打米搗等)・山歌(草刈・木おろし等)・海歌(船卸・海苔取等)・業歌(大工・蹈鞴踏等)・道歌(馬追牛方等)・祝歌(酒盛嫁入等)・祭歌(神迎神送等)・遊歌(盆正月等)・童歌(子守手毬等)。また、町田佳聲氏が廣義の民謠として郷土民謠・わらべ唄・流行唄と分けた分類法もよく使はれてゐます。わかりやすいやうに圖①にまとめてゐます。

 志田氏以上に柳田氏の分類案で、日本の民謠は作業に伴ひ作業の目的を果たすために歌ふ勞作歌が中心となることがわかります。日本の民謠は外國の民謠に比べて仕事歌はずいぶんと細かく分かれて發達してゐますが純粹娯樂の民謠と云ふのは少ないと云ふことです。現在では殆どすべての民謠の附帶目的は娯樂にあるけれども、それらの歌の本義は信仰や勞働起源のものがフシやリズムが面白いために酒盛り歌などに流用されたものが多いと云ふ事實があります。日本の民謠には愛の歌や結婚の歌や青年のための歌が少ないなどの批判があるのですが、この原因は長い封建制度儒教、佛教の影響が大きいのではないかとされてゐます。

 右の分類案とは別に民謠の曲節で五種類に大別することもできます。一つは木遣り口説で、聲明あたりから派生したと考へられる長篇の歌です。二つは甚句と呼ばれる七七七五調の歌です。三つは江戸・京都・大阪を中心とする都會で生まれた流行歌の地方化した歌です。四つは祝福藝人たちが歌ふ祝詞のやうな歌です。五つは甚句流行以前に歌はれてゐたと思はれる古調で、木遣り口説などとは異なる詩形の歌です。このうち甚句と木遣り口説で八割近くを占めてゐます。これら五種類の曲節しかないとは云へ、人々の生活環境によつて、多樣多種に分化してゐます。用途ひとつにうたひとつと云ふ考へ方ではなく、わづか五種類の歌を、人々はいかに利用してきたかに就いて考へるはうがいいかもしれません。さうなると分類法も曲中心から使用してきた人間中心へと移して考へてもいいでせう。

 

四、日本民謠の詩型

 現行民謠の大半が今樣半形式の流れをくむ七七七五の近世小唄調を根幹とするものであることは、既に述べました。殘りは島嶼部や山間未開の地方に遺存してゐるものです。しかしそれも室町小歌までしか遡れません。詩型の變遷を圖②に表してゐます。七五調は輕快、七七調は野鄙、五七調は古雅、五五調は佶屈な曲調です。次に各調の代表的な歌を紹介します。

 七五調七五七五形茨城縣農作歌「ぶてたぶてたよ この麥は これは旦那に 納麥」。七七調七七七七形奧州白河地方田植ゑ歌「關の白河 來てみておくれ 娘そろうて 田植ゑをなさる」。五七調五七五五七五形京都府桑野郡地方田植ゑ歌「おもしろや 今日には車 淀に船  淀に船  桂の川に 向かひ船」。五五調はイザナギイザナミ二柱の「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」以外には歌謠の世界では殆どみられません。

 

五、日本民謠の移動

 民謠は地域性があると説明しました。しかし同じ民謠が全國に點在してゐる場合もあるのです。代表的なものにハイヤ節・追分・新保廣臺寺・松坂・エンヤラヤなどがあります。これらの歌はいづれもどこかの土地で生まれると、偶々何かの原因によつて各地へ廣まり始め、今日では北海道から九州にまで及ぶ結果となりました。しかし同じ曲であつても現實には地域ごとに少しづつ曲調が異なつてゐます。例として田助ハイヤ節、阿久根ハンヤ節、三原ヤッサ節、宮津アイヤエ節、佐渡おけさ、庄内ハエヤ節、津輕アイヤ節と各地でハイヤ節は名前を變え少しづつ調子も違つてゐます。ハイヤ節は鹿兒島から發し、船によつて北海道まで運ばれました。人々によつて歌も運ばれると云ふ性格を知ることができます。また、それぞれの土地には獨特の文化が有ることもわかります。文化は傳播し派生する、文化は同化し新しいものを創造すると云ふ性質を持つてゐます。

 

六、日本民謠の音樂理論

 日本民謠が學術的に研究され始めたのは大正時代からです。日本の音樂全般に云へることですが、個別の曲や演奏そのものを重視する傾向があり、體系的に音樂理論が研究され始めたのは明治からでした。それまでは雅樂で中國の音樂理論を取り入れ、聲明もこれに倣つた程度でした。音樂理論をまとめたのは上原六四郎氏と小泉文夫氏です。上原氏は日本音階が五音階であるとし、陰旋と陽旋に分類しました(圖③)。小泉氏は民謠調査を通して日本音樂には旋律中にその音樂を決定する音、すなはち核音の存在を見出し、その核音を含んだ四種類の音階、テトラコード理論を提示しました(圖④)。

 また、小泉氏は民謠のリズムに就いて、拍を持ち、歌詞の一字に一音があてられる(シラビック)の八木節樣式と、無拍で歌詞の一字に多音があてられる(メリスマティック)追分樣式に分類しました(圖⑤)。特にメリスマティックな曲は音程もリズムも五線譜で表しづらく、譬へるならば英語の發音をカタカナで書くやうなもので、記號で表すには限界があります。リズムと拍子で言へば、西洋民謠では二・三・五・七拍子と澤山ありますが、日本の民謠は殆どが二拍子です。近くの朝鮮民謠には三拍子が多いですけども、日本では八丈島に若干見える程度です。二拍は表間と裏間と云ふ一拍を二つに分けた構成で、拍の時間的伸縮も自在なのも特徴です。

 

七、現代に於る日本民謠の立場

 現代日本人の多くが民謠に就いて前時代的で單調で暗くて古臭く品の無いものと敬遠し、西洋由來の音樂を聞いてゐます。しかしそれはむしろ日本民謠のなりたちや歴史的發達の經緯を正しく理解しないために生じた偏見であり、これまで書いてきたやうに民謠を正しく系統的に理解すれば右の諸性格がそのまま日本民謠の特徴であります。民謠の正しい理解のためには民謠發生の歴史や、私達の遠い祖先がこの素朴にして豐かな文化遺産をどのやうに享受し傳承してきたかをもつとつぶさに知る必要があると思ひます。

 現代では東北の民謠が壓倒的多數を占めてゐます。筆者が先日贖入した民謠CD集百六十曲にも東北民謠は縣ごとに收録されるほど多かつたです。なぜこのやうに東北一邊倒と云つた形になつたのかを推察するに、一つは文化傳播が西から東だつたことです。西では粹な三味線歌が民謠に影響を與へてゐるうちに、歌ふものが專業化していつて歌ふ人に才がないとなかなか聞かれなくなつて言つた事。飜つて東北は甚句と言つてフシも短くだれでも歌へる歌が多く、民謠歌手が多數いたことです。二つに維新の波が東北は遲く、日本の他の地域より歌が殘つたことがあげられます。三つは東北から東京に出稼ぎにきた人たちのくつろぎの場として民謠酒場なるものが戰後盛況になつたことが舉げられます。過去の農作業を懐かしんだ東北人が工業勞働の單調さを忘れ民謠を皆で歌ひ樂しむ、そんな場でした。民謠酒場はマスコミも無視できないほどの影響力がでました。この中で形成されたのが民謠と云へば東北、と云ふ感覺でした。しかし現代はこれが禍して逆に東北民謠の流行歌化が激しく、西日本の素朴な民謠が見逃されてゐると云ふ事態になつてゐます。

 この流行歌化の流れは現代の民謠の抱へるジレンマそのもので、そもそも戰前の民謠歌手は實際に勞作をしながら歌つてゐた者が少なからずいたのに對して、戰後民謠歌手は機械化された農業のために、民謠を生活の一部として歌ふことができなくなつてゐました。そのうへ三味線歌手から轉化した民謠歌手のもとで修行する場合が多く、御坐敷唄的な美聲と節囘しを競ふことになつたのでした。民謠とは、郷土の民衆集團の間に自然に發生し、傳承されてゆくうちに、その生活感情を素朴に反映した歌謠です。現代の民謠は郷土性も生活性も無く、さしづめ東北流行歌化してゐます。流行歌化した民謠は凝つた節囘しと美聲はあつても、各々の生産者たちが歌つてゐたときにかもしだしてゐた歌のクセ、音色を捨ててしまつてゐるのです。このクセと音色こそ民謠の大きな特徴なのです。

 では民謠を實生活に取り戻すことは可能なのでせうか。云へ、不可能です。日本は既に工業社會を通り越して第三次産業社會となり、少ない農業從事者も機械で田植ゑをしてゐます。過去の農業社會で生まれ育つてきた民謠はもう實生活の中では生きる場を失つたので、姿を消すよりほかありません。ただ、早くから娯樂的な性格を備へた民謠もあるので、さうした歌だけが生き續けていきます。しかし民謠が單なる娯樂用の歌になつたとしても、民謠と呼ぶからには、單に民謠の曲節を竝べるだけではなく、先の四代要素を基盤にした演唱方法を考へるべきです。民謠は時代とともに變化してきたのだから、これからも變化を續けていくべきだと言ふ聲もあります。しかし今日の日本社會の構造にあつては、農業社會下の民謠が變化する必然性はまつたくないのです。となれば、これからの民謠は、農業社會下で生きてゐた時の最後の状態で固定させ、その時の四代要素をもとに、當時の人々の生活感情を歌ひ上げるべきなのでせう。それが郷土色です。そして、それ以外での形の民謠を表現する場合は、民謠と云ふ文字とは別の名を用ゐればよいのかもしれません。

 例へば日本の民謠をできるだけたくさん材料として集めて、その中から不易的な民謠の發想を抽出し、そこから新たな創作の一助とすると云つた手法です。傳統音樂をただ單に保存すると云ふことだけでなく、その中から日本人の持つてゐるこころとかリズム感と云ふものを發見することによつて、もつと民衆に生きる力を與へ、何らかの生命のひとつの源泉となるやうな方向に持つていければと思ひます。しかしそれは民謠と云ふ單語で扱へるものではなく、新しい名詞の音樂となるのでせう。


參考文獻

日本の民謠  淺野建二
日本の民謠  竹内勉
別册一億人の昭和史 日本民謠史  毎日新聞社

 

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