民族文化研究会関西支部発足趣意書 「日本」の創造に向けて

 去る5月6日に、民族文化研究会関西支部が発足し、最初の活動である民族文化研究会関西地区第1回定例研究会が開催されました。この支部発足に際し、下記のような趣意書が採択されました。民族文化研究会関西支部は、この趣意書にある理念に依拠し、活動を展開していきます。

 

民族文化研究会関西支部発足趣意書 「日本」の創造に向けて

 

 「日本」とは何か。この問いは、我々日本人にとって極めて切実な問いである。殊に近代以降、西洋近代という軍事的にも思想的にも自分たちとはまったく異質な「他者」が眼前に現れて以降、現代に至るまで日本人は常に自らのアイデンティティの再構築と点検に迫られてきた(もちろんこの「西洋」とは実態としての西洋そのものではない。「近代」なるものが現れ、世界を作り直して以降、私たちを無意識下に規定するシステムのような存在である)近代以降の日本人の思想的営みはほとんどすべてこのような問題意識の下に行われてきたと言っても過言ではない。中江兆民が著書で「日本に哲学なし」と書き記した事実に端的に表されているように、近代以降、日本人は否応無く、「西洋」と対峙することで「日本」と「日本人」を規定してきた。

 西洋近代思想、マルクス主義、あるいはポストモダン思想のような日本の「外」からもたらされた思想でもって日本の後進性、あるいは劣位性を指弾し、自己を優位な立場に置くという振る舞いが何度と無く今までに繰り返されてきた。反対に日本の独自の思想や文化のあり方を称揚し、民族的なナルシシズムに浸るという行いも数え切れないほど行われた。大雑把に腑分けするならば、前者は「左」もしくは「革新」、後者は「右」もしくは「保守」として分類できるであろう。

 このような思考法は「古代から現代に至るまで続いている一貫した日本的なるもの」が存在するという前提の上で成り立っている。この「日本的なるもの」は天皇制であったり、神道であったり「日本人の主体性無き集団主義」であったりするわけである。この「日本的なるもの」に対して否定的立場を取れば「左」に、肯定的立場を取れば「右」になるわけである。そしてこのような現象は日本だけではなく、非西洋社会が近代化し、自文化に言及する際に必ず起きるものであろう。

 しかし、そもそも「西洋」を下敷きとした「非西洋」の思想史を叙述しようとする際、それは当然ながら西洋思想(最もこの「西洋思想」なる存在も相当に実態が怪しい概念規定である)を下敷きにした思想史にならざるを得ない。つまりこの時点で、その「非西洋」の思想史は「西洋」の存在に規定されたいわば「作られた伝統」もしくは「近代」なるものを自明とした思想史、にならざるを得ないのである。このジレンマはどのようにして克服すればいいのか。「西洋近代」なる存在にもはや積極的な価値を見出せなくなった現在、これは日本だけではなく、世界史的にも非常に重大な命題である。

 このような問題意識に応答する形で、昨今、思想史学の分野などを中心に、「古代から現代に至るまで続いている日本的なるもの」を下敷きにした思考法そのものが批判にさらされている。曖昧で不透明な「日本的」という概念を下敷きにするのではなく、個々の歴史を独立したものとして捉え、解読していこうという試みである。中世なら中世、近世なら近世とそれらを現代の我々とは独立した「他者」として考えていこう、ということである。いわば「日本」という概念を排除した上での思想史である。

 この方法は、一見、正当なように見える。しかし、そのような思想の歴史は一体どのような地盤を有することになるのであろうか。もしかすると、そこにすべてを平板化・均質化するグローバリズムが入り込みはしないだろうか。その結果その地域特有のかけがえのない「何か」が喪失、もしくは破壊されはしないだろうか。

 もちろん私たちは、「古代から現代に至るまで続いている日本的なるもの」を下敷きとした思想史のあり方には加担することは出来ない。「原初の輝かしいあるべき日本」を想定した行き着く終着点の一つとして挙げる事が出来るのは一時期よく言われた縄文文化起源論である。しかし私たちは縄文時代に還れないし、またその必要も無い。私たちは「古代から現代に至るまで続いている日本的なるもの」に寄りかかることなく「日本」に依拠して思想し、発言し、行動していかねばならない。当然だが「日本」を排除した思考法にも賛同しない。

 私たちの依拠する「日本」とは何か。それは「持続と変容」の過程そのものである。この日本列島の上で先人たちが営み、紡いできた歴史を見つめ、あらゆる思想・哲学・風俗・心性が誕生し、変化・変容していく過程そのものを「日本」として捉え、それに依拠することである。

 例を挙げる。日本思想史、あるいは仏教史に欠くべからざる存在として親鸞を上げることができる。親鸞の「絶対他力」「悪人正機」の思想はもちろん彼自身の強烈な個性と意思によって作り上げられたことは間違いない。しかし一方で親鸞の思想は平安浄土教思想の存在を抜きにしては語れない。歴史的な条件と親鸞の存在があって初めて「親鸞の思想」が歴史に存在しえたのである。そしてその親鸞の思想も数多くの弟子や、学者による注釈や読解を経て、初めて我々の前に「古典」として存在しえている。

 次に日本古典文学の最高峰の存在とされている『源氏物語』を挙げる。『源氏物語』は江戸中期までには仏教的因果観あるいは儒教的倫理観に基づく道徳的な読み方が主流であった。本居宣長はこの読み方に異議を唱え、「もののあはれ」による読み方こそが正統であると主張したのである。ここで宣長による『源氏物語』というテクストの読み直しが行われたのである(あるいはこの行為は本来的な意味での「翻訳」といってもいいであろう)。

 さらに言えば『源氏物語』そのものがそれ以前の膨大な和歌や物語、漢文、貴族社会の儀礼、宮中内の女性社会が生み出した風習など、膨大なコンテクストを踏まえて記されているという事実も見落としてはならない。『源氏物語』は単に紫式部という稀有の個性の持ち主が存在したから成立したのではない。そこに膨大なコンテクストが存在したからこそ成立したのである。そして紫式部の死後も『源氏物語』はあらゆる注釈者や学者によって書き加えられ、改変され、読み替えられ、現在に伝わっている。本邦の国文学の一番の仕事はまずは書誌学的な研究であった、ということは何度も強調すべきことである。

 そして親鸞源氏物語はこのような先人たちの考察や注釈による「持続と変容」を経て初めて「古典」足りえているのである。では、その膨大な「持続と変容」を為さしめているものとは何なのだろうか。それは親鸞の思想や源氏物語の価値が、時代の推移に関らず、現代に至っても猶、失われていないからである。このような存在を一般に「古典」と呼ぶ。

 私たちが依拠すべき「日本」とは先人たちが飽くことなく繰り返してきた注釈と読み直しそのものである。その「持続と変容」のコンテクストを踏まえつつ、テクストを読み、新しいコンテクスト-読み替え-を生成していく。この営みこそ、私たちが「日本人」として思想し、行動し、生きていくことそのものではないか。

 そして私たちは、文字化したものや建築や工芸のような形としてあるものだけを対象にするのではない。衣食住のあり方や、箸の持ち方、座り方、歩き方に至るまで、あらゆるものに関心を向け、その存在の原点と変容の歴史に依拠しつつ、守るべきものは守り、変えるべきものは変え、復興すべきものは復興していく。何かを守ることは何かを創造することと同義である。もちろんその対象は博物館に陳列され、ガラスケースの中に入れられているような死んだ存在ではない。私たちの生活・心性に密着した「生きた」存在でなければならない。私たちは「断絶」を何よりも恐れる。そのために行住坐臥、私たちは常に意志的に生き、思考していかねばならない。

 私たちは「日本」の紡ぎ手たらんとしている。あらゆる「日本」を糸に見立て、紡ぎ、つなぎ、結び、時には切り落とす。この営みを続けていくことが、私たちの存在意義であり、目的であり、使命である。そしてその「日本」を紡いだ先には、偏狭なナショナリズムの対象の日本ではなく、遅れた、劣等な唾棄すべき日本でもない、豊かで先鋭的で強かでしなやかで雅でダイナミックな進むべき「日本」がそこに立ち現れてくるはずである。私たち民族文化研究会関西支部は上記の目的に向かって真摯に邁進していくことをここに宣言する。


慈円「道理を作り変え作り変えして世の中は過ぐる也」(『愚管抄』)