定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(二)

 7月9日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話に対する視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(二)」の要旨を掲載します。

 

3 「第2章 神話を考える特殊日本的状況」

 第2章は、萩野氏の率直な感想が多い章である。まず、萩野氏は高校の国語科教員としての勤務経験から、国語教科書で古典が取り上げられる時は、大抵冒頭が紹介されるという傾向があると指摘する。しかし、『古事記』の冒頭はなく、たいていがヤマトタケルノミコトの話などが取り上げられるのである。この表向きの理由は、「文学的ではない」というが、「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神」(角川文庫版『新訂古事記』)というと確かに「文学的」か疑問もあるにせよ、やはり根本的な理由は、皇室の祖先に関することなので、教員が触れたがらないということだろうと推定している。日本の神話は世界では珍しく、現代に直結しているため、かえって扱いにくくなっているのである。

 萩野氏は、国学者・多田南嶺の『南嶺子』に記された、「日本のみ神国といふにあらず」いう言葉を引き、各国に神話があることを素直に認めるべきだとしている。これは非常に優れた指摘といえるだろう。

 

4 「第3章 神話各説を批判する」

 これまでも、多少神話に関する諸家の見解に批判を向けてはいたが、本章から本格的な各説批判となっていく。まず、第1節として「神話の矛盾・不合理ということ」という題が掲げられ、神話の記述を「矛盾である」、「不合理である」とする諸家の見解が挙げられている。

 まず、神田秀夫氏である。神田氏は『古事記』にはゆがみが多く、無体系、辻褄合わせで、中国風のまねが多く、後から付けた理屈に基づいているとする。一例として、「よもつへぐひ」(イザナキ・イザナミ神話)に関しては、「博徒の一宿一飯の恩義」的思想の反映であるという。これは非合理的な神話に一見「合理的解釈」を下したものである。しかし、同様の神話はアメリカ、ポリネシアにもあるが、それはどうなるのかと萩野氏は指摘する。

 次に横田健一氏である。氏は、八岐大蛇は自然現象で説明可能と述べる。すなわち、8つの頭は斐伊川の支流、腹が血で爛れたのは砂鉄の酸化鉄の色であるといった具合である。しかし、横田氏は同文中で、世界に同類の神話があることを述べている。にもかかわらず、何故か自然現象にもとづく解釈をしているのは妙ではないかと、萩野氏はいうのである。

 続いて倉野憲司氏である。氏は、『古事記』の神武東征の順路が不合理であるとして、『日本書紀』の方が正しいとする。確かに、『古事記』の神武東征の順路は日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→豊予海峡となっており、吉備の後に後ろに戻る格好になっている。しかし、最短ルートでないからといって誤伝とすべきなのかははなはだ疑問であろう。なにしろ軍旅であるから、合理的な旅行とは異なる。神武東征は多分に神話的なものであり、不合理も当然ではないかと萩野氏はいうのである。

 最後に益田勝実氏である。氏は、国譲りが出雲で行われているのに、天孫降臨の舞台が筑紫なのはおかしいという。これは、2つの別個の神話が強引に接合されたからではないかと結論づけている。しかし、もし神話が作り話であれば、合理的に構成されるはずなのではないだろうか。

 萩野氏は、外国神話の該博な知識をもとに、類似する神話を提示して日本側の「不合理」「矛盾」解釈に疑問を呈していく。こういった解釈に対しては、「日本の神話は外国神話と違って、政治文書なので別である」と反論がなされる。しかし、政治文書である論拠は、「日本の神話は矛盾があり、また整然としていて神話ではないため」だという。これは循環論法ではないのだろうか。外国の神話同様、日本神話も神話として扱うべきであるというのが、一貫した萩野氏のスタンスなのである。
(続く)

 

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萩野貞樹『歪められた日本神話』