定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(一)

 6月18日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話に対する視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(一)」の要旨を掲載します。

 

はじめに

 民族文化として重要な位置を占めるのが神話である。しかし、日本における神話理解にはさまざまな点で曖昧なところが多いのが現状である。この点を突いたのが保守派の論客として知られた萩野貞樹氏で、主な論点はその著『歪められた日本神話』(PHP新書、平成16年)に収められている。本発表では、同書を紹介しつつ、日本神話への理解、固定観念への再検討のきっかけをつかみたいと思う。

 萩野氏は、昭和14年生まれ。一橋大学法学部を卒業後、鶴見高校教諭などをへて、産業能率大学教授となった。専門は国語学で、一般向けの敬語論、文章論などを多く著したが、神話にも造詣が深く、「アメノミナカヌシは消せるか-架上の説を中心に」(『現代思想』)など神話論も数多く執筆し、『歪められた日本神話』に結実した。平成20年没。

 

1「はじめに」

 日本神話を詳しく知ろうとすると、市販の付きの古事記日本書紀、概説書や研究書を読むことになるが、そういった書籍にはたいてい、神話は「作り話」などと書いている。要するに、記紀は「政治宣伝文書」であるとか、「当時の思想・観念が寓意された心理資料」といった説が表明されているのである。日本神話に関心を持った人であれば、たいていがこのような説を目にしたことがあるだろう。

 これに対して萩野氏は、「高天原は高天にあったのである。八岐大蛇は八頭八尾の大蛇だったし天孫は天から降臨したのである。神が結婚したのならそれは結婚したのである。文字さえ読めるならば、そこになんの疑問もあるまい。私は本書でひたすらそのことを書いた。こんなに単純な本はめったにないだろう」(4頁)と述べる。これだけ読むと、読者は面食らうかも知れないが、萩野氏がこのように表明する理由が、第一章以降に示されている。

 

2 「第一章 日本神話はどう説かれているか」

 戦前の反動で、戦後になると日本神話は批判されて教育の場から退場するに至った。そのような潮流のなかで、「梅原日本学」がタブーに挑んだとみられるが、専門の史学者からはおおむね奇説扱いされ、無視された。本来、古代史や神話に関する議論に「左右」を持ち込むのはナンセンスだが、現実の学界動向をみると、「戦後の学説の展開が、左右軸をほとんど唯一の基準としていたのは否定しようもない」(17頁)という。

 萩野氏は、ごく簡単な整理として、神話はおおむね「史実反映説」と「創作説」に分けられると述べる。

 このうち、「史実反映説」は、「神話に登場する神々は、古代の実在の人物」であるという見解であり、日本神話でいえば、「国譲り神話は、出雲の勢力が大和朝廷に屈服した歴史の反映」であるとか、「武甕槌神が国譲り神話で活躍するのは、この神を氏神とする中臣氏の地位向上に基づく」といった理解がある。極端な反映説としては、「記紀編纂の時代の人間の投影」とする梅原猛氏や上山春平氏の説があるという(後述)。こういった見解は、非常に新しい、近代的なものに感じられるが、ギリシャでは既に紀元前の段階でエウヘーメロスが提唱した説(=エウヘメリズム))であることには注意する必要がある。

 また、「創作説」は、「宮廷人が神話風・伝説風の物語を創作」したという津田左右吉氏らによる説や、古事記は書斎人の手による「文芸作品」であるという川副武胤氏のような説がある。こちらも現在広く知られた説であろう。

 しかし、これらは本当に信じるに足るのか、というのが萩野氏の問題提起である。

 

◎「史実反映説」について

 まず、「史実反映説」の問題点である。この説はなんとなく常識化しているが、問題がある。ある神話について、「~の反映だろう」とする時、その「~」の部分を証明せずに論理を進める傾向がある。たとえば、神話を「天孫民族」や「出雲王権」の動静の反映として理解する時、その「天孫民族」や「出雲王権」はどのように証明出来るのか。下手をすると、「記紀にそのように記載があり、それはこのように解釈できるから」と循環論法に陥りかねないのである。

 とはいえ、「考古学上の知見がそのような史実反映説を補強しているのでは?」という見方もあろう。たとえば「出雲は砂鉄を産出することは、出雲の草薙の太刀の話はその象徴であろう」とか、「八岐大蛇の話は、斐伊川の氾濫を指しているのであろう」といった解釈である。

 しかし、ここでも注意が必要である。仮に後者の解釈を取る場合、氾濫を治水した史実はあるのだろうか。そうでなければ、一部分のみをみて牽強付会の解釈をしたといわれても致し方ないところがあろう。

 また、「トロイの例がある」という声が上がるかも知れない。しかし、トロイの場合、同地に都市があることは事実と分かったが、それによって神話の内容自体が証明されたわけではない。トロイの一件が史実反映説を補強したように考えるのは早計なのである。

 

◎「政治文書説」について

 次に、「政治文書説」の問題点についてである。史実反映説は成り立たないという人は相応にあり、その場合は、創作された政治文書だと証明されたからだと述べる。ただ、この説にも問題がある。極端な説ではあるが、萩野氏は梅原猛氏の作為説を例にとっている。

 梅原猛氏の作為説は、奈良朝の皇室の状態が神話に反映したという説である。

 持統天皇は、皇子草壁皇子への皇位継承を望んだが、皇子は早くに薨去してしまった。御孫で御次男である軽皇子文武天皇)に皇位を継承させるため、天照大神から皇孫である瓊瓊杵尊への継承神話が創造しようとされた。さらに、文武天皇の早い薨去によって、その母君である元明天皇が即位し、文武天皇の皇子である首皇子聖武天皇)を即位させる必要が生じ、この神話は絶対的に重要になったというのである。

 さて、この梅原説の基本には、次のような前提があることが注意される。すなわち、「子ではなく孫が継承する神話は不自然」という理解、「女神から孫に継承する神話は不自然」という理解、「次男に継承するのは不自然」という理解、「天孫降臨で外祖父(タカミムスビの神)が活躍するのは不自然」という理解である。この「不自然」を解消するために、皇室の状態の反映という理由を持ち出すという構図が現れている。

 しかし、世界の神話に目を向けてみると、たとえば弟が継承する神話は沢山あるのである。これは一体どうなるのか?また、弟が継承する神話は、大国主命神武天皇もそうであるが、これらもすべて当時の皇室の反映なのだろうか。それとも、それぞれ対応する別の史実があるのであろうか。また、ゼウスは弟で原初神ウーラノスの孫であるなど、外国神話には多数の「弟」「孫」が見えるのである。

 もちろん、外国の神話を例に出すことは日本神話の解釈に対する直接の反証ではないことは、萩野氏も重々承知のうえである。しかし、梅原説の基本にある「不自然」であるという前提は、相当程度解消されるのである。

 また萩野氏は、日本神話と朝鮮神話は構造に類似点が多いが、そうなると、朝鮮古代史が日本古代史と酷似している、あるいは、朝鮮神話は日本神話の引き写し、のどちらかの解釈を取らざると得ないが、これはどうなのかと述べる。またもし朝鮮から日本への影響をいうのであれば、そもそも日本の皇室の状況の反映説は成立しなくなってしまうのである。

 このように見ていくと、梅原説のような解釈は成り立たないのではないかという疑念が生まれてくる。萩野氏は、日本の学者は外国の神話との類似点をあまり見ようとしないが、定説化している作為説を崩してしまうからではないか、と推察している。

 

◎神話の類似について

 萩野氏は、これまたよくみられる「~型神話」という分類についても指摘を行っている。この神話は、「~型神話」である、という説明がよく行われているが、神話の全体的な類似は無視する傾向があるという。

 たとえば、「妻の連れ戻し失敗に失敗する」話は、ポリネシア、北米、ニュージーランドなどに分布する、「オルペウス型神話」である、といった説明がなされるのであるが、イザナキ・イザナミの神話と構造全体が似ているのはギリシャ神話しかないという。たとえば、類似が言われるものであっても、妻が死ぬ原因には「事故」「自殺」など種類があるのであり、「死んだ」という話にはさらに種類があるのである。

 萩野氏は、イザナキ・イザナミ神話と類似する世界の神話を取り上げて、①妻が事故で死ぬ(9種類)、②激しく泣く(4種類)、③男が一人で冥界に行く(5種類)、④ヨモツヘグイがある(2種類)、⑤「見るな」のタブーを犯す(30種類)、⑥連れ戻しに失敗(3種類)とそれぞれの場面において細かなバリエーションが存在していることを指摘する。そのうえで、この主要素で全て合致しているのはギリシャ神話のみであり、安易に「似ているものは世界に多い」と言うのも考えものであるとする。こうなってくると、「伝播説」「偶然説」「深層心理説」という解釈が出てくるのである。

(続く)

 

 

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萩野貞樹