民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

定例勉強会報告11 「仁孝」から「名分」へ――水戸学の一断面

 去る6月18日の民族文化研究会定例会における報告「『仁孝』から『名分』へ――水戸学の一断面」の要旨を掲載します。

 

はじめに
 水戸学に一貫した評価を付与するのは、容易ではない。まず、水戸学は、徳川光圀による『大日本史』の編纂事業に端を発する前期水戸学と、尊皇攘夷思想の直接的な契機となる藤田東湖や会沢正志斎によって展開された後期水戸学の二つに画期される。この前期水戸学と後期水戸学の連関を捉えることが、まず困難である。そして、水戸学は、様々な思想を織り込んだ、多元的な思惟体系でもある。前期の朱子学的性格を重視すると、水戸学は朱子学ナショナリズム的展開として評価でき、中期の国学からの影響に注視すると、闇斎学的な神道儒学の統合体系と解釈できる。この水戸学の思想的多様性を、整合的に理解することが、続いて問題となる。
 だが、国体を明晰に自覚し、それによって武家政治を否定し、王政復古を牽引する原動力となった、という共通認識は存在した。ところが、こうした水戸学についての共通認識に再考を迫ったのが、遠山茂樹丸山真男といった戦後の歴史家たちだった。遠山や丸山は、水戸学があくまで幕藩体制を肯定する思惟であったとし、こうした守旧的性格は近代ナショナリズムには連続しない、と主張した。だが、戦後に一世を風靡した、こうした水戸学を幕藩体制の護教論とする解釈に対して、あくまで水戸学は明治維新の指導理念たりえた、という反論が提起された。尾藤正英の水戸学解釈がそれである。尾藤は、水戸学は伝統的朱子学に忠実な体制イデオロギーであった、という遠山や丸山の主張に、まず異を唱える。水戸学は、「仁孝」を重視する伝統的な朱子学から、「名分」を重視する新たな儒学像へと、思想的な転換を遂げている。そして、こうした「仁孝」から「名分」への思想的転換によって、水戸学は幕藩体制を超出した、近代ナショナリズムの萌芽たりえた、と主張される。こうした背景から、尾藤は水戸学を幕藩体制の内部に留めず、近代国家形成の過程のなかで、水戸学を再把握する必要を説くのである。本稿では、こうした水戸学における「仁孝」から「名分」への思想的転換を検討し、水戸学がもつ意義の一断面を指摘したい。

 

一 「仁孝」から「名分」への思想的転換
 前期水戸学は、朱子学からの強い影響を受けている。徳川光圀は、明から亡命した儒学者である朱舜水を招聘し、本格的な朱子学をはじめて導入した。しかし、前期水戸学から後期水戸学への転換期にあたって、こうした朱子学的性格は変化していく。こうした変化は、藤田幽谷の著作である『正名論』において表出した。幽谷は、ここで、名(言葉)と分(階層秩序)が緊密に連結され、社会が確固たる身分制へと分節化されることで、安定的な秩序が創出されていく、と強調している。これこそ、水戸学の「名分」の命題なのだ。
 だが、こうした「名分」の命題は、尾藤や、あるいはJ・ヴィクター・コシュマンが指摘しているように、伝統的朱子学から逸脱している。尾藤やコシュマンは、幽谷が「名分」の命題で、階層秩序の不変の区別を重視することによって、伝統的朱子学が力説するところの、統治の正統性の基準としての統治者の徳を回避している、と解釈している。伝統的朱子学は、社会を指導する統治者に、その地位に相応の道徳的実践を要請した。これこそ、朱子学の「仁孝」の命題なのだ。だが、幽谷は、社会を指導する統治者に、こうした発想に準拠するよりも、厳密に規定された階層秩序に忠実であるように要求した。幽谷の『正名論』は、「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させているわけなのだ。

 

二 易姓革命論の回避

 幽谷が、こうして「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させた動機は、まず易姓革命論の理論的な超克にあった。「仁孝」(統治者の道徳)に重点を設定すれば、道徳的に卓越した人物による、政権交代を許容することになってしまう。「仁孝」(統治者の道徳)は、統治者の正統性としては、あくまで「相対的」な性格しかもたないのだ。道徳の優劣によって、ごく簡単に政権交代が反復されることとなる。幽谷は、こうした「仁孝」(統治者の道徳)という、統治者の正統性がもつ「相対的」な性格を乗り越えた、揺るぎない「絶対的」な統治者の正統性を構築し、それによって国体を基礎づけようと試みたのである。こうした「絶対的」な統治者の正統性こそ、「名分」(社会の階層秩序)だった。相対的な道徳性(「仁孝」)を乗り越えた、絶対的な崇高性(「名分」)のカテゴリーを政治に導入する企図こそ、幽谷の『正名論』において表現された構想だったのである。

 

三 権力の二重性の打開
 そして、幽谷の『正名論』の第二の動機は、幕藩体制と皇統の二重権力の理論的な超克にあった。将軍と天皇の権力の分裂は、儒学に深刻な課題として認識されていた。幽谷は、こうした将軍と天皇の権力の分裂を、さきほど言及した絶対的な崇高性(「名分」)によって打開しようと企図する。幽谷は、権力の源泉を天皇のみに認める一方で、将軍を摂政として解釈する。すなわち、「名分」(社会の階層秩序)における崇高と世俗の二元的構造は、政治の正統性である「権威」と実際の統治者である「権力」の二元的構造へと、読み替えられたのである。そして、こうした「名分」(社会の階層秩序)を実質化させるために、幽谷は天皇のもつ絶対的な崇高性を、宗教的意義によって裏付けようと企図する。幽谷は、中国の皇帝は、伝統的に天と祖先を崇拝しているが、それらは人格化された具体的な姿をもたないために、中国の皇帝の信仰心は虚空にしか像を結ばないと指摘する。これとは対照的に、日本では将軍が現御神である天皇を崇拝する事実を通し、「名分」(社会の階層秩序)は強靭化されると主張している。すなわち、幽谷は「名分」(社会の階層秩序)という問題設定をもちいることで、将軍と天皇の権力の二重性を、崇高と世俗の二元的構造や、それを援用した権威と権力の二重性として再解釈することで、打開したのである。

 

四 後期水戸学への影響
 幽谷は、「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させることによって、相対的な道徳性(「仁孝」)を乗り越えた、絶対的な崇高性(「名分」)のカテゴリーを政治に導入した。こうして、「相対的」な性格を乗り越えた、揺るぎない「絶対的」な統治者の正統性を構築し、それによって国体を基礎づけた。また、こうした「名分」(社会の階層秩序)を、崇高と世俗の二元的構造や、それを援用した権威と権力の二重性として再解釈することで、将軍と天皇の権力の分裂を打開した。だが、ここで問題となるのは、こうした「名分」(社会の階層秩序)を基礎づける、天皇の絶対的な崇高性を、いかに弁証するかである。ここで、会沢正志斎は、『新論』において、国学からの影響下において、天皇の血統の連続性や、天皇が斎行する儀礼に着目した。これらの国体概念によって、天皇の絶対的な崇高性を、弁証しようと企図したのである。ここで、後期水戸学は、幽谷の影響下で、国学へと接近することで、闇斎学的な儒学神道の統合体系のような性格をもつにいたった。また、幕藩体制に留まらない、近代ナショナリズムへの発展も、ここから開始された。「名分」(社会の階層秩序)は、あくまで天皇を中核として設計されており、将軍がこれに違背する場合には、王政復古が理論的な帰結として出現するのである。そして、水戸学を導火線として、明治維新は勃発するわけである。

 

おわりに
 ここでは、尾藤の図式にしたがい、「仁孝」から「名分」への思想的転換を基軸に、水戸学を前期・後期通して俯瞰してみた。だが、朱子学・古学・国学・闇斎学・陽明学の複雑な折衷である水戸学に、一貫した評価を付与するのは、冒頭で触れた通り、容易ではない。ここで示した水戸学像は、その一断面に過ぎない。だが、「仁孝」から「名分」への思想的転換は、水戸学において重要な位置を占めている。この「名分」への視座は、水戸学の検討にあたって、欠かせないものであろう。

 

参考文献
遠山茂樹明治維新』(岩波書店、1951年)
丸山真男「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」同『日本政治思想史研究』(岩波書店、1952年)
尾藤正英「水戸学の特質」同編『日本思想体系53 水戸学』(岩波書店、1973年)
J・ヴィクター・コシュマン(田尻祐一郎・梅森直之訳)『水戸イデオロギー』(ぺりかん社、1998年)