【コラム】「アジア特有の道」――現代アジアの経済発展と近代化

 往時と対比すると退潮の気配が深まりつつあるとはいえ、中国の台頭は目覚ましい。経済・技術・軍事にわたる、物質的側面での中国の成長は、世界情勢そのものを塗り替えつつある。だが、こうした中国の発展は、手放しで礼賛できるのだろうか。換言すれば、こうした中国の発展は、健全な成長と評価できるのだろうか。こうした疑問をもって、現代中国を眺めた際に、ある歴史的事象が想起される。それは、第二帝政期のドイツの躍進だ。

 第二帝政期のドイツは、ブルジョア層が脆弱で、市民社会が未熟なまま、三月革命を頓挫させ、社会発展段階ではイギリス・フランスの後塵を拝していた。だが、上からの近代化が奏功し、やがてイギリス・フランスを圧倒する技術力・経済力をもつにいたる。フリッツ・フィッシャー『世界強国への道:ドイツの挑戦、1914-1918年』やハンス・ウルリヒ・ヴェーラー『ドイツ帝国:1871‐1918年』などを参照してもらいたいが、ドイツの歴史家はこうした不均衡な発展を「ドイツ特有の道」と呼んだ。社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合は、正常な近代化ではない「特有の道」であるわけだ。そして、こうした「特有の道」こそ、ドイツを第一次大戦へ駆り立て、やがてファシズムへと牽引してゆく。

 話題を戻すと、こうした「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」こそ、現在の中国を読解する手がかりとなるのではないか。経済的先進性によって増大した国力は、社会的後進性のために自律性に乏しい社会に投下され、専制的な国家体制を形成するにいたる。すでに、中国は、ナチスと見紛う専制的な国家体制を形成している。そして、こうした専制的な国家体制は、必然的に対外膨張を企図する。すでに、中国は、ナチスと同様に、領土的野心を顕わにしている。中国の、第二帝政期のドイツのような「政治的後進性と経済的先進性のいびつな混合」は、「中国特有の道」とでも呼称すべき不均衡な発展をもたらし、破局的な帰結へと向かっているのではないだろうか。

 そして、さらに問題となるのは、こうした「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」が、現代アジアにおいては、中国に限定されない点だ。東南アジアを中心とする開発独裁国家は、こうした「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」の好例である。こうした国家群は、先述した中国と同じく、目覚ましい経済成長を遂げた。だが、先述した中国と同じく、不均衡な発展を原因とする、破局的な帰結を迎える危険性を抱えている。また、韓国や台湾といった社会・経済の双方が先進国水準の成熟を遂げた国家でも、同様の問題を指摘することができる。安秉直や李栄薫が提唱した、いわゆる「植民地近代化」論が指摘するように、韓国や台湾は、あくまで日本による統治という外的要因によって、近代化に成功したに過ぎない。すなわち、韓国や台湾は、受動的・他律的な近代化しか経験できなかったわけである。すなわち、中国や東南アジアを中心とする開発独裁国家が、経済分野における成熟しか実現できなかった「片面的近代化」しか経験していないとすれば、韓国や台湾は、受動的・他律的な成熟しか実現できなかった「表層的近代化」しか経験していないわけだ。

 「片面的近代化」や「表層的近代化」は、本稿における造語である。だが、「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」や「受動的・他律的な近代化」である「植民地近代化」は、厳然として存在している。現代アジアは、目覚ましい経済成長を遂げつつも、こうした奇形的な近代――いわば「アジア特有の道」――しか経験できなかったのだ。そして、現代アジアは、さらなるアポリアを抱え込むこととなる。経済成長が加速するほど、こうした近代のいびつさが深まる、という課題である。すなわち、現代アジアは、技術力や経済力を獲得すればするほど、社会的後進性と経済的先進性の「ずれ」が深まり、正常な近代化の軌道から逸脱してしまうのだ。では、こうした奇形的な近代――いわば「アジア特有の道」――を展開しつつある現代アジアに対して、日本はいかなる態度を示せばよいだろうか。この深刻な課題については、他稿に譲りたい。