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民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

討論会報告2 民族宗教(パガニズム)の可能性

 過日、民族文化研究会では、有志によって「民族宗教の可能性」を主題に、討論会を行った。現代における民族宗教の展望をめぐって、数時間にわたり議論が交わされた。そこでの議論は、民族宗教に伏在している可能性を剔出するものとなっている。以下は、その討論会の議事録である。また、参加者であるトモサカアキノリ・湯原静雄の両者は、それぞれトモサカ・湯原と表記している。

 

湯原「この度は、民族宗教が議題となっていますが、まず民族宗教の定義から議論を始めたいと思うのですが、いかがでしょうか」

トモサカ「民族宗教という言葉ですが、僕の場合は、まずこの語を漢文系の語彙として『民族的(Ethnic)な宗教ないし信仰体系』という意味合いでとらえています。次いで重要な要素として、西ローマ思想の文脈としては、この語を『Paganismus』としてとらえることができますので、その総合であるととらえて頂いて問題ないです。英語では『Paganism』ですね」

湯原「パガニズムという概念で分析される宗教には、具体例としてはどのようなものがあるでしょうか」

トモサカ「例えばドイチュラントのヴォータン(英語ではオーディーン)、エーラ(アイルランド)やフハンスに残るケルト系のドルイドコプト(エジプト)発祥のケメト教などが、それにあたります」

湯原「ヴォータンやドルイドは、キリスト教の外圧によって、かなり衰微していると聞き及びます。パガニズムは、民族固有の信仰体系のみならず、こうした民族固有の信仰体系の衰微を受け、こうした宗教の再生を標榜する運動でもあると理解して良いでしょうか」

トモサカ「まず、ヴォータンの信仰については、僕の知る限り近代以前ですと、衰退というか消滅しているものだと思います。どうやら田舎の山村には、そういうものをお化けの一種として祭典を行うという文化が残っているらしいのですが、それはキリスト教の強い信仰が支配する社会にとっては残滓程度でしかないものでしょう。そして、質問のほうですが、核心を突いた良い質問だと思います。すでにその言及それ自体に、民族宗教の性質が含まれていますが、民族宗教とは、民族の歴史においてかつて信じられた信仰を指すのであり、また、民族の始原の状態で信仰された思想体系であるととらえられています。賛否はともかく、このような捉え方は古今東西一致していると考えてよいでしょう。逆に言うと、民族宗教はすでに大多数には信仰されていない宗教ないし信仰体系であり、一方その社会では現在、民族宗教ではない大宗教が一般的であるということですね」

湯原「これで、パガニズムという概念の大枠が明瞭になってきたように思われます。民族の原初において信仰されてきた宗教、ヴォータンであれドルイドであれ、そうした信仰をふたたび蘇生させる、こうした意図が伏在している概念なのですね。では、パガニズムの概要を理解したうえで、本格的に議論へと移りたいと思います。まず、パガニズムという概念の中心にある、『民族に固有の信仰』という規定なのですが、これについて議論したい問題があります。『民族』という特殊性と、『宗教』という普遍性を、いかに整合的に理解するか、という問題です。これについて、どう思われますか。パガニズムは、ローカルな民族性に依拠しています。しかし、宗教である以上、普遍的な真理や超越にも言及しています。ここで、パガニズムは、ローカルな民族性を基礎づけつつ、グローバルな普遍性をも包摂しているわけです。パガニズムは、こうした倒錯した状態によって、かえってローカルな民族性を掘り崩しかねないと思います。この問題を、いかに理解すればいいでしょうか」

トモサカ「そうなりますと、『宗教』についてどう定義するかという問題が生まれますが、僕は『宗教』と『信仰』をさして区別せず宗教としてとらえており、その定義を『神秘主義(根拠のない事実認識および価値意識)を含む思想体系』であると考えています。そして、創唱宗教や自然発生的な信仰を等しく宗教ととらえています。つまり、民族宗教と、民族の歴史においてその後定着する大宗教とでは、単にヘゲモニーの違いしかなかった、という認識が根底にあります。もちろん、摸倣子(Meme)の強弱で言って大宗教のほうが強かったということができますが、その内容はどれだけ信仰が体系的であるか、どれだけ信心深いか、改宗の理論が発達しているか、といった手法的なものであり、信仰そのものではないと考えています。そして、民族宗教であろうと創唱宗教であろうと、それが一個の世界観であることは全く変わりませんし、それぞれが矛盾するということも当然同じ条件です。例えば、有名なゲルマン神話では世界は闘争の末に消滅するということですが、対照的にローマ神話では世界の終末は予期されていません。すなわち、世界は終わるか終わらないかという事実認識が根本的に異なっているのです。つまり、もともと宗教に普遍性はなく、単に流動的な優劣の状況が異なっているだけであったということです。しかし、それでも民族宗教は存在しているのです。信者もなく、場合によっては体系的ですらない『宗教』が、西ローマの国民主義の発達とともに、多くはキリスト教以前の民族の記憶を探るという名目で発掘されてきたのです。つまり、その発掘者にとっては、その信仰そのものを探るというよりも、『民族の本来の思想』を発掘するということに主眼が置かれてきたのです。その一部は、確実にその段階で整合性をとり、体系化すなわち改変がなされているのですが」

湯原「つまり、宗教の普遍性そのものが、虚構であるわけですね。普遍性があるように映る大宗教は、ヘゲモニー闘争の勝利の結果として、そう『見える』だけであるわけですね。現実には、諸宗教が、相互に対立する世界観を、それぞれ信奉しているに過ぎない。こうして、各々の宗教が、このように相対化された結果として、普遍的ではない個別的なるものとして、すなわち民族固有の信仰として出現してくる、あるいはそのように選択されてくるわけですね。すなわち、民族宗教は、宗教の正統性の根源であった、グローバルな普遍性を否定した先にあるわけですね。そこにあるのは、もはや普遍的な『神学』ではなく、民族意識の喚起や、国家生活の基礎づけといった『世俗』の動機でしかない。こうした、宗教が終焉したあとで、それでも可能な生の根拠として、政治や社会と接続され、世俗化された『ポスト宗教』として、民族宗教は位置づけられると思います。続いて、この問題について、議論を進めたいと思います。いかがお考えでしょうか」

トモサカ「その通りです。民族宗教とは、あくまで後世の民族ないしその延長としての国民にとって有益な『固有の思想』なのであって、その点では、初めから民族の期待という箍(たが)をはめられた宗教であるわけですね。そして、僕もそれを肯定的に受け止めていることを素直に告白したいと思います。これらの発想に着目すると、元来から宗教がもつ信仰の危険性は、こうした世俗主義の抑止力によって、手なずけることができるわけです。そして、西ローマにおいては、こうした世俗化というより、もっと理論的に先鋭である進化論や唯物論無神論の体系に触れたと思われる合理的な近代人によって、民族宗教的なものが発掘されていく過程があります。いうなれば近代と整理された国民国家(ないし付随的に民族)の洗礼を経て、民族宗教という枠組が生まれたととらえるべきなのです。さらに、そこには、ある種の平和主義が認められます。つまり、本来はグローバルなはずの宗教地図に、あらかじめ国境線が引かれており、民族宗教はその外側には出ようとしません。世俗化によって、いわば無毒化された宗教が、民族や国家の基礎づけのため、援用されてきたわけです」

湯原「なるほど」

トモサカ「ところで、危うく通り過ぎるところでしたが、ご指摘の通り近代とは宗教が終焉を迎えたとみなされた時代でもあったのですね。指摘したように、西ローマではローマ・カトリックの分厚い信仰の規範と道徳体系が価値観のすべてを覆いつくしていましたが、近代合理主義を基礎とする科学的手法が積み上げた事実認識の体系によって、その信仰に根拠がなかったことが白日の下にさらされるのですね。この過程で、非効率的ないし非人道的とみられる風習や文化が排除され、市民階級を中心にした人民が、明らかに身体的にも精神的にも開放され、ある種の利便性が保証されていきます。しかしながら、これは同時に価値観そのものの否定にも結び付いていきます。宗教の根幹としての神秘主義は、そもそも善悪とか真善美等の価値観の基礎になっていたものですが、その崩壊は、結局価値観そのものの無根拠性を暴き出し、哲学的な空白の時代を準備してしまうのです。たとえば、我々が世界の目的そのものである神のご慈悲によって塊(つちくれ)から作られ、その目的を全うするために生きるのであれば、何かのために生きたことになるのですが、偶然化学的な作用によって生まれた蛋白質の機構が増殖を繰り返す内に消滅の危険があるものを避けていき、その結果複雑な生体的機能を得て生物となり、我々人間もその一つに過ぎないとすれば、何者かに我々が生きているべきであると保証されるという希望は永久に損なわれていることになります。ニーチェは『神の死』を説いたのですが、他ならぬ彼がそれを超越できずに狂死したことは、近代の矛盾を端的に表す史実であると考えてよいでしょう。ですから、だれがバクテリアであった過去を誇りにできるか、という問いは、我々にも向けられていると考えるべきでしょうね。すなわち、一般的な社会にとって宗教は必要であり、その体系と矛盾する無神論唯物論の事実認識は、そのままでは規範の資格がないと考えざるを得ません。ここで、宗教のもつ危険を排しつつ、人間の生を支える規範たりえる、民族宗教が注目されるわけです」

湯原「民族宗教の歴史的展開として、宗教の普遍性の瓦解(神の死)から、よりローカルで個別的なものとして、信仰の性質が転換する、という図式が描けるわけですね。こうした信仰は、宗教の普遍性の瓦解(神の死)のあとで、それでも可能な生の根拠として、政治や社会と接続され、世俗化された『ポスト宗教』として、出現してくるわけですね」

トモサカ「そうです」

湯原「ところで、こうした図式は、さきほど言及された西欧だけでなく、日本にも適用できると思います。まず、近世期における、形而上学への文献学的批判に着目しましょう。藤原惺窩や林羅山といった朱子学者による仏教批判を契機に、近世期には形而上学への文献学的批判が大きな潮流となります。この潮流は、伊藤仁斎荻生徂徠といった古学派による儒学そのものの脱構築の企図や、富永仲基や山片蟠桃懐徳堂の知識人による無鬼論(無神論)に発展しました。ここで、近世期の啓蒙主義的潮流によって、形而上学の瓦解(神の死)がもたらされたわけです。そして、こうして宗教の普遍性が破綻するなか、民族の固有性に脚光が集まるようになった。すなわち、近世思想の中心が、儒仏から国学へと転換するわけです。そして、ここで、民族宗教の体系化を標榜する、古道論(古神道)が登場しました。宗教の普遍性の瓦解(神の死)から、よりローカルで個別的なものとして、信仰の性質が転換する、という民族宗教の歴史的展開を、日本も辿ったわけです。そして、こうした古道論(古神道)をもとに、民族・国家を文化的に防衛するという政治的構想を明瞭にした国家神道が登場するわけです。ここには、世俗化され、政治化された宗教という、民族宗教の典型的性格が表出するとともに、世界宗教に対抗し、民族・国家をいかに防衛するか、という民族宗教がもつ課題も浮き彫りになっています。では、続いて、こうした世界宗教に対抗し、民族・国家をいかに文化的に防衛するか、という民族宗教の課題について議論したいと思いますが、この点について、いかにお考えでしょうか」

トモサカ「そうですね。オーヤシマ(日本)人と西ローマは同時に発達してきたとする考えがありえますが、こうした梅棹忠夫の近代化論に即した理解は分かりやすいですね。先の議論に続けていえば、我々は価値の欠損を埋めるためにも、世界の均衡を形成するためにも、民族宗教を防衛し拡大することを考えなければなりません。その前提として、世界を民族を単位に再設定しなければならないと考えています。それも、共存共栄できる諸民族です。重要な注釈ですが、ぼくは民族を徹底的に『Ethnic groups』という概念に置換しています。そして、『Nation』を基本的に国民と訳しています。国民は様々な経緯から、西ローマ文明を中心にして近代に作り出されたものですが、その原型になったのは基本的人権や平等といったフハンス革命にかかわる近代思想である機能的側面と、もう一方では歴史の始原から現在まで同一の民族が継続していると考える民族の信仰が国民を支えているのです。さて、民族宗教が最大の勢力を持っているのは我が帝国です。そして、この勢力も決して強力とはいえません。むしろ衰退の傾向にあると考えるべきでしょう。対比的に、先進国や高度資本主義社会では単なる世俗主義が優勢になりつつありますが、この思想や傾向は、その性質から、あまり宗教の敵ではないのですね。世界全体でみると、同時に大宗教も人口が増えていくことに注目しています。宗教は基本的には排他的なものですので、オーヤシマで言えば、ある側面では仏教キリスト教神道の敵ではありますが、最近はイスラームに着目しています。既に指摘したように、それぞれ大宗教は強力な伝播力と優れた神学理論を持つ摸倣子の体系であり、精神的思想的に神学に乏しい神道よりも優位な立場にあります。そういう中で神道の武器は、思想的には唯一思考停止しかないような状況といえます。したがって、神道には体系的思想がないといけないのです」

湯原「神道神学の整備は急務ですね、既に多くの人々が指摘しておりますが」

トモサカ「しかも、それだけでは勢力が不足していることは隠しようもないことです。大宗教は、世界的に連帯しているため、当然ながら精神面にとどまらない物理的な強さがあります。この点、民族宗教はその性質上、これまでは全く力を持ち得てこなかったのです。ここで想起しなければならないのは、汎民族主義といいますか、世俗主義を媒介にした普遍的な民族主義です。つまり、他の民族の成員に対して、民族宗教を勧める立場です。神道はそうした立場から、民族内においては信仰者の顔をして神学理論の構築を行いつつ、海外に向けては、現地の宗教の蘇生を、無神論者の立場から行うよりほかに方法がないでしょう。捕捉ですが、そこで大宗教との対立を生まないことはとても大切なことです。先ほどの意見とは逆説的なことを言いますが、神道の優れた点の一つに、思考停止があります。あまり考えないことによって、大宗教である仏教との共存が履行されているのです。この点については疑問に思われる方がいるかもしれませんが、たとえば明治時代に遡りますとご存知の通り廃仏毀釈という武力闘争などが行われたことがあるのですが、その後神道は神学理論を殆ど追及することなく歴史の表舞台からは退くことになります。とはいえ、民間宗教としては単なる摸倣子としてよく残り、一般的な民衆は、その信仰が仏教キリスト教と矛盾し対立するという論理を明確にしないまま生きながらえているのです。これはある種の世俗主義でもあります。これを優れているととらえているのは、世界の世俗化した地域なり社会階層にも同様の手法で、民族の自己同一性を喚起する手法となりうると理解しているからです。そうでなければ、大宗教の優位な地域なり社会階層に浸透することはまず不可能ですから。つまり、それは世俗化した人々の脳裏に摸倣子として刷り込まれることによって伸長する必要があるということです」

湯原「そうですね」

トモサカ「勿論、神学が進むことはそれ自体悪いことではないのです。ちなみに、僕はその視点から神道神学の研鑽と体系化を志向しているのですが、日本書紀古事記には様々な矛盾や論理的説得力のない点も多いのと、いくつかの理由から別の聖典を欲するようになり、体系的な神学が許された文献を探した結果、いわゆる『古史古伝』の一つである『ホツマツタヱ』に目を付け、これを信仰しています。『古史古伝』のような、宗教以外にも文字にも民族固有な摸倣子を求める態度は世界中に見られ、ドイチュラント人にとっては同じチュートン(ゲルマン)人が使っていたフサルク(ルーン)文字がそうした意識で啓発されましたし、真贋はともかくスラヴ人にとっては『ヴェレスの書』は同様の期待が向けられているといえます。話がそれましたが、民族宗教は、多数派になっても少数派である大宗教に対して寛容でなければならないと考えています。少数派であるとはいっても、国際的なつながりの強い宗教は、あくまで民族宗教の、もっと言えば民族自体の脅威になりうるものです。対立は双方にとって無益なものであろうと考えます。そこで、この均衡を制度化し、神道のような民族宗教がその民族の公式の宗教として地位が認められるとともに、その地位と宗教的核心としての民族文化の存続と発展を大宗教に認めさせることで、少数派としての大宗教の存続を防衛するような関係性を構築すべきでしょう。ぼくはこの制度を『ヘゲモニー宗教制』と呼んでいます」

湯原「『ヘゲモニー宗教制』は興味深いですね。大宗教と民族宗教の均衡を制度化することで、大宗教のもつ伝播力による民族性への脅威を緩和しつつ、民族宗教を大宗教と協調させることで、民族宗教による民族性の喚起を安定して実行できるようになるわけですね。こうした『ヘゲモニー宗教制』は、いわば最終的に目標とすべき宗教状況であるわけですが、こうした状況を創出するためにも、差し当たっては民族宗教を理論面・組織面の双方で、強靭化させる必要があると思います。こうした民族宗教の振興のため、解決すべき課題は多いかもしれませんが、今回の討論によって大枠の方向性は明らかになったと思います」