定例研究会報告 明治国家形成と国学者――平田国学と津和野国学の国家構想と維新政府への影響

はじめに

 明治国家は、近代的な法制・軍備の吸収に熱心な一方で、祭政一致主義・天皇親政主義を基調とする神権的政治秩序を基盤としていた。阪本是丸は、こうした体制を、『明治維新国学者』(大明堂、1993年)で、「近代的祭政一致国家」と呼称した。そして、こうした体制の構築には、国学者たちの影響が存在した。だが、こうした「近代的祭政一致国家」の建設にあたって、国学者たちの見解は一枚岩ではなかった。平田派と津和野派の国学者の国家構想は、深刻に対立していた。そして、こうした国学者たちの国家構想の対立は、国学者が維新政府に与える影響にも影を落としている。本稿では、平田国学と津和野国学の国家構想の対立を検討し、明治国家形成に国学者がいかなる影響を与えたのかを明らかにしたい。

 

一 祭政一致国家の実像

 明治維新政府は、王政復古の大号令太政官制の制定により、祭政一致国家の輪郭を一応は整えるに至った。このようにして、祭政一致主義・天皇親政主義を基調とする神権的政治秩序が、古代を規範として構築されていったのである。このような古代を彷彿とさせる祭政一致国家の創出に際しては、古代律令制・伝統的祭祀・神道教義に知悉する国学者が、神権的政治秩序の設計者としての役割を担うこととなった。

 洋学に通じた法制や軍事の専門家である官僚たちや政府首脳と、国学神道の専門家である国学者神道家たちの協働作業として祭政一致国家構想は理解できるのであり、この合作によって、明治国家の政治的正統性を弁証しえる伝統的祭祀や神話的秩序を近代的国家構造に組み込むことができたのである。つまり、祭政一致国家を構想し、樹立するに際して最も力のあった勢力である国学者神道家と、中央の政界・官界との関係性が、明治維新政府の神祇政策の展開を決定していたのである。国学者と政界・官界との関係性に注目し、国学者がどのように祭政一致神道政策、あるいは神道による国民教導についての自己の理想を実現していったかに注目することによって、われわれは国学者が明治国家形成に与えた影響の実像に接近することができるのだ。

 しかし、国学者の学派・派閥ごとで、それぞれ祭政一致国家、神祇政策、国民教化、神道教育についての認識や理想には大きく隔たりがあり、抗争や軋轢が生じていた。国学者と政治との関係性に加えて、学派間の関係性にも目を配り、津和野派・平田派・伝統的な神祇宗家の吉田家や白川家といった各派の理念の相違と、各派の関係性を見ていくことで、祭政一致国家の形成過程を追っていきたい。

 

二 平田派国学と明治国家形成

 幕末期における国学者の最大の流派は、二千を越える門人を擁した平田派である。平田篤胤を淵源とし、復古神道の代表的学派として隆盛を誇っていた。維新後には新政府に接近し、門人である玉松操が行なった岩倉具視への具申により「王政復古の大号令」の宣言がなされ、祭政一致主義・天皇親政主義が新国家の政治原理として据えられた。また、神祇事務局が開設されると、平田派からは判事職に矢野玄道・平田鐵胤が就任し神祇行政に携わった。

 しかし、結果的には、平田派国学明治新政府の神祇政策に与えた影響は限定的なものに留まった。やがて平田派の国学者たちは明治新政府の中枢から排除され、衰勢の憂き目に遭うことになる。これは神祇政策の主導権を争った津和野派との政治闘争や、学習院を基盤として公家・士族層に多くの支持者をもつ漢学や明治新政府に浸透しつつあった蘭学(洋学)との覇権争いの帰結とも解釈できるが、彼らの神権的政治秩序構想がその特異性の為に、維新後の政治展開において結局は受け入れられなかったのを示している。そして、平田派には、自身の神権的政治秩序構想を現実的に制度化するだけの政治的人脈を欠いており、また環境的な困難も伏在していた。そして、維新政府によって実現された祭政一致国家も平田派の理想からは乖離せざるをえず、また平田派も政治的展開から取り残されざるをえなかったのである。

 まずは、祭政一致国家の基礎となった神祇官の復興を巡る政治情勢を把握し、その中で平田派がどのような活動したか、また彼らの神権的政治秩序構想と、彼らの明治維新政府での位置を確認していきたい。

 祭政一致国家の樹立に際しては、ひとつの重大な争点が伏在していた。すなわち、新たに形成される政治的秩序の力点を「王政復古」に置くか、それとも「神武創業」に置くかという問題である。維新政府の成立を内外に宣言した慶應三年(1867年)の王政復古の大号令においては、「王政復古」と「諸事神武創業」という二つの原則が並立されていたが、「王政復古」と「諸事神武創業」はかなり趣旨を異にする概念である。

 「神武創業」という概念は確かに復古を意味してはいたのだが、歴史的には何ら具体的事実が存在しない「神武創業」に基づくことは、新政府が打ち出す制度・政策が律令制に囚われる必要の無いこと、すなわち「明治天皇による創業=革命」という意味合いを強く持っていた。「王政復古」は、「神武創業」とは異なり、古代律令制という歴史的政治秩序に規範を求め、古代の王政体制そのものの再現を企図する政治構想であった。維新を律令制時代の「復古」と解釈したのが矢野玄道ら平田派国学者中山忠能ら公卿出身の政府内復古派であり、維新を「諸事神武創業」、すなわち明治天皇による「御一新=革命」と理解したのが福羽美静や門脇重綾らの津和野派国学者大久保利通木戸孝允ら維新功臣たちであったのである。そして、このような「明治維新」への理解の差異は、祭政一致国家観の差異あるいは神権的政治秩序観の差異にも繋がってくるのである。「王政復古」の立場に立てば、神祇官を再興し、古代律令制太政官神祇官二官制に復古したかたちでの祭政一致国家の樹立を、「神武創業」の立場に立てば、律令制以前の天皇親祭・天皇親政への回帰というかたちで祭政一致国家の建設を目指すことになる。

 維新政府内での政治情勢を要約すると、「神武創業」の構想の具現化を目指す大久保利通木戸孝允らの維新功績者のグループと、「王政復古」の理念の実現を企図する中山忠能正親町三条実愛ら有力公卿と諸侯で構成される廷臣たちのグループとの間に熾烈な政治闘争が繰り広げられていたのであり、津和野派は維新功績者のグループ、平田派は廷臣のグループにそれぞれ人脈を持ち、各々の構想する祭政一致国家を実現するため政治活動を行なっていたのである。

 表面的には、太政官政府は樹立され、神祇官も復興された。これは平田派国学者・復古派廷臣グループの政治的勝利であるかのように見えるが、こうして再建された神祇官はやがて津和野派の勢力が主流派を占めるようになり、平田派はその中枢から放逐されていく。平田派の祭政一致国家観とそれが現実に制度化されたかどうか、そしてまた平田派と津和野派の政争―これはすなわち廷臣グループと維新功績者グループとの政争でもあるわけだが―の帰結を見ていきたい。

 矢野玄道が岩倉具視に献呈した祭政一致国家樹立に関する提議『献芹詹語』に見られる平田派の祭政一致国家観・神権的政治秩序構想は、きわめて雄大な復古的国家構想であると言える。太政官政府の再整備と神祇官の復興、八神殿(古代律令制下で神祇官西院に設けられた、天皇を守護する八神を祀る神殿)の再興、造化三神天御中主神、 高皇産神、神皇産霊神)を祭祀する神殿・大国主神を祭祀する神殿・南朝忠臣の霊を祭祀する神殿から構成される大宮(中央神殿)の新設、国学を中核とする大学校(高等教育機関)の設置、あらたな祭祀である大祭の挙行等がその内容であった。この構想を見ると、大宮建立の構想は、造化三神大国主命を重視する平田派神学の神霊観・幽冥観を基盤として構想されているものであり、大祭は、天皇の御幸が行なわれ、また庶民の参列が許され、天皇による敬神崇祖の実践を人々に知らしめることが目的とされていた。国学を中核とする大学校も、身分を問わずに入学を認められるものとされ、国学神道による大規模な国民教化という平田派の祭政一致国家理念がこれらの制度構想には表れている。この構想は、津和野派が目指した、神祇官祭祀から宮中祭祀への転換、国民の教導よりも天皇による祭祀の重視といった祭政一致国家像とは相反するものである。この祭政一致国家観の差異を巡り、平田派と津和野派は熾烈な政治的闘争を展開した。

 太政官政府は樹立され、神祇官は復興されたが、それらの内実は矢野玄道ら平田派国学者の構想とはかけ離れたものであった。維新政府の神祇政策は、矢野らが主張した大宮(中央神殿)の創建はおろか、都(矢野らにとってそれは京都以外には有り得なかった)に神祇官八神殿を造立することすらしなかったのである。国学を主軸とする大学校の建設も、後述するが矢野らの尽力も虚しく挫折する。太政官政府の樹立と神祇官の成立も、その歴史的沿革を見ると、廷臣グループと維新功臣グループによる政治的妥協の産物でしかない。天皇自らが祭祀し(天皇親祭)、天皇自らが政治を執り行う(天皇親政)ことを理想とする維新功臣グループは、天皇親祭の現実化・神武創業の理念の具現化として、天皇が直接に天神地祇に誓約する形式の「五箇条の御誓文」の誓約式を執り行った。これに危機感を募らせた守旧派の廷臣グループは、律令制復古構想の実現を賭けて、対抗運動を本格化させた。そして、両派の妥協の産物として太政官政府の樹立・神祇官の復興がなされたのである。平田派の「勝利」は表面的・形式的なものに過ぎなかった。

 平田派がこの政治的現実を受け入れ、ある程度の妥協をし、自身の祭政一致国家構想の実現を目指し政治運動を展開したならば、平田派国学者の神祇政策への影響力は維持されたであろうし、また彼らの神権的政治秩序構想を政策に反映させることも可能であっただろう。しかし、現実にはそのようにはならなかった。矢野玄道・玉松操・平田鐵胤ら平田派の幹部たちは、自身の祭政一致国家構想にひたすら固執するのみであった。東京への遷都についても平田派は反対の姿勢を取り、政治の中心地が東京に移転しているにもかかわらず、その現実を受け入れようとせず、東京でのロビー活動を拒絶し、政治的影響力を失墜させ続けた。彼らが人脈を持っていた廷臣グループの維新政府内部での衰勢もそれに拍車をかけた。神祇官の判事職に矢野玄道・玉松操・平田鐵胤は就いたものの、彼らは後に内国事務局判事に転任し、大学校設立問題に取り組むようになったため、神祇官からは平田派主力が姿を消し、これも平田派の没落を加速させた。そして、神祇官は福羽美静・門脇重綾ら津和野派が主流となっていったのである。

 平田派はその衰勢を挽回するため、国学を中心とする大学校の新設事業に総力を挙げて取り組んだ。政府内部では皇学院という名称の大学校(高等教育機関)を建設し、その中に国学科・漢学科・洋学科といった学科を設けるという構想が提議されたが、国学中心の大学校設置を求める平田派国学者たち、そして学習院を基盤とし漢学を主体とする大学校設置を目指していた漢学者たちの双方から批判を受け、国学を中心とする皇学所、漢学を中心とする漢学所をそれぞれ別個に設置するという折衷案で落ち着いた。皇学所・漢学所は慶應4年に開学したが、平田派国学者たちは、この皇学所を大学校に昇格させることを政府に求め続けた。この大学校構想は京都に開設されることが前提となっていたが、東京遷都問題も絡み、政府は大学校設立には消極的だった。しかし、京都留守官が設立を強行、明治2年に、皇学所と漢学所を発展解消し開学したが、命脈は長く続かず、政府の手で閉鎖された。東京においても、幕府の教育機関だった昌平学校・開成学校・医学校を統合し、国学を中核とする総合大学とすることが目指された。ただ、昌平学校は漢学の牙城であり、この学校の中心に国学を据えるのは無理があったと言える。国学派と漢学派の軋轢と抗争の末、東京の大学校は明治4年に閉鎖されることになった。この時、平田派の没落は決定的となったのである。

 

三 津和野派国学と明治国家形成

 津和野派とは、山陰・津和野藩から後援を受けていた国学者たちを指す。津和野藩は四万三千国の一小藩に過ぎなかったが、幕末以来、同藩は藩主である亀井茲監の指導のもと、多くの藩士が尊皇運動・倒幕運動に従事し、小藩ながら多方面に豊富な政治的人脈を持っていた。中でも、津和野派の代表的国学者である福羽美静は中央政界に顔が利いた。この幕末以来の豊かな政治的人脈があったからこそ、藩主亀井茲監や、彼が庇護した福羽美静ら津和野派の国学者たちは、維新政府の神祇政策において、重要な位置を占めることが可能となったのである。亀井は、津和野派の思想的淵源であった国学者大国隆正に影響を受け、藩内で社寺改革に取り組み、神仏混同の禁止や神葬祭の普及による神道興隆策を推進した。この経験を買われ、亀井は神祇事務局判事となり、神祇事務局そして神祇官に津和野派国学者の福羽美静、門脇重綾らを任官させ、津和野藩で行なった社寺改革で培われた宗教行政の手腕を発揮した。人脈と技能こそが、津和野派が神祇事務局・神祇官で勢力を得ることを可能にしたのであり、このような事情により、津和野派は初期から宗教行政を牽引し、ライバルであった平田派を引き離すに至ったのである。

 亀井らは、最初の神祇政策案として、①神祇官復興まで、とりあえず神祇局を設け、それに「八神」を勧請して神事を執行する ②伊勢神宮の祭典を再興して、ますます神威を高める ③熱田神宮伊勢神宮に次ぐ神社として待遇する④出雲大社熱田神宮に準じる待遇とする ⑤古来の大社の取り扱い規則を立てて崇敬する体制を設ける ⑥山稜の祭典を改革し、神祇事務局の管轄とする ⑥国内の「宗門」を「復古神道」に改める などを提議した。亀井のこの提案は、そのまま以後の神祇・神社行政の基本となった。神仏判然令の施行、明治天皇による石清水八幡宮親拝、明治天皇への古事記進講、切支丹への処分、楠公社の造営、招魂祭の挙行、明治天皇即位式の開催、新嘗祭の執行、明治天皇による神宮(伊勢神宮)親拝など、亀井茲監や福羽美静らを中心として、様々な神祇政策が実行されていったのである。神祇官問題においては、津和野派は平田派に妥協を余儀なくされたものの、現実的に神祇官の要職を占めたのは津和野派の国学者たちであった。平田派の衰退を横目に、津和野派が主流を占める神祇官は全国の神社から伝統的な神祇宗家である吉田・白川両家を全面的に排除することを上申した。吉田家・白川家による神社支配・祭祀権の剥奪は、天皇親祭・天皇親政という津和野派が理想とする祭政一致構想の実現へ向けて必須だったのである。続いて津和野派は宮中祭祀の整備に乗り出し、天皇による親祭すなわち天皇によるいわゆる敬神崇祖の実践を主軸とする津和野派の祭政一致国家の実現が図られた。そして、明治三年、津和野派の代表的国学者であり、神祇大祐である門脇重綾は、神祇官太政官の二官制を「何分祭政区別ノ姿」と述べ、神祇官特立による祭政一致体制を批判し、真に有効に機能しうる祭政一致体制(門脇に言わせればそれは天皇親祭である)の構築を訴えた。この建白には津和野派で占められた神祇官幹部の連署が添えられており、これは津和野派で占められた神祇官が、その機構の解体を望んでいることを示していた。この建言から一年、明治4年には神祇官太政官下の神祇省へと改組され、祭祀は宮中へ、宣教のみを神祇省が職掌とする体制へと移行していく。神祇省神殿鎮座の皇霊が宮中賢所遷座され、天皇が皇廟において親しく皇祖皇宗の神霊を祭祀するという天皇親祭体制が成立する。ここに、津和野派が理想とする祭政一致国家は実現され、平田派らの祭政一致国家構想は敗れ去ったのである。

 

おわりに

 以上の叙述を整理すると、平田派国学祭政一致国家構想は、明治維新を「復古」と解釈する立場から、制度構想として太政官政府を採用し、祭祀構想として国家祭祀を選択した。そして、祭祀の目的を国民教化として設定した。これに対し、津和野派国学祭政一致国家構想は、明治維新を「革命」と解釈する立場から、制度構想として天皇親政を採用し、祭祀構想として宮中祭祀を選択した。そして、祭祀の目的として、天皇による敬神崇祖の実行を設定した。

 津和野派国学祭政一致国家は、明治維新を「革命」と解釈し、天皇を中心とした新政府の集権的統治を肯定する。そして、祭祀を国家全体ではなく、宮中に限定する世俗主義的性格も持ち合わせていた。古代への回帰を理想とし、復古主義的な色彩の強い平田派国学と対照的に、津和野派国学の「近代的性格」が浮かび上がってくる。そして、こうした「近代的性格」ゆえに、津和野派国学の国家構想は、明治維新政府の推進する国家形成と軌を一にしていたのであり、ここで明治維新政府における、平田派国学と津和野派国学の運命の明暗が分かれたのである。津和野派の国学者明治維新政府の神祇政策において重用されるのに対し、平田派の国学者は、明治維新政府の神祇政策から次第に排除された。島崎藤村は、明治維新を「新しき古」の到来と表現したが、明治維新は島崎が表現したような、革命主義と復古主義の純粋な折衷ではありえなかった。そこでは、近代主義の勝利と、復古主義の敗北が、残酷に展開したのである。そして、島崎も、『夜明け前』(1932年~1935年)で、平田派国学の徒である青山半蔵の挫折と狂死というかたちで、この維新の悲劇を表現したのである。

 

参考文献
阪本是丸『明治維新国学者』(大明堂、1993年)
阪本是丸『国家神道再考――祭政一致国家の形成と展開』(弘文堂、2006年)
阪本是丸『国家神道形成過程の研究』(岩波書店、1994年)
新田均『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、1997年)
山口輝臣『明治国家と宗教』(東京大学出版会、1999年)

 

 

 

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矢野玄道