定例研究会報告 東西のナショナル・アイデンティティ探求の対照――谷省吾における国学とゲルマン学の比較研究を手がかりに

はじめに

 日本とドイツは、双方ともに、十九世紀における政治的な近代国民国家の確立に先立ち、十七世紀・十八世紀における文化的な国民国家概念の形成を経験した。こうした文化的な国民国家概念の形成は、日本においては国学によって担われ、他方でドイツにおいては、ロマン主義によって担われる。こうした日本とドイツにおける十七世紀・十八世紀の思潮がしめす相似は、両者の比較研究を多く生み出してきた。日本とドイツは、いかにして文化的な国民国家概念を形成したか、すなわち両者のナショナル・アイデンティティ探求の実像はどうだったか、こうした問いが幾度も投げかけられてきたわけである。

 本稿も、こうした日本とドイツのナショナル・アイデンティティ探求の実像を、主題としたい。具体的に、比較対象として選択するのは、日本における国学と、ドイツにおけるゲルマン学である。ゲルマン学は、ドイツにおけるロマン主義が生み出した一思潮であるが、文献学的手法を前提としたゲルマン文化への学際的接近を試みた点において、日本における国学ときわめて相似しており、比較対象として最適だ。本稿は、国学とゲルマン学の相似と差異を検討し、東西におけるナショナル・アイデンティティ探求の対照を明らかにする、一材料として企図される。

 ところで、日本における国学の存在は巷間でも知られているが、ゲルマン学については未だそういった状況にまでは至っていない。まず、ゲルマン学の搔い摘んだ説明が必要だ。ゲルマン学は、ヤーコプ・グリムが提唱した思想・学問である。グリムは、最初はドイツ私法学の巨星であるカール・フリードリヒ・サヴィニーに師事し、私法学への法史学的手法の導入を主張するサヴィニーに影響され、ゲルマン慣習法の研究に進む。だが、研究の範囲は法史に留まらず、ゲルマンの言語・伝説・歴史に波及した。弟であるヴィルヘルムと共に編纂し、「グリム童話」として知られる『グリムの家庭と子供の童話』(1812年~1815年)は、こうしたゲルマンの言語・伝説・歴史についての研究の成果である。

  そして、後年になって、法学・歴史学言語学の三領域から、ゲルマン文化へと学際的な接近を企図する、ゲルマン学(ゲルマニスティーク)を提唱した。現代のドイツでは、ゲルマニスティークは「ドイツ文学」という限定された学問領域しか含意していないが、そもそもゲルマニスティークとは、こうしたゲルマン文化へと学際的な接近を企図する、包括的な学問・思想のことだったのである。このように、文献学的手法や学際的アプローチ、あるいはナショナル・アイデンティティ探求といった諸側面において、ゲルマン学は国学と相似していた。

 こうした国学と相似したゲルマン学が存在したわけだが、両者を比較した先行研究は、一定数だが残されている。まず、戦前においては、国文学者の芳賀矢一が、『芳賀矢一文集』(冨山房、1937年)に所収された「国学とは何ぞや」で、国学の伝統を現代的な文献学として再生させ、「日本文献学」を構築するため、国学に相似したゲルマン学の紹介を行った。また、戦後においては、神道学者の谷省吾が、国学との相似からゲルマン学に関心を寄せ、『鈴木重胤の研究』(神道史学会、1968年)に所収された「グリム兄弟の学問」や『ドイツの国学』(皇學館大学出版部、1984年)を著した。そして、法哲学者の堅田剛は、「ヤーコプ・グリムの『ドイツ法古事誌』――ドイツ学と国学のあいだ」(『獨協法学』67号、2005年)において、ヤーコプ・グリムの法思想の研究にあたって、国学との相似も視野に入れなければならないと指摘している。

 芳賀・谷の研究は、いわば国学の視点からゲルマン学を眺め、堅田の研究は、いわばゲルマン学の視点から国学を眺めているわけである。本稿では、こうした両者の研究を参照しつつ、とりわけ谷省吾の業績から多大な恩恵を受け、国学とゲルマン学の比較検討を行い、東西のナショナル・アイデンティティ探求の実像が、いかなるものであったかを明らかにしていきたい。

 

一 物語としての歴史

 谷省吾は、グリム兄弟の学問的営為の核心を、「言語」と「伝承」の研究による「古代学」の完成である、と指摘した。まず、「言語」の研究としては、グリムの関心は、勿論だがドイツ語に注がれている。それが、ゲルマン民族母語だからだ。業績としては、ヤーコプとヴィルヘルムの共著である『ドイツ語辞典』をはじめとして、ヤーコプの『ドイツ文法』や『ドイツ語の歴史』が、そしてヴィルヘルムの『ドイツのルーン文字について』が挙げられる。一方の「伝承」の研究としては、第一に「神話」の研究が、第二に「伝説」の研究が、第三に「童話」の研究が、第四に「文学」の研究が、第五に「法」の研究が内包されていた。これらは、当然だが、ゲルマン民族の古伝承が対象とされている。「神話」の研究としては、ヤーコプの『ドイツ神話学』があり、「伝説」の研究としては、ヤーコプとヴィルヘルムの共著である『ドイツ伝説集』があり、「童話」の研究としては、先述の『グリムの家庭と子供の童話』があり、「文学」の研究としては、ヤーコプとヴィルヘルムの共著である『八世紀の二つの最古のドイツ詩』があり、「法」の研究としては、ヤーコプの『ドイツ法古事誌』があった。そして、こうした「言語」の研究と「伝承」の研究が構成するのが、「古代学」であるとされていた。

 「言語」の正確で実証的な理解は、「言語」によって構成された「伝承」の解釈に不可避である。そして、「伝承」において展開された「言語」の使用者であるゲルマン民族の心情を反映しなければ、「言語」そのものの存立が危うくなる。そして、こうした「言語」と「伝承」の直結した関係の連続が「歴史」なのであり、こうした「歴史」の探求の究極こそ、ゲルマン民族の理想的な古代を検証する「古代学」である。こうした「言語」の研究と「伝承」の研究と「古代学」の不可分なトリアーデは、ゲルマン民族の心情の投影として「言語」と「伝承」を理解し、こうした「言語」と「伝承」から、歴史の彼方にある、遥かなゲルマン民族の古代を透視する試みだった。すなわち、グリム兄弟は、「言語」を基礎として、「歴史」を「物語」として理解しようとしたのである。

 また、こうした「歴史」を「物語」として理解しようとする姿勢は、「歴史」を「体系」として理解しようとする恩師であるサヴィニーへの対抗意識に起因していた。サヴィニーは、私法学への法史学的方法の導入を主張しつつ、ローマ法の体系的研究によって成果を上げている。サヴィニーの「体系」的な歴史認識に対置された「物語」的歴史認識として、グリム兄弟の「古代学」は解釈できる。そして、こうした「言語」を基礎として、「歴史」を「物語」として理解する試みは、国学とも通底していた。賀茂真淵は、儒仏の移入によって、日本人に固有の心情が喪失されたとし、古代文学の研究を通して、本来の日本人の心情へと回帰しようと企図する。そして、万葉の詩的世界に終生傾倒したこの国学者の思惟は、国学の大成者である本居宣長に継承された。真淵も宣長も、グリム兄弟と同様に、言語や伝承を媒介に、民族に固有の心情に接近し、「歴史」を「物語」として理解しようとする。

 

二 フィロロギーと民族意識

 グリム兄弟は、自身の学問的営為を、「古代学」と呼称しつつ、その中心的手法を「フィロロギー」であると規定した。「フィロロギー」は「文献学」という含意だが、こうした「フィロロギー」はフリードリヒ・アウグスト・ヴォルフによって確立されている。この「フィロロギー」は、アウグスト・ベークによって、さらに体系的な整序が進められ、学問として大成した。こうした、同時代の「フィロロギー」の発展から、グリム兄弟が影響を受けたのは当然である。そして、こうした「フィロロギー」は、シュレーゲルに刺激を与え、ロマン主義の思潮とも関連があった。グリム兄弟・「フィロロギー」・ロマン主義という、「言語」・「伝承」・「古代学」に続く、第二のトリアーデが出現しそうである。だが、こうした「フィロロギー」とグリム兄弟には、重大な差異があった。ヴォルフやベークがギリシャ古典を対象とした古典文献学として「フィロロギー」を展開したのに対し、グリム兄弟はゲルマン民族の過去に注目したのである。ローマ法の体系的研究を手がけた恩師であるサヴィニーや、ギリシャ古典を研究したヴォルフやベークから影響を受けつつ、グリム兄弟はギリシャやローマに民族の規範を発見しようとはしなかった。あくまで、グリム兄弟は、ゲルマン民族の古代にこそ、ゲルマン民族のあるべき姿を見出そうと試みたのである。

 堅田剛の表現を借用すれば、「普遍への固有の対置」を、ゲルマン学は志向した。すなわち、こうした、ローマ法に規範を見出すロマニステン(ローマ法主義者)や、ギリシャに憧憬の念を抱くロマン主義者といった、国境を越えた普遍的に理想とされる古代にゲルマン民族のあるべき姿を投影しようとする同時代の思潮に対抗し、グリム兄弟はゲルマン民族に固有の古代に遡行することで、そのあるべき姿を発見しようと試みた。同時代のギリシャ・ローマ崇拝の風潮への対抗から、グリム兄弟は民族意識を自覚するに至ったのである。ここで、グリム兄弟の「古代学」は、民族意識に裏打ちされた「ゲルマン学」へと発展した。ロマニステン(ローマ法主義者)に対抗したゲルマニステン(ゲルマン法主義者)の法学者を集めた1846年のゲルマニステン大会において、ヤーコプ・グリムはドイツの法・歴史・言語を学際的に研究する「ドイツ学」の構築を宣言し、この学問・思想を「ゲルマン学(ゲルマニスティーク)」と命名する。そして、この三領域の研究者の糾合を主張した。これが、ゲルマン民族へと学際的な接近を企図する、ゲルマン学が誕生した瞬間である。

 こうした、ギリシャ古典を対象とした「フィロロギー」から方法論的に影響を受けつつ、こうした「フィロロギー」への対抗から民族意識を自覚するゲルマン学の姿は、国学の成立過程との相似を指摘できた。契沖や荷田春満を先駆とし、真淵や宣長において大成した国学は、江戸儒学における古学派から方法論を継受している。伊藤仁斎荻生徂徠を代表者とする古学派は、実証主義的文献批判を手法として、既存の朱子学における経典解釈を解体した。そして、こうした中国古典を対象とした実証主義的文献批判を、国学は継受した。だが、国学は他方で、反中華主義の姿勢を鮮明にし、こうした実証主義的文献批判を、日本古典へと適用したのである。このように、「フィロロギー」からの影響と「フィロロギー」への反逆において、そして民族意識への自覚において、国学とゲルマン学は同様の歴史を辿ったのである。

 

おわりに

 本稿では、国学とゲルマン学の相似を、反体系的な「物語としての歴史」への志向と、反普遍的な「民族意識」への自覚に見出した。こうした反合理主義・反普遍主義に力点を設定した両者の理解は、啓蒙主義へのアンチテーゼとして国学とゲルマン学を解釈することになる。だが、啓蒙主義国学・ゲルマン学の関係は、そこまで単純に処理すべきなのか、という課題が思い浮かぶ。この課題については、また別稿で取り組みたいと考えている。たしかに、ゲルマン学の生みの親のヤーコプ・グリムは、啓蒙主義へのアンチテーゼを貫徹した。ひたすら古事の列挙に終始する彼の著作からは、啓蒙主義の体系的・概念的操作への忌避が感じられる。だが、国学の大成者である本居宣長については、どうだろうか。東より子は、『宣長神学の構造』(ぺりかん社、1999年)において、宣長記紀研究を検討し、記紀の忠実な読解としての叙述に見えつつ、それが宣長による高度な概念的・体系的操作を経て、一箇の精緻な神学体系として完成されていると指摘した。東は、宣長朱子学をはじめとする、近世日本における形而上学の危機を目撃し、新たな価値規範を提示するため、「擬制」として神学体系を確立したと説明する。ここにあるのは、神学という装いをしつつ、きわめて合理主義的な発想だ。恩師である真淵ほど、宣長は日本人に固有の情感というテーゼそのものを確信することもなかった、とも東は述べている。宣長については、啓蒙主義へのアンチテーゼというよりも、啓蒙主義そのものを換骨奪胎していると表現した方が適切ではないか、という感想をもつ。いずれにせよ、別稿において、啓蒙主義国学・ゲルマン学の関係については、検討を加えたい。

 

参考文献

芳賀矢一国学とは何ぞや」同『芳賀矢一文集』(冨山房、1937年)
谷省吾「グリム兄弟の学問」同『鈴木重胤の研究』(神道史学会、1968年)
谷省吾『ドイツの国学』(皇學館大学出版部、1984年)
東より子『宣長神学の構造』(ぺりかん社、1999年)
佐野晴夫「芳賀矢一国学観とドイツ文献学」『山口大学独仏文学』23号(2001年)
堅田剛「ヤーコプ・グリムの『ドイツ法古事誌』――ドイツ学と国学のあいだ」『獨協法学』67号(2005年)

 

 

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グリム童話集』