【役員動静】国際シンポジウム「1789-2019 フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう」を聴講

 7月13日、当会役員(小野耕資副会長、渡貫賢介東京支部長、湯原静雄関西支部長、相川絹二郎関西支部副代表)が、麗澤大学東京研究センターで開催された国際シンポジウム「1789-2019 フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう」を聴講した。
 このシンポジウムでは、日仏の研究者が登壇し、フランス革命の批判的検討と伝統主義・君主主義の再評価論を基軸とした研究報告が行われた。
 まず、川上洋平氏(専修大学准教授)が、「ジョゼフ・ド・メーストルの反革命論:政治と宗教の間に」と題し、カトリシズムに立脚した革命批判を主唱した思想家として知られるメーストルの政治理論、宗教理論を、反革命論、権力論、宗教論の三つの視座から概観した。
 続いて、平坂純一氏(批評家)が、「日本における明治時代以降のフランス革命の受容」と題し、日本近代史の歴史的展開を振り返りつつ、そこに伏在する大衆化、市場化、中央集権化といった伝統を破壊する「革命性」を剔出し、批判を加えた。
 そして、ポール・ド・ラクビビエ Paul de Lacvivier 氏(里見日本文化学研究所特別研究員、國學院大学博士後期課程)が、「革命裁判と国王・王妃の裁判」と題し、革命の際に行われた国王・王妃の裁判を概観し、その手続上の問題性を指摘した。
 その後、フィリップ・ピショー Philippe Pichot 氏(仏ブレスト大学教授)が「1789年7月14日と1790年7月14日」と題し、フランス革命のメルクマールとなったバスチーユ襲撃を糸口に、フランス革命全体の性格を考察した。
 続いて、アン・ベルネ Anne Bernet 氏(歴史家)が、「1792-1814 フクロウ党員の諸抵抗 忠誠と帰依の戦争」と題し、ヴァンデ戦争と並ぶ反革命武装蜂起にも関わらず、農民を当事者としてゲリラ戦的に展開されたため、あまり光が当たってこなかったフクロウ党について概観した。
 最後に、マリアン・シゴー Marion Sigaut 氏(歴史家)が、「国民の名によって」と題し、フランス革命の正当化原理だった国民概念の欺瞞性を、フランス革命の歴史的展開を概観することによって明らかにした。
 このシンポジウムは翌14日も行われ、ジェイソン・モーガン Jason Morgan 氏(麗澤大学准教授)やマイケル・マット Michael Matt 氏(カトリック系新聞レムナント The Remnat 紙編集長)らが登壇する。

 

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報告するラクビビエ氏

 

【関西】定例研究会報告 曽和義弌『日本神道の革命』を読む

令和元年6月29日に開催された民族文化研究会関西地区第14回定例研究会における報告「曽和義弌『日本神道の革命』を読む」の要旨を掲載させて頂きます。

はしがき

 今回考察する曽和義弌なる人物を私が知ったのは今から五年ほど前、日本における優生学思想を調べていた時である。戦前、衆議院議員であった曽和は「民モ昔ニ遡レバ神ノ御末デアル、ソレヲ断種スルト伝フコトハ、……徹頭徹尾猶太思想デアル」と神道家の立場から優生学思想に反対したとされ、そこで興味を持ったわけである。

 しかし調べてみても、曽和と言う人物はほとんど実態が分からず、私にとって謎であった。先日、曽和の著作である『日本神道の革命』を幸運にも手にいれることが出来た。この『日本神道の革命』は昭和三十六年に発行されており、戦後の神社行政も一応は落ち着いた時期である。本書は、曽和が昭和三十年五月に神社本庁で行われた全国神社総代会の結成準備会にて発した次のような言葉から始まっている。

 本日此処に参列して居られる各位は、申すまでも無く、日本神道界の最高峰の諸君であるが、諸君は先ず第一に日本神道というものを能く知って居られるのであろうか。よもや知らないとは云えまいと思うのであるが、本当はお判りになっていないのではないか。若し、判って居ると仰せられる方があれば、先ず其の方にお尋ねしたい。即ち、其の方に、貴公は古事記冒頭の天之御中主神から、伊邪那岐神妹伊耶那美神までの十二代十七柱の神々の、御名義は何を意味するものであるかということがお判りであるかと(後略)。

 この発言に対して結局神道界からの反応は無かったということであるが、ここには曽和の戦後の神道に対するはっきりとした対決姿勢が読み取れる。というよりも、本書を通読すれば判るが、曽和は歴史上行われてきた神道をほとんど否定しており、「今や革命を断行すべき時期である」と神道の根本的変革を主張しているのである。

 では曽和の目指す神道とはどのようなものか(曽和はそれを「大日本神道」と呼称している)。本稿ではそれを読み取っていくことにする。

 本書に記されている著者略歴によると、曽和は明治二十一年六月十七日に大阪府河内郡高向村大字高向第四拾二番屋敷に生まれる。大阪府立堺中学校卒業後、村長、大阪府会議員、衆議院議員を歴任。議員在職中は主に神社行政問題を論じたという。

 ちなみに曽和は昭和十四年(1939年)の帝国議会に置いて宗教団体法案が提出された時、当時の文部大臣荒木貞夫

 一、神道と宗教、一例で云わば仏教との相違如何

 二、神社と仏寺との本質的相違如何

 三、神社の祭神と、仏寺の本尊との本質的相違如何

との質問をしたが、納得のいく回答を得られず、平沼総理大臣にも同様の質問をしたがこれまた回答を得られず、「卓を叩いて罵声一番、其の怠慢を咎めて質問を打ちきった」とのことである。

 ともかくも曽和は敗戦後急に神道革命を論じたのではなく、戦前からあるべき神道の姿を模索し、探求し続けていたのである。

 

「大日本神道」と「みたまのふゆ」

 曽和は祈願や占いといった行為全てを「迷信」として徹底的に批判する。曽和は本文中にて歴代天皇の祭祀や神道の歴史を概観しているが、そのほとんどを否定している。歴代天皇中には、「夢告」を得る、あるいは「神がかり」の状態になる場合がままあるがそれら全てを「迷信」として否定するのである。そして当然ながら、平安朝中期ごろから始まった神仏混淆には激しい嫌悪をしめし、暗黒時代とまで言い切るのである。

 曽和にとっての神道とはあくまで「合理的」「科学的」なものでなければならない。神社に参拝し、神に何かをこいねがうなどはもっての他の行為である。同様の理由で現世利益を期待しての参拝や参詣、盆などの民俗習俗も全て「迷信」として退けられる。

 では曽和にとっての「神」とは何であろうか。

 曽和は神を「主観神」と「客観神」との二つに先ず分ける。「主観神」とはわが身の「精神」であり、肉体が死亡するときは、その精神(つまり神)も共に死滅する。物心一如であり、死後の霊魂というものはありえない。ただし其の人間が生きたという事実はこの世界に永久に残る。曽和の言葉を借りれば「其の個性的法則は永久に存在する」ということになる。

 また、我と同様に他のあらゆる人々にも「神」が存在する。人間以外のあらゆる生き物や山や川といった存在にも「神」が存在している。自分以外のあらゆる存在に宿っている神を「客観神」とする。そしてこれら全ての「相対神」を統合した全一の神を「絶対神」と捉えるのである。

 ではその「神」はどのように姿を現すのであろうか。曽和はまず祈願の説明をする。曽和によると祈願は必ず叶えるという強い自信が無いと、そもそもやる意味が無いと言う。祈願とはあくまで自分と神に対する決意表明であり、願いを叶えるのは「主観の力」である。

 曽和は「主観の力」は全知全能としながらも、むしろ凡智迀愚であることが多いと説く。では「主観の力」を十全に発揮するようになるにはどうすればいいのか。

 曽和は、人間は「頗る幼稚であるが、これが次第に発達していくならば驚くべき摩訶不思議な力が出て来るはずである。それは現在では人間が持っている。」「「何時までも死なない」というのは本当なのである。但し、ここにも行った様に、それは優秀な系統のみで、劣等な者即ち神性の夢精になった者から絶えていく。優秀なものも、固体としては一定の需要があるので、その個体が、次々に子を造って、これに「みたまのふゆ」として其の生命を殖やし与えて、次々に相続して永久に滅びることがないことを云うのである。それは、系統による生命の優秀さを云うので、優秀なというのは神性の顕著なものを云い、それが、世代と共に、いよいよ顕著な発現をして、「神人」を実現することになるのである」としている。そして曽和は「大日本神道」の真髄を「物心一如、霊肉一本、神骸不二」であり、「個々の相対神に差別性を認め、其の最高神」を人間神とし、其れに、更に今後の無限の発達性を認める」ことであるとするのである。

 ではその神性を担保する「みたまのふゆ」はいかにして伝承されるのか。曽和は神というものは自分個人のものではなく、父母、さらには万世一系のつながりの中で、先祖代々受け継がれてきたものであるとする。しかし、曽和は、それはあくまで「父系一本」であるとする。理由として「人間は必ず生れ変るものである。其れも、必ず自分の子孫として生まれ変ってくる。殊に男性は、其の男系の子として生まれてくる。女性は其の嫁いだ家の家族として、精神的に完全に其の家人と成り切った人は、其の家の男系の子孫に生まれてくる」「男性は其の男系の男子として生れて来るという云うことは、男系の男子の精神の真髄は永遠に変らぬ者である。例えば、虎の系統の子は永久に虎の子に生まれて来るが如きものである。ところが虎であっても雌であれば、時には豹の子でも生むこともある。だから雄系にでなければならぬ」「男性は其の系統を伝える主役である。男は子となる生命の種子を持っているので、此の種子が女の胎中に取り入れられて、子宮内で発育するのである。つまり生命は男によって伝えられるのである。だから子は、先ず第一に父の霊の遺伝を持っている。遺伝というよりも父其のものである」と徹底した男系主義をとっている(なお、曽和は女性が参政権を持つことや、外で働くこと自体を否定している)。

 それらを踏まえて、曽和は「まず祖先を祭るのが肝要である」と祖先祭祀を「大日本神道」の中核にすえることを言うのである。云うまでも無く曽和の祖先祭祀は単なる迷信的習俗ではなく、「みたまのふゆ」を先祖から受け継ぎ、己が「神性」を覚醒させるための重要な手続きとして存在している。

 本文中では、曽和は各神社の由緒書をきちんと精査し、祭神や由来を明らかにすべきであると繰り返し述べているが、これもこの「祖先祭祀」の理念にのっとったものである。神を祭るにしてもその起源(人間で言えば先祖)が明らかでなければいくら祭祀をしても無駄であるからである。

 

曽和の古事記読解

 曽和は古事記の読解でも独自の見解を発表している。顕著なのはアマテラスとスサノオ姉弟神ではなく、夫婦として解すべきであるとしている点である。有名なアマテラスとスサノオの誓約(うけひ)を夫婦のまぐわりであるとし、そこから生まれた宗像三女神と五柱の男神を子どもであるとする。ここから神武天皇につながる皇統が始まっていくので、この論に従えばスサノオは皇室の父系の始祖であるということになる。そして曽和は伊勢神宮にアマテラスだけでなく、スサノオを共に祭るべきであると何度も強く主張するのである。

 なぜ曽和はこのような主張をするのか。云うまでも無く、皇統はその始祖も「男」であらないと「みたまのふゆ」が伝承されていることにならないからである。ここでも曽和の理論は一貫している。

 さらに曽和は、天地開闢の際、最初に表れた神である天之御中主神にも独自の解釈をする。曽和は天之御中主神を「宇宙間の万物一切のものに発展発育する根本の神」であるとし、その存在を粒子にたとえる。宇宙最初の存在であり、あらゆるエネルギー・法則・素質を生み出す根源である。そしてそれは万物を統一する存在であり、法則も永遠である。一切万物が天之御中主神による創造であり、この世界のあらゆる存在に神がましましている。そしてその天之御中主神の生命の一部を賜る。これが「みたまのふゆ」であるとするのである。曽和は「此の生命は天之御中主神の生命であり、また、個々の系統の生命である。此の系統が貴重なのである」と結んでいる。

 曽和にとっての祖先崇拝はこの天之御中主神の生命の一部、つまり「みたまのふゆ」を先祖から受け継ぎ、育て、後の世代に引き継ぐための手段なのである。そしてこれこそが、「大日本神道」の根本思想なのである。

 

むすび

 曽和の唱える「大日本神道」とは全体神たる天之御中主神の生命を祖先から受け継いでいることをしっかり確認し、自身の神性を高め、それをさらに次世代に伝え、種としての系統をさらに進化させていくということであった。曽和の理論は現代から見るとそのまま世界に出すことははばかられるものが多い。特に頑固なまでの男系主義は到底世間からは受け入れられないものであろう。

 しかし、現在世界中で精子バンクが急速に広まりつつある。精子バンクを求める動機は様々だろうが、能力や容姿を求めて、「優秀な」精子を購入する女性が相当数いることは想像できる。そしてそれがこれから先、ビジネスとしてさらに広まっていくことも容易に想像される。曽和の男系主義と精子バンクの隆盛は奇妙な符号を感じさせる。さらに私はまったくの専門外だが、遺伝子工学の分野で新たな優性思想が「学問的に」立証されつつあるという話も聞く。これらの流れは純粋にビジネスの論理、もしくは学問上の問題であり、従来の倫理や宗教では歯止めを利かせる事は難しいであろう。

 対して、曽和の神道論は、一見、優性思想であるかのように見えるが、そうではない。曽和はあくまで個々人が神になることのみを判断基準にしている。そこでは一般社会の能力や美醜などは問題にならない。そんなものは「絶対神」の前では瑣末な違いである。

 神道をいかにして鍛え直すか、あるいは再生するか。これは過去幾人も挑んできた重大問題である。これからの神道はどうあるべきか。より一層の科学技術の進展とグローバリズムの際限なき拡大にいかに神道は応対しえるのか。この命題を考える際のヒントとして曽和の「大日本神道」は無視しえない価値をもっているのではないか。

参考文献

曽和義弌『日本神道の革命』 大日本新思想学会 昭和三十六年六月

 

公式ホームページをリニューアル

お気づきの方もおられると思いますが、当会の公式ホームページがリニューアルされました。デザインやページ構成を一新することで、より親しみやすく、当会の活動を分かりやすくお伝えすることができるサイトになりました。

 

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リニューアルされた公式ホームページ

 

 

【関西】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会関西地区第15回定例研究会

日時:令和元年7月27日(土)17時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 411号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

http://​http://office-gocomachi.main.jp/​

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

里見岸雄『討論“天皇” 』輪読会の模様

 民族文化研究会関西地区定例研究会では、会員による研究報告と並行して、日本文化・日本思想についての古典的著作を対象とした輪読会を行っています。現在の輪読会のテキストとなっているのは、里見岸雄『討論“天皇” 』(日本国体学会、昭和50年/原著は昭和37年)です。本書は、戦後になって吹き荒れた敵意に満ちた不正確極まりない天皇論に対し、その誤謬を明快に指摘することで応酬し、大衆における正確な天皇観の形成を図ることが目的になっております。いわば、天皇論についての啓蒙書として位置付けられるでしょう。
 その文体は平易で、天皇論における諸問題を手に取るように把握させ、戦後の天皇論に伏在している誤謬が、次々と明らかにされます。この論旨の明瞭さは、本書が討論形式で展開するためでもあります。本書は、様々な出自や職業の面々(学生・新聞記者・教師・美容師・労組活動家・看護婦・元軍人・主婦・神職・僧侶・経営者)が、里見が自身を仮託したと思しい法学博士大内山護を導き手としつつ、各々の天皇観を表明し合う、架空の座談会の速記録という形式を取っています。ここでの白熱の討論が、天皇論上の諸立場の相剋を、極めて明瞭に描き切っています。
 しかし、単なる平易さや、戦後の天皇論への各論的な反論だけが、本書のもつ特色というわけではありません。平易な会話文によって読者を説き伏せる形式を持ちつつ、本書の基本思想は、著者の理論的著作である『万世一系天皇』などと同じであり、高度な内容を平易な文体で表現することに成功しています。これこそ、「啓蒙書」の面目躍如であって、冒頭で本書を「啓蒙書」と呼んだのは、このためです。単なる戦後の天皇論への批判に留まらない、著者が「国体科学」と呼ぶ、正確な天皇観の形成こそ、本書の企図するところなのです。こうした本書に関心をもち、関西近辺にお住まいの方は、どうか民族文化研究会関西地区定例研究会にお気軽にご参加ください。(関西支部事務担当・湯原)

 

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里見岸雄『討論“天皇”』

 

【関西】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会関西地区第14回定例研究会

日時:令和元年6月29日(土)17時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 207号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
http://office-gocomachi.main.jp/
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第十囘)――近現代音樂

 令和元年5月18日に開催された民族文化研究会関西地区第13回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第十囘)――近現代音樂」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから近現代音樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。


一、現代の樣相 二、近現代音樂に就いて 三、明治期の邦樂 四、大正~戰時中の邦樂
五、 戰後~現代の邦樂  六、 近代以降の音樂教育  七、日本人の嗜好の變質 八、現代邦樂の行方

一、現代の樣相

  昭和天皇崩御されたとき、歌舞音曲の自肅が求められました。昭和六十四年には最早遠い響きとなつてゐた歌舞音曲と云ふ單語に戸惑ふ人も少なからずいたでせう。この時期、邦樂が自肅してゐる間、テレビやラジオ、スーパーマーケットでは西洋クラシック音樂は自肅とは關係なく流れてゐました。なぜ西洋音樂ならいいのでせうか。何か歪なものを感じざるをへません。

二、近現代音樂に就いて

 近現代音樂は、近代音樂と現代音樂を總稱したものです。それぞれ、近代音樂は一般的に西洋のクラシック音樂に於てお凡そ西暦二十世紀初頭(あるいは十九世紀末)頃から第二次世界大戰の終はり頃までの音樂を指します。現代音樂は西洋クラシック音樂の流れにあり、西暦二十世紀後半から現在に至る音樂を指します。 このやうに、近現代音樂は西洋音樂の區分けとして使はれてをり、日本の傳統音樂に於る近現代音樂と云ふ枠組みはありません。この第十囘發表では基本的に純邦樂の近代・現代に於る變遷を追ふので、獨自の區分を用ゐ解説していかうと思ひます。それぞれ明治期の邦樂、大正~戰時中の邦樂、戰後~現在までの邦樂の三區分とします。

三、明治期の邦樂

 明治維新で日本は一變しました。封建體制の崩潰で各種の制度改革が急速に展開し、日本音樂にも波及しました。日本音樂それぞれの變格に就いて見ていきませう。
 能樂は數百年に渡る武士階級と云ふパトロンを失ひ、一氣に沒落しました。そのため能樂の大衆化を餘儀なくされ、三味線を持ち込む事態にもなりました。尺八は普化宗の廢止により虚無僧が失業状態になり存續自體が危機に陷ります。盲人の特權の當道制度も廢止され、檢校らは路頭に迷ひ、寄席の席の舞臺に立つほどになりました。
 三味線音樂は地歌長唄と淨瑠璃でそれぞれ命運が別れ、地歌は家庭音樂の道へ進み、長唄は歌舞伎の變はらない盛況ぶりに追ひ風を受け、創作も盛んになりました。淨瑠璃は生活文化の變化や娯樂の多樣化により愛好者が激減し、年四十日しか興行できない事態に陷つてしまひます。一方雅樂は王政復古の波に乘り急浮上しました。琵琶は平安の軍談だけでなく幅廣い題材を採用し、また薩摩人が持ち込んだ薩摩琵琶が東京で大流行し、全盛となりました。
 それぞれの凋落した樂種も、時間がたつにつれ財團らの支援により徐々に立て直してきました。特に、尺八は純粹樂器としての獨立性を保持し、樂器として伸張することになりました。明治には新しい種目も成立しました。薩摩琵琶・筑前琵琶浪花節(浪曲)です。薩摩琵琶は先程觸れたとほり、東京で流行し、日清・日露戰爭では三味線を主とした軍歌が流行しますが、薩摩琵琶が三味線音樂では表現しにくい戰時の心性を掴んだ表現で學生や書生から人氣を呼び、多くの琵琶會が結成されました。
 また、この時代の上流階級の雰圍氣として、邦樂は遊離の蠻樂で五線譜や理論體系をもたない非合理なものとして、國の音樂として通用しないと蔑視する傾向がありました。かう云つた傾向は昭和まで續き、再評價の流れは戰後暫く時間が經つてからとなります。

四、大正~戰時中の邦樂

 近代に入り、西洋音樂が齎した演奏會で音樂をきかせると云ふ方式ができました。それまで傳統音樂は芝居小屋や寄席、花街などで演奏されたり、おさらひ會で披露されて來ましたが、そこに演奏會と云ふ新たな場が加はりました。
 東京音樂學校に設置された邦樂調査掛がさまざまな傳統音樂のすぐれた演奏をきかせる定期演奏會を始め、身近な生活の中に息づく傳統音樂を、音樂として鑑賞する習慣を社會に根附かせていきました。
 大正九年に宮城道雄らが新日本音樂演奏會を設立。これは新作のみで構成された劃期的なものでした。ここから新日本音樂と呼ばれる、西洋音樂をとりいれた新しい創作活動が盛んになります。國内の交通網が整備されていくにつれ、國内の各地や植民地を含む外地でも演奏會が屡々行はれるやうになりました。
 この時期レコードが實用段階を迎へ、傳統音樂を録音する事業が始まりました。その後も、流行歌や新民謠、新小唄などが大量に生産され始める昭和期より以前は國内で吹き込まれた音盤の殆どは傳統音樂でした。
 この時期、西洋の樂器に對抗するため、十五弦筝、八十弦筝が開發されました。また、尺八にキーシステムを取り入れたオークラウロも作られました。しかしこれらは演奏が難しかつたり時局が惡かつたりで普及せずに終はりました。このやうな改良樂器により元の樂器が使はれなくなることはなく、各樂器の古典は、近隣の中國や朝鮮に比べればとてもよく保たれてゐます。
 滿州事變から大東亞戰爭の敗戰までの時期は、ラジオやレコードを效果的に使つて國民への弘報課宣傳が巧妙におこなはれました。日清・日露でも戰爭にちなんだ音樂創作は行はれましたが、廣く周知できるものではありませんでした。勇士達の活躍は義太夫・琵琶・浪曲唱歌などを通じてメディアにて廣められました。
 更に戰爭状態が進んだ昭和十五年には、内閣情報局が設置され、傳統音樂に限らず、文化領域一般に戰爭遂行・動員のための統制が及び、自由な音樂運動は制限されていきました。例へば、男女の情愛を扱つた常磐津、清元、新内は抑制され、琵琶や詩吟、義太夫などは奬勵されました。筝曲も手事のみの放送も行はれ、長唄や謠曲では時局にそぐわない歌詞の改訂も行はれました。
 兵士たちに尤も人氣のあつた浪曲は大衆への影響力が大きく、内閣情報局の肝いりで浪曲向上會が結成され、戰意昂揚のための愛國浪曲が創作されました。この時期は、日本的であることや、日本人の手による作品が歡迎され、傳統音樂には追ひ風となりました。皇紀二千六百年祭では傳統音樂・洋樂問はず、戰前に於て最大の國家的祝祭を莊嚴する動きが音樂會をあげて行はれ、數多くの新作が披露されました。この時期はむしろ創作活動自體は活性化しました。

五、 戰後~現代の邦樂

戰後の傳統音樂をめぐる環境は、戰時中とは百八十度轉換しました。平和主義が新しい價値基準となり、傳統音樂もその觀點からの評價と統制を受けるやうになります。昭和二十年十一月、歌舞伎にGHQから上演禁止令がだされました。戰爭を題材にすることが多かつた琵琶は忌避され、軟弱とされた淨瑠璃は復權しました。昭和二十年十二月、GHQ神道指令により國家神道が解體され、皇室祭祀や神社祭祀に於る雅樂の意味附けも變化しました。宮内廳發足時に五十人の定員だつた雅樂の樂師が、二十五人に減らされました。以後は宮中行事の雅樂と西洋音樂を擔當することになります。
 浪曲は戰後暫くも人氣は續きましたが、左翼智識人の強い批判を浴び、復興の本格化とともに人氣は下火となりました。また、小唄の流行も戰後ありましたが、高度經濟成長期に入ると空前のピアノブームが現出し、傳統音樂を主體にしてきた身近な自演文化の世界を一變させました。傳統音樂と西洋音樂とを對立的に捉へる論調は、むしろ戰後に始まつたと言へます。
 しかし戰後、嚴しい邦樂の状況を支へた諸制度も發足しました。昭和二十一年には藝術祭が始められ、敗戰後の日本人に傳統文化の力を再認識させ、昭和二十六年からは、優れた成果に對して賞を與へるやうになり、昭和二十五年には文化財保護法が制定され、當時世界的にも類例のない無形文化財の保護が盛り込まれ、傳統音樂や傳統藝能もその對象となりました。また、昭和二十八年に設けられたレコード部門では良質の傳統音樂の集成盤が多數作られました。昭和二十九年に重要無形民族文化財が新設され、昭和四十三年に文化廳が發足、昭和四十一年の國立劇場會場により傳統藝能に大きな影響を齎しました。國立劇場は傳統文化の保存、振興を目的に、公開・傳承者養成・調査事業などをおこなつてゐます。
 大正時代に始まつた新日本音樂が、モダンな音樂環境への入り口にゐた當時の聽衆に對する傳統音樂からの掛け橋であつたとすると、戰後の現代邦樂は、より現代化した戰後の音樂環境に即した傳統音樂の可能性を追求したものと言へます。中能島欣一をはじめ、新しい創作を始める演奏家がつづきました。この時期西洋音樂を勉強した作曲家も傳統音樂の世界に參入し、諸井誠の竹籟五章、武滿徹のノヴェンバー・ステップスなどが生まれました。彼らの參入により、西洋樂器を加へた作品や、五線譜で書かれた作品が生まれ、それまで種目ごとの活動が主であつた傳統音樂の世界にそれを越えた交流を齎し、新しい作品や活動形態に對応できる演奏家が求められるやうになりました。邦樂器のオーケストラとも云へる、日本音樂集團も結成され、定期講演を續けてゐます。
 傳統音樂の海外公演は、國内に於る傳統音樂を問ひ直させる契機となりました。昭和三十年代以降は、海外の大學で能樂・尺八・地歌箏曲をなどを教へたり、ワークショップやシンポジウムを開催する動きも廣がりました。
 國内では、高度成長の終はりとともに現代邦樂の創作活動が一段落し、再び古典囘歸がはじまりました。昭和四十年代後半に、民謠・津輕三味線・和太鼓・沖繩音樂などがブームを呼び、その公演、創作活動が活溌化しました。平成の始まりの時期、郷土に傳はる民俗藝能、民族音樂への注目や、傳統音樂とポピュラー音樂との融合の試みなども行はれました。

六、 近代以降の音樂教育

 明治五年の學生發布で小學校教科のひとつとして、唱歌科が設置されました。しかし當時は指導者や教材が間に合はず、その實施までには暫くかかりました。學校に於る音樂教育の實施を含む日本の音樂制作實現のため、明治十二年に音樂取調掛が設置され、次のやうな政策が掲げられました。一、東西二洋の音樂を折衷して新曲を作ること。二、將來國樂を起こすべき人物を養成すること。三、諸學校に音樂を實施すること。
 音樂取調掛の掛長伊澤修二は、日本政府雇傭外國人教師として、アメリカ人のL・W・メーソンを招聘し、教科書の編纂や教材の作成、人材育成などさまざまな事業を行ひました。その結果、明治十六年に日本はじめての音樂教科書である小學唱歌集初篇が刊行され、これらの教材は歐米の旋律に日本の歌詞をつけたものと、西洋音樂の基本として創作された唱歌が大部分を占め、わらべうたや日本古謠など、昔から歌ひ繼がれてきた日本の歌は極めて少數となりました。
 その後、明治・大正・昭和とつづく唱歌教育では、現在でも愛唱されてゐる數多くの唱歌が教材として取り上げられ、歌ひ繼がれてきました。また、雅樂や俗樂と呼ばれる日本の傳統音樂は、子どもたちの歌唱に適した旋律や歌詞の内容とは言へないとされ、教材としては取り上げられませんでした。
 西歐化による近代國家の建設を目指した明治政府は、音樂教育に置いても日本の傳統音樂より西洋音樂を重視しました。それは先程紹介した小學唱歌集初篇から既に反映されてをり、日本の學校教育で傳統音樂が輕視されてきた經緯は、明治政府の文教政策にその歴史を遡ることができます。
 音樂取調掛は、明治二十年に音樂の專門教育機關である東京音樂學校になり、そこでは西洋音樂が中心で、山田流箏曲が科目のひとつとして教へられてゐたものの、傳統音樂の專門課程は置かれませんでした。ただし、東京訓盲院、京都訓盲院などでは地歌箏曲の專門教育が行はれました。大正元年に東京音樂學校に能樂囃子科が設置され、傳統音樂の專門課程が誕生し、昭和に入つて長唄、生田流箏曲、能樂、長唄舞踊が加へられました。筝曲・能樂・長唄の三專攻からなる邦樂科が設置されたのは昭和十一年です。
 戰後の東京藝術大學設置に際して、一時邦樂科を廢止し、代はりに邦樂研究所ををく案が唱へられましたが、關係者によるはたらきかけが實つて邦樂科の存續が決まり、昭和二十五年に他科に一年遲れて邦樂科が發足しました。邦樂科は更に、長唄囃子・能樂囃子・常磐津・清元・尺八・雅樂・日本舞踊の各專攻が加へられて今日に至つてゐます。
 ここからは戰後から現代に於る一般的な學校の音樂教育の状況を解説していきます。戰後の教育は、昭和二十二年、二十六年の學習指導要領をもとに始まりました。昭和三十三年には法的拘束力をもつ學習指導要領が公示され、平成十年の第七時に至るまで改訂が重ねられてきました。小學校及び中學校の音樂科に於ても明治以來の傳統である西洋音樂を主とする點は代はりありません。しかし、徐々に傳統音樂も重視されるやうになり、鑑賞教材の多くに傳統音樂が示されてゐることや、多くの學校で郷土の音樂を教材として取り上げてゐることなどに現れてゐます。平成十年の改訂では、中學校での和樂器の體驗が義務附けられ、日本の音樂の指導を重視する氣運は高まりつつあります。しかし、肝腎の指導者たる音樂教師が傳統樂器の扱ひ方がわからず、結局和太鼓を少し觸るだけになり、筝や三味線、尺八の體驗をさせるには程遠い状況となつてゐます。
七、日本人の嗜好の變質

 これまで説明してきたやうに、明治になり西洋音樂が流入し、音樂取調掛による西洋音樂教育が始まつたことで日本人の美的感覺は徐々に西洋化していきました。
 しかし明治期に於ては、幾ら維新で世の中が變はつたとは云へ、江戸から生きてきた人の嗜好まで變へることはできませんでした。その證據に明治四十一年の東京市市勢調査に基づく東京市市勢調査職業別現在人口表によれば、多數の傳統音樂專門家がをり、全體で約七千人で、そのうちの多數を占める藝姑を除いても四千人以上が傳統音樂關聯の職業に從事してゐることがわかりました。
 それから更に下つた昭和初期であつても、まだまだ傳統音樂の勢力は大きいままでした。昭和七年に日本放送協會が全國を七地域に分けて行つた第一囘全國ラジオ調査による調査によれば、聽きたい音樂の第一位は、どの地域でも壓倒的に浪曲でした。第二位には、地域により、講談・落語・琵琶・義太夫・民謠・謠曲などがあげられました。
 その一方で、關東大震災後の東京で進行しつつあつた若い世代の傳統音樂離れや、明治四一年の市勢調査に比べて傳統音樂從事者が減りつつあると云ふ事態が徐々に顯在化してきました。都市に廣まりつつあつたモダンな生活樣式に適合的なクラシック、ジャズなどの西洋音樂や流行歌に影響され、傳統音樂をめぐる環境が少しづつ變化してゐたことがわかります。
 他の統計では、アマチュア西洋音樂團體が二百七十團體、吹奏樂團は大東亞戰爭開戰時には三千八百もあつたと云ひます。當然邦樂にもその影響は大きく、洋樂要素を持つ創作もあれば、廢絶する種目もでました。
 また、音樂の創作方式自體にも價値觀の變容が生まれました。邦樂は多かれ少なかれ、本歌取りと云ふ先行曲の旋律型や手をベースにアレンジする例が多くありました。そのため、作曲と云ふ創作行爲に價値を認めず、節附けと云つた程度の認識しか持たれませんでした。その考へが西洋音樂の價値觀の流入によつて逆轉し、新日本音樂と云つた「新」と云ふものに重きを置く新しい價値觀が誕生しました。それまでは傳統を尊び、新しいものをむしろ毛嫌ひしてゐた日本人が、新しさを享受し始めたのです。とは云へ、この流れは宮城道雄ら著名な音樂家による樣々な名作を誕生させることにもなりました。

八、現代邦樂の行方

 戰後、高度經濟成長期に入ると空前のピアノブームが卷き起こり、以後は西洋音樂を主とした生活樣式が定着し、その流れは現在まで續いてゐます。昭和初期まであつた日本の傳統音樂の人氣は落ち、ポピュラーソングが臺頭、西暦千九百年あたりにアメリカで興つたバンドと云ふ演奏樣式が一般化し、日本でも音樂グループはまづバンドを結成し世に出ていくことが普通になりました。
 現在に於ては、傳統音樂は一部の愛好家による小規模の音樂種目となりました。三味線や筝を習ふ人數も江戸後期・明治に比べて壓倒的に少なくなり、邦樂はNHKの晝番組やラジオで聞けると云つた程度になり、民放音樂番組はJ-POPや洋樂などの番組をで占められました。しかし、現代音樂も新しいを追求するあまり行詰まり感がでてゐます。そこで新しいとは別の價値觀をもつ、古典を大事にする傳統音樂にこそ、閉塞した状況を打破できる活路があるのではないでせうか。

參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
箏曲の歴史入門 千葉優子(音樂之友社 平成十一年)