【書評】谷崎昭男『保田與重郎――吾ガ民族ノ永遠ヲ信ズル故二』(ミネルヴァ書房、平成29年)

    

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 本書は、ミネルヴァ日本評伝選のうちの一巻として執筆された、晩年の保田の謦咳に触れた著者による保田與重郎伝である。保田本人に「侍側」(これは、保田が好んだ表現である)した著者の手になる本書は、その丁寧で行き届いた叙述において、極めて優れた評伝たりえている。だが、本書の特徴は、そうした評伝としての優秀性というよりかは、その形式に反して「単なる評伝であることを超え出る」ところだ。序文で、保田の「私の見るところ、近来の文学史研究方法は、興信所の調査以上に出来ない」という一節を引用していることからも明らかなように、「興信所の調査」を想起させるような個人史の無味乾燥な堆積に、本書は重きを置かない。

 では、本書は作品論の視座からのものか、いや思想史的手法からのものか、と問うてみても、どの技法であれしっくりと本書の雰囲気に馴染まない。無理に本書の「方法」を言語化してみると、保田の生が産出する具体的で直接的な息遣いに、作品論や思想史が反響することで湧き上がる旋律とでも言おうか。本書の冒頭で保田の故郷である大和桜井の、そして末尾で保田が晩年を過ごした身余堂の光景をそれぞれ執拗なほど描写してみせるのは、陳腐な個人史を越えた保田の生の具体的で直接的なありようを浮上させる試みであるように思われる。

 奈良の素封家である保田家に生を受け、古典の地そのままである大和桜井で過ごした幼年期。長じて旧制高校に進み、時代の知的流行だったマルクス主義に関心を示す少年期。「コギト」と「日本浪曼派」に依拠し、日本古典の復興を一大文芸運動として提起した青年期。大東亜戦争に文明開化の論理の終焉と偉大な敗北の精神を目撃した壮年期。戦後に時代が突入しても、その思惟を志操をもって一貫させた老年期。本書の叙述は、保田の文芸と行動を鮮烈に活写してみせる。だが、この一幕の劇にも似た保田の文芸と行動を描写する叙述の奔流も、冒頭と末尾に配置された大和桜井と身余堂という保田の生の二つの「現場」に挟み込まれる構成になっている。折り目正しい「評伝」の叙述も、こうした保田の生の具体的で直接的な「現場」から生まれ、やがてそこへと還ることになるわけである。

 こうした本書の「方法」は、著者が明言しているように、「文学のことばで保田與重郎を記す」ことにほかならない。本書は、保田の作品解釈や思想史的見解については、オーソドックスな立場であるように思われる。だが、本書の目的が、トリッキーな新機軸を打ち出すことではなく、保田の生を「文学のことば」によって鮮烈に活写することにあるのならば、これはいささかも瑕疵にはなるまい。この「文学のことば」によって、あるいは大和桜井や身余堂といった保田の生の「現場」を訪ねることによって、本書は「興信所の調査」のような個人史の無味乾燥な堆積であることを逃れ、評伝を超え出た評伝たりえたのである。

 

【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第二囘)――日本民謠

 平成30年9月1日に開催された民族文化研究会関西地区第5回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第二囘)――日本民謠」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。

 第一囘では日本音樂の概要に就いて解説致しました。今囘からは日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから日本民謠に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

 

一、日本民謠の定義 二、日本民謠の發生と歴史 三、日本民謠の種類と分類 四、日本民謠の詩型  五、日本民謠の移動 六、日本民謠の音樂理論 七、現代に於る日本民謠の立場

 

一、日本民謠の定義

 NHKラジオ第一、民謠をたづねて(毎週土曜日12:30~12:55)の冒頭、

 ─民謠は心のふるさと。私達の遠い祖先が素朴な生活の中から生み出した、豐かな心の現れです。今日もこの懐かしい民謠の數々でおくつろぎください。─

 民謠をたづねては昭和二七年から全國各地の公民館で觀客に披露した民謠を收録したものを放送してゐます。放送では必ず上記の文言を司會が話してゐます。一般には民謠の定義はこのやうな認識で問題はないと思ひます。しかしもう少し踏み込んで定義をしていきませう。

 民謠と云ふ漢語は誰が、いつ發案したのでせうか。もともと民謠は單語として存在はしてゐたけれども、死語と化してゐました。ではどう呼ばれてゐたかと云ふと、地方歌や風俗歌、國々田舎歌などと呼ばれてゐました。しかし森鴎外上田敏らの飜譯家の立場の人間が明治中期、das VolksliedやForksongの飜譯語として使用するやうになり學術用語として優位に立ちました。ちなみに一八世紀には西歐は日本に先んじて民謠研究が盛んになつてゐました。日本はその研究熱に觸發された形となります。

 辭書を引いてみませう。民謠とは民間に自然に發生した歌謠、俗謠、俚謠(大漢和辭典)。民衆ないし民族の間から生まれ、その生活に根附いた歌謠。流行歌が時代的に民衆的なのに對して、民謠は地域的に民族的に民衆的なのである(大辭典)。民謠と歌謠、俗謠、俚謠、流行歌との區別も完璧ではなく、各分野の學者によつても解釋が異なり、定義は簡單に決めがたいです。記紀萬葉集の歌も民謠に加へる學者、更には日本人らしい曲なら全て日本民謠と解釋してゐる學者も居ます。俚謠 ・俗謠・流行歌の定義は町田佳聲氏に依ることにします。俚謠は素朴な農民たちが自作自演した歌、俗謠は都會の專門家たちに技工化された俚謠 、流行歌は普通の歌謠が大衆の支持を得て流行したものとします。歌謠の定義は大辭林より、言葉に節(旋律)を附けて聲に出して歌ふもの、とします。

 今囘は歌謠史研究の立場からと、現行民謠の在り方から民謠の條件を定義します。第一に自然性。專門家が創作した藝術的な歌謠ではなく、自然に聲を合はせて歌はれ、口から口へ、耳から耳へ受け繼がれてきたものです。最初に口ずさんだ人間はゐても、作者はわからないものとなります。第二に歌謠性。直接口から耳ヘ音を聞き、調子を聞き、歌ひ方を聞いて感動する「 聞く文學」と云ふ性質を持つものです。第三に集團性。民謠の大部分が勞働歌であるやうに、個人的感情ではなく集團活動により創造された民衆詩であることです。最初は個人の創作であつても、集團活動により各村などに廣がるうちにその個性は消滅し民衆性・社會性のみが殘ります。第四に素朴性。「民謠には人間生活の底を流れる不易の眞實が有る。民謠が時代を越え、時には處を越えて長く歌はれる所以はそこに有る」(雨情會代表 古茂田信男)。その他北原白秋など有名な詩人が民謠の良さを素朴さに求めてゐます。第五に郷土性。民謠は常にその郷土にふさはしい律動と旋律を持つて歌はれ、必ずどこかにその土地のにほひと云ふものを殘してゐます。土地の匂ひこそ民謠の生命です。

 以上をまとめ、民謠とは本來、郷土の民衆集團の間に自然に發生し、傳承されてゆくうちに、その生活感情を素朴に反映した歌謠。このやうに定義します。

 

二、日本民謠の發生と歴史

 上記のやうに定義した民謠はいつ、なぜ發生したのでせうか。いつに就いて明らかにするのは極めて困難です。群馬縣や埼玉縣で出土した埴輪像によれば、西暦三、四世紀の頃には東國で太鼓などの樂器によつて拍子を取る郷黨の娯樂として、歌舞や民謠のやうなものが發達してゐたことが確認できます。しかしこの時代に初めて發生したとも考へられず、繩文時代にも民謠はあつたと思はれますが、現在に傳はつてゐるものは稻作以降の歌のみです。

 ではなぜに就いてです。一般に心理學的に見た文藝發生説は遊戲起源説・性欲起源説・感動起源説・摸倣起源説で、歴史社會學的には信仰起源説・勞働起源説があります。歌謠はうたふことそれ自體の快樂を目的として發生したものではなく、他の目的を達するために必要な外的條件に基づいて生まれたとされてゐます。誰が(演唱者職業)、何處で(演唱場所)、何のため(演唱目的)、どのやうな動作を伴つて(演唱時動作)と云つた四つの基本的なものが民謠の要素になつてゐます。これを民謠の四代要素とします。日本では歌垣と云ふものがあります。歌垣は最近は亂婚祭との認識がされてゐますが、本來は娯樂行事ではなく、信仰の中心となつてゐる山などの聖地で、耕作の開始される春や收穫のあげられた秋などに、老若男女が集ひ飮食したり歌舞をしたりする季節的行事です。萬葉集風土記に記述があり、信仰・生産・勞働に深いつながりを有してゐます。民謠はまづこのやうに信仰・生産・勞働の歌があり、そこから派生した祝唄・山唄・田植歌・舟歌ができ婚禮・饗宴・祭式などの樣々な用途に歌ひかへられながら流動していつたものと推測されます。また、信仰から始まつたとされる盆踊りも日本民謠の本質として舉げられます。

 次に各時代の民謠の歴史です。古代は常民(庶民)たちに歌はれる民謠、職業專門家により歌はれる藝謠、作者の自己表現を目的とした創作歌の三種類に分けられます。記紀歌謠にもこれら三種が混在してゐます。更に古代時代を二時代に區分すると、記紀・萬葉歌謠を中心とする大歌時代。神樂歌・催馬樂・風俗歌を中心とする風俗時代に分けられます。大歌時代の大歌は宮廷の大歌所から、風俗時代の風俗は元來地方民謠の意ですが、貴族たちの遊宴歌謠として風俗歌をもとにした歌が中心的勢力だつたからです。特に催馬樂は風俗歌を唐樂の催馬樂の曲調や拍子に合はせて歌つたものです。他に民謠が文獻にでてくるのは土佐日記などの物語日記類にわづかに出てくるのみで、民謠集のやうなまとまつた文獻はまだ見當たりません。

 中世時代の民謠も二時代に分けることができます。今樣雜藝時代と小歌圈時代です。日本歌謠も時代の流れに合はせ、日本固有の音樂が作られていき、貴族の沒落につれて新たに賤民階層が藝能や音樂の時代を作りました。今樣雜藝時代は、後白河上皇が撰ばれた梁塵祕抄にある田歌・足柄・黒鳥子・伊地子・舊川などと呼ばれる民族歌謠系の歌などで、これらは直接中世の民謠と交渉を持つものです。ただ、田歌以外は殆ど歌詞がわからない状態です。中世後期の小歌時代の小歌とは、田樂や猿樂などの長形式の歌ひものが次第に時代感情から遊離して新たに臺頭した新興の歌謠群のことを指します。七七七五調で歌はれることが多い小歌は、今樣や早歌の流れをくみます。小歌を收録した閑吟集(西暦一五十八年)は、田樂や早歌、貴族・僧侶などの連歌などが多いのですが、中には近世以降の傳承歌謠から見て明らかに民謠系小歌と目されるものもかなり混じつてゐます。しかし民謠集として獨立はしてをらず、あくまで文獻から民謠的要素を抽出しただけです。しかし室町時代の田植ゑ歌を大規模に收録した田植草紙と名附ける寫本類が昭和初期に見つかりました。これは完全に民謠集として作られたもので、これが中世民謠の代表文獻とされてゐます。

 近世・明治の民謠に就いて。今日わたしたちが民謠と呼んでゐるものの殆どは直接この期間に作られました。現代民謠の九割までが近世・近代民謠の延長です。小歌系の歌は三味線の伴奏なしでは歌はれなくなり、新作の歌詞も三味線に合はせて歌はれるやうになりました。近世歌謠を大別すると流行歌謠・淨瑠璃歌謠・歌舞伎歌謠・地方歌謠の四種になります。そのなかで民謠は地方歌謠に屬してゐます。近世民謠を語る上では流行歌謠との關係性がとても深くなつてゐます。小歌の七七七五調は三味線音樂によつて分解され、三・四┃四・三┃三・四┃五の輕快なリズムを生み出し、民謠にも大きな影響を及ぼしました。都市では三味線音樂が次から次へと流行してゐました。その間に地方の農山漁村にはこれらの流行唄と同時に、直接生産勞働に伴ふ純粹の民謠が田舎歌にふさはしい歌詞と律調とによつて歌はれてゐました。近世にはこれら民謠だけを集めた文獻も數多く現れました。例として『延享五年小歌しやうが集』や『山家鳥蟲歌』(別名諸國盆踊り唱歌)『鄙迺一曲』『巷謠篇』などが代表的な民謠集として今日もなほ重寶されてゐます。近世に於てもう一つ考へなければならないのは、一般に城下町ではどこでも小歌・盆踊りなどの音曲類に就いて禁制の布令が嚴しかつたことです。岡山などは藩内に於る歌舞音曲などあらゆる慰安行爲を禁止し、そのため岡山には著名な民謠と稱されるものは殆どありませんでした。

 近世後期は流行歌の全盛時代なので、幕末から明治中期までに普及した民謠は殆どが御坐敷唄化された俗謠の類で、半ば流行唄的な存在のものばかりになりました。以降に就いては「七、現代に於る日本民謠の立場」にて記述します。

 

三、日本民謠の種類・分類

 明治三九年、志田義秀氏が日本民謠概論を雜誌帝國文學に連載しました。民謠研究の要を國民詩革新・國語改良・國民樂確立の三點から説き、ドイツに於る民謠研究に範を求めながら、民謠の起源・種類から古代以來の日本民謠の形式の變遷を具體的に論じやうとしました。氏は民謠を大別して勞働に屬するもの六種(農・漁・樵・工事・馬士・茶摘)と、舞踏に屬するもの六種(神事・祝事・盆・踊・兒童・童謠)とし、更にこれらを細分化して提示しました。日本民謠概論からわかることは、現行民謠の大半は勞働に關する俗謠が中心で、舞踏に關するものは盆踊りと子守歌が大半である、と云つたことです。この分類から進んで、尤も要を得てゐる分類法は柳田國男の民俗學的分類案です。柳田氏は歌はれる場所および歌ふ人の身柄を中心として分けました。すなはち民謠には必ず歌ふ目的と場所が定まつてゐることです。柳田氏は民謠を次の十項目に分けました。田歌(田植稻刈等)・庭歌(麥打米搗等)・山歌(草刈・木おろし等)・海歌(船卸・海苔取等)・業歌(大工・蹈鞴踏等)・道歌(馬追牛方等)・祝歌(酒盛嫁入等)・祭歌(神迎神送等)・遊歌(盆正月等)・童歌(子守手毬等)。また、町田佳聲氏が廣義の民謠として郷土民謠・わらべ唄・流行唄と分けた分類法もよく使はれてゐます。わかりやすいやうに圖①にまとめてゐます。

 志田氏以上に柳田氏の分類案で、日本の民謠は作業に伴ひ作業の目的を果たすために歌ふ勞作歌が中心となることがわかります。日本の民謠は外國の民謠に比べて仕事歌はずいぶんと細かく分かれて發達してゐますが純粹娯樂の民謠と云ふのは少ないと云ふことです。現在では殆どすべての民謠の附帶目的は娯樂にあるけれども、それらの歌の本義は信仰や勞働起源のものがフシやリズムが面白いために酒盛り歌などに流用されたものが多いと云ふ事實があります。日本の民謠には愛の歌や結婚の歌や青年のための歌が少ないなどの批判があるのですが、この原因は長い封建制度儒教、佛教の影響が大きいのではないかとされてゐます。

 右の分類案とは別に民謠の曲節で五種類に大別することもできます。一つは木遣り口説で、聲明あたりから派生したと考へられる長篇の歌です。二つは甚句と呼ばれる七七七五調の歌です。三つは江戸・京都・大阪を中心とする都會で生まれた流行歌の地方化した歌です。四つは祝福藝人たちが歌ふ祝詞のやうな歌です。五つは甚句流行以前に歌はれてゐたと思はれる古調で、木遣り口説などとは異なる詩形の歌です。このうち甚句と木遣り口説で八割近くを占めてゐます。これら五種類の曲節しかないとは云へ、人々の生活環境によつて、多樣多種に分化してゐます。用途ひとつにうたひとつと云ふ考へ方ではなく、わづか五種類の歌を、人々はいかに利用してきたかに就いて考へるはうがいいかもしれません。さうなると分類法も曲中心から使用してきた人間中心へと移して考へてもいいでせう。

 

四、日本民謠の詩型

 現行民謠の大半が今樣半形式の流れをくむ七七七五の近世小唄調を根幹とするものであることは、既に述べました。殘りは島嶼部や山間未開の地方に遺存してゐるものです。しかしそれも室町小歌までしか遡れません。詩型の變遷を圖②に表してゐます。七五調は輕快、七七調は野鄙、五七調は古雅、五五調は佶屈な曲調です。次に各調の代表的な歌を紹介します。

 七五調七五七五形茨城縣農作歌「ぶてたぶてたよ この麥は これは旦那に 納麥」。七七調七七七七形奧州白河地方田植ゑ歌「關の白河 來てみておくれ 娘そろうて 田植ゑをなさる」。五七調五七五五七五形京都府桑野郡地方田植ゑ歌「おもしろや 今日には車 淀に船  淀に船  桂の川に 向かひ船」。五五調はイザナギイザナミ二柱の「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」以外には歌謠の世界では殆どみられません。

 

五、日本民謠の移動

 民謠は地域性があると説明しました。しかし同じ民謠が全國に點在してゐる場合もあるのです。代表的なものにハイヤ節・追分・新保廣臺寺・松坂・エンヤラヤなどがあります。これらの歌はいづれもどこかの土地で生まれると、偶々何かの原因によつて各地へ廣まり始め、今日では北海道から九州にまで及ぶ結果となりました。しかし同じ曲であつても現實には地域ごとに少しづつ曲調が異なつてゐます。例として田助ハイヤ節、阿久根ハンヤ節、三原ヤッサ節、宮津アイヤエ節、佐渡おけさ、庄内ハエヤ節、津輕アイヤ節と各地でハイヤ節は名前を變え少しづつ調子も違つてゐます。ハイヤ節は鹿兒島から發し、船によつて北海道まで運ばれました。人々によつて歌も運ばれると云ふ性格を知ることができます。また、それぞれの土地には獨特の文化が有ることもわかります。文化は傳播し派生する、文化は同化し新しいものを創造すると云ふ性質を持つてゐます。

 

六、日本民謠の音樂理論

 日本民謠が學術的に研究され始めたのは大正時代からです。日本の音樂全般に云へることですが、個別の曲や演奏そのものを重視する傾向があり、體系的に音樂理論が研究され始めたのは明治からでした。それまでは雅樂で中國の音樂理論を取り入れ、聲明もこれに倣つた程度でした。音樂理論をまとめたのは上原六四郎氏と小泉文夫氏です。上原氏は日本音階が五音階であるとし、陰旋と陽旋に分類しました(圖③)。小泉氏は民謠調査を通して日本音樂には旋律中にその音樂を決定する音、すなはち核音の存在を見出し、その核音を含んだ四種類の音階、テトラコード理論を提示しました(圖④)。

 また、小泉氏は民謠のリズムに就いて、拍を持ち、歌詞の一字に一音があてられる(シラビック)の八木節樣式と、無拍で歌詞の一字に多音があてられる(メリスマティック)追分樣式に分類しました(圖⑤)。特にメリスマティックな曲は音程もリズムも五線譜で表しづらく、譬へるならば英語の發音をカタカナで書くやうなもので、記號で表すには限界があります。リズムと拍子で言へば、西洋民謠では二・三・五・七拍子と澤山ありますが、日本の民謠は殆どが二拍子です。近くの朝鮮民謠には三拍子が多いですけども、日本では八丈島に若干見える程度です。二拍は表間と裏間と云ふ一拍を二つに分けた構成で、拍の時間的伸縮も自在なのも特徴です。

 

七、現代に於る日本民謠の立場

 現代日本人の多くが民謠に就いて前時代的で單調で暗くて古臭く品の無いものと敬遠し、西洋由來の音樂を聞いてゐます。しかしそれはむしろ日本民謠のなりたちや歴史的發達の經緯を正しく理解しないために生じた偏見であり、これまで書いてきたやうに民謠を正しく系統的に理解すれば右の諸性格がそのまま日本民謠の特徴であります。民謠の正しい理解のためには民謠發生の歴史や、私達の遠い祖先がこの素朴にして豐かな文化遺産をどのやうに享受し傳承してきたかをもつとつぶさに知る必要があると思ひます。

 現代では東北の民謠が壓倒的多數を占めてゐます。筆者が先日贖入した民謠CD集百六十曲にも東北民謠は縣ごとに收録されるほど多かつたです。なぜこのやうに東北一邊倒と云つた形になつたのかを推察するに、一つは文化傳播が西から東だつたことです。西では粹な三味線歌が民謠に影響を與へてゐるうちに、歌ふものが專業化していつて歌ふ人に才がないとなかなか聞かれなくなつて言つた事。飜つて東北は甚句と言つてフシも短くだれでも歌へる歌が多く、民謠歌手が多數いたことです。二つに維新の波が東北は遲く、日本の他の地域より歌が殘つたことがあげられます。三つは東北から東京に出稼ぎにきた人たちのくつろぎの場として民謠酒場なるものが戰後盛況になつたことが舉げられます。過去の農作業を懐かしんだ東北人が工業勞働の單調さを忘れ民謠を皆で歌ひ樂しむ、そんな場でした。民謠酒場はマスコミも無視できないほどの影響力がでました。この中で形成されたのが民謠と云へば東北、と云ふ感覺でした。しかし現代はこれが禍して逆に東北民謠の流行歌化が激しく、西日本の素朴な民謠が見逃されてゐると云ふ事態になつてゐます。

 この流行歌化の流れは現代の民謠の抱へるジレンマそのもので、そもそも戰前の民謠歌手は實際に勞作をしながら歌つてゐた者が少なからずいたのに對して、戰後民謠歌手は機械化された農業のために、民謠を生活の一部として歌ふことができなくなつてゐました。そのうへ三味線歌手から轉化した民謠歌手のもとで修行する場合が多く、御坐敷唄的な美聲と節囘しを競ふことになつたのでした。民謠とは、郷土の民衆集團の間に自然に發生し、傳承されてゆくうちに、その生活感情を素朴に反映した歌謠です。現代の民謠は郷土性も生活性も無く、さしづめ東北流行歌化してゐます。流行歌化した民謠は凝つた節囘しと美聲はあつても、各々の生産者たちが歌つてゐたときにかもしだしてゐた歌のクセ、音色を捨ててしまつてゐるのです。このクセと音色こそ民謠の大きな特徴なのです。

 では民謠を實生活に取り戻すことは可能なのでせうか。云へ、不可能です。日本は既に工業社會を通り越して第三次産業社會となり、少ない農業從事者も機械で田植ゑをしてゐます。過去の農業社會で生まれ育つてきた民謠はもう實生活の中では生きる場を失つたので、姿を消すよりほかありません。ただ、早くから娯樂的な性格を備へた民謠もあるので、さうした歌だけが生き續けていきます。しかし民謠が單なる娯樂用の歌になつたとしても、民謠と呼ぶからには、單に民謠の曲節を竝べるだけではなく、先の四代要素を基盤にした演唱方法を考へるべきです。民謠は時代とともに變化してきたのだから、これからも變化を續けていくべきだと言ふ聲もあります。しかし今日の日本社會の構造にあつては、農業社會下の民謠が變化する必然性はまつたくないのです。となれば、これからの民謠は、農業社會下で生きてゐた時の最後の状態で固定させ、その時の四代要素をもとに、當時の人々の生活感情を歌ひ上げるべきなのでせう。それが郷土色です。そして、それ以外での形の民謠を表現する場合は、民謠と云ふ文字とは別の名を用ゐればよいのかもしれません。

 例へば日本の民謠をできるだけたくさん材料として集めて、その中から不易的な民謠の發想を抽出し、そこから新たな創作の一助とすると云つた手法です。傳統音樂をただ單に保存すると云ふことだけでなく、その中から日本人の持つてゐるこころとかリズム感と云ふものを發見することによつて、もつと民衆に生きる力を與へ、何らかの生命のひとつの源泉となるやうな方向に持つていければと思ひます。しかしそれは民謠と云ふ單語で扱へるものではなく、新しい名詞の音樂となるのでせう。


參考文獻

日本の民謠  淺野建二
日本の民謠  竹内勉
別册一億人の昭和史 日本民謠史  毎日新聞社

 

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【関西】定例研究会のご案内

次回の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

 

民族文化研究会関西地区第5回定例研究会

日時:平成30年9月1日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 4階 422号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

 

広報用ビラを作成

 当会の広報用ビラを作成しました。前回公表したビラに続く、第2弾となっております。作成した2枚のビラは、東京地区定例研究会と関西地区定例研究会をそれぞれ宣伝する内容となっておりますが、デザインは統一しました。当会の広報活動で、積極的に使用していく予定です。

 

(画像1 東京地区定例研究会広報ビラ)

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(画像2 関西地区定例研究会広報ビラ)

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【東京】定例研究会のご案内

次回の東京地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

 

民族文化研究会東京地区第17回定例研究会

日時:平成30年10月7日(日)15時~18時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は開会の10分前になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

 

【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第一囘)――日本音樂の概要

 平成30年8月5日に開催された民族文化研究会関西地区第4回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第一囘)――日本音樂の概要」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。

 本論に入る前に企劃構成からお話します。第一囘とあるやうに、これから數囘に渡り發表をしていかうと考へてゐます。そのうへでこれからの日本の音樂、更には藝能を含めてどのやうにすれば身近な存在にしていけるのかを皆で考へていきたいです。今囘は一番基礎の概要を、次から個別の音樂の種類をいくつかづつ紹介していかうと構想してゐます。

 第一囘の日本音樂の概要は、複雜に枝分かれしたり結合したりした日本音樂の全體像を把握するものです。下記は今囘解説する項目です。

 

一、日本音樂の定義 二、日本音樂の種類 三、日本音樂の樂器一覽 
四、日本音樂の歴史 五、日本音樂の區分 六、日本音樂の音樂理論

 

 以上となります。實際にはこれだけでは足りませんが、最低限押さへておく必要のある内容だけ要約してお傳へします。

 

一、日本音樂の定義

 日本音樂とは何か。まづは日本音樂の定義をはつきりさせなければいけません。平凡社の世界大百科事典によると、一般的に日本音樂とは日本人が作曲した、洋樂器で演奏する西洋音樂系の音樂(J-pop 歌謠曲等)を除いた日本の傳統音樂のみを指します。jpop等を含む場合は日本音樂とは言はずに、「日本の音樂」とするのが通説です。

 日本音樂の同義語に「邦樂」があります。邦樂は明治から使はれはじめた用語で、洋樂の對義語として生まれました。邦樂は最廣義から最狹義まで四種類に分けられます。最廣義は日本人が作曲・演奏したすべての音樂です。廣義は日本傳統音樂のすべて。狹義では日本傳統音樂から雅樂・聲明・平曲・能樂・浪曲を除いたものです。最狹義は近世起源の箏曲・尺八・三味線音樂のみを指します。また、明治以降に作られた音樂を新邦樂、昭和三十年代以降に作られた音樂を現代邦樂と呼びます。最廣義と廣義の邦樂は「日本の音樂」、「日本音樂」で代替可能です。よつて最狹義のものを邦樂の定義とする考へ方が日本音樂研究者の間では妥當とされてゐます。

 

二、日本音樂の種類

 日本音樂種目を網羅した圖が圖①です。日本音樂は八割以上が聲樂です。器樂曲は雅樂などごく一部です。このなかの語り物や歌ひ物、劇場音樂等の用語は、「五、日本音樂の區分」の項目で解説します。この圖にある全ての項目を個別に解説するのは量が膨大ですので、各カテゴリの一番上の種目、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠に就いて解説します。

 雅樂は古代日本の朝廷・貴族の儀式音樂です。その起源は支那や朝鮮からの渡來音樂です。遣唐使廢止後は雅樂の日本化が進み、「みやび」の世界を作り出しました。

 聲明は佛教の法會で唱はれる聲樂のことです。奈良時代には東大寺大佛開眼會で大合唱が行はれてゐます。單旋律・無伴奏が原則で、その音樂理論や旋律樣式、聲樂技法など後代の音樂に影響を與へ、日本音樂の源流のひとつとなりました。聲明が音樂としての性格を持ち始めたのは中世に入つてからです。

 琵琶樂は雅樂と聲明に影響を受け西暦八世紀頃に誕生しました。盲僧が寺院で琵琶を伴奏にして誦經や軍談物を語るなど、佛教音樂として始まりました。盲僧と琵琶法師は別の組織で、平曲の權利をめぐり裁判となり、琵琶法師側が勝訴し當道と云ふ坐を作りました。

 能樂は能・狂言・式三番・風流の總稱です。明治までは猿(申)樂といい、起源は唐から傳來した散樂とされてゐます。能樂の音樂は能の謠と囃子、狂言の小舞謠と囃子があります。能樂は武士が好み保護しました。

 箏曲は近世以降に誕生しました。箏は奈良時代に雅樂の樂器として傳來しましたが、箏を主體に扱つた八橋檢校から本格的な箏曲の振興が始まりました。地歌を基盤にした器樂曲的な箏曲を傳承する關西の生田流と、箏を伴奏に歌本位の箏曲を傳承する山田流箏曲が明治時代まで續きました。明治以降は歌曲としての箏曲から完全な器樂曲として箏曲が作られ、宮城道雄や中能島欣一などが箏曲を擔つていきました。

 三味線音樂は室町末期から始まりました。桶狹間の戰ひのあたりで琉球三線が傳來し、本州の氣候に合ふやうに改良されたものが三味線です。西暦一六〇〇年頃、三味線組歌を石村檢校が創始して本格的な三味線音樂の幕が開けました。以後明治になるまで近世音樂の大半の種目に三味線が組み込まれ、近世音樂イコール三味線音樂と考へて問題ありません。

 尺八樂は普化宗が法器として尺八を用ゐたところから始まりました。尺八自體は奈良時代に唐から琵琶や箏と一緒に傳來しました。しかし樂制改革により雅樂から尺八が外され雅樂尺八は滅びました。普化宗が江戸時代に法器として用い、再登場します。普化宗は明治に廢止されますが、尺八自體は明治から本格的に樂器として開花します。今ではポップスやジャズでも尺八を見ることになりました。

 近現代音樂は明治以降に作成された西洋式音樂全般をさします。明治以前は歌曲の伴奏として樂器が扱はれることが多かつた日本音樂は、近代以降器樂重視傾向となつていきました。それは洋樂に觸發された邦樂家の新日本音樂運動による成果です。昭和三〇年以降は西洋音樂の行詰まりの中、日本人洋樂系作曲者が民族音樂を見直す氣運が高まり、和樂器を用ゐた洋樂創作を始めました。

 民謠は人々の生活の中から生まれ、歌ひ繼がれてきた歌です。民謠の定義は明治以降に創られました。郷土民謠・わらべ唄・流行唄にわけられ、柳田國男が更に詳しく分類してゐます。主に使はれる樂器は篠笛・胡弓・太鼓・拍子木等です。北海道と沖繩には本土とは性質の違つた民謠が殘つてゐます。

 

三、日本音樂の樂器一覽 

 圖②をご覽ください。縱軸が樂器、横軸が主要音樂種目です。彈きもの・吹きもの・打ちものの三種類に分類されてゐます。このうち日本で打ちものと認識されてゐるものはまだたくさんあります。その多くは佛教音樂、歌舞伎の下坐、民族藝能などの演奏で用ゐられます。紙面の都合上これらは省略されてゐます。これらの樂器の殆どは大陸から傳來したものです。日本固有の樂器とされる和琴と神樂笛も渡來したものを日本的に改良したものであるとも云はれてゐましたが、平成二四年に青森是川中居遺蹟から3000年前の琴が出土しました。これは世界最古の絃樂器の可能性があり、日本の琴の原型ではないかと推測されてゐます。

 

四、日本音樂の歴史

 日本音樂史の歴史區分は一般史とは少し異なつてゐます。古代を神話の時代から西暦一〇八六年の院政が始まるまで。中世を西暦一五七三年の室町幕府崩潰まで。近世を明治維新まで。以降を近現代時代としてゐます。

 古代の日本音樂の歴史に就いて。古代は神話から院政までと書きましたが、更に細分化でき西暦五~六世紀頃の大陸音樂傳來を境に、古代前期と古代後期にわけられます。古代前期は民族固有音樂の時代です。古事記日本書紀にも記された神話的事象や、遺蹟からの發掘もあり彌生時代には既に固有音樂は存在してゐたと考古學的にも立證されてゐます。この時代の音樂は地方祭祀や神事、それに伴ふ歌舞を大和朝廷が傳承したものとされてゐます。古代後期は大陸音樂をもとにした雅樂の時代です。西暦七〇一年には雅樂寮を設置して渡來樂器の樂人養成を國家レベルで行ひました。遣唐使廢止後は雅樂の國風化をする動向が起き、樂制改革で日本の雅樂を成立させるに至りました。聲明も古代後期に傳はり、眞言天臺聲明を開きました。

 中世の日本音樂の歴史に就いて。中世音樂史は院政からはじまります。この頃から今樣と云ふ新興歌謠が流行します。今樣の初見は西暦一〇〇八年ですが、最盛期は院政が始まる時期に尤も流行を見せました。その後は近世までひたすら戰亂の時代でした。榮枯盛衰の連續の中、無常感から琵琶の哀切な調子にのせた平曲が大流行しました。民衆は佛教に救ひを求め、僧侶らはその要請に応じ、日本語化された聲明で和讃や教化などの佛教音樂を作りました。能樂は武家に保護され、中世の無常感とつながつた幽玄と云ふ世界觀を作り、觀阿彌世阿彌時代に最盛期を迎へました。中世音樂は武家と僧侶の時代でした。

 近世の日本音樂の歴史に就いて。近世音樂は室町幕府の滅亡から始まります。このころ三線が傳來し、改良されて三味線が誕生しました。近世は三味線音樂の時代です。三味線の登場によつて地唄と云ふ歌ひものが誕生し、淨瑠璃が三味線を取り入れ、義太夫節が登場しました。他にも歌舞伎・長唄常磐津節清元節なども三味線の音色によつて舞臺を引き立てました。江戸時代に入ると鎖國により日本音樂が深化していきます。この時代になると音樂界もパトロンを持つよりも、商業化し興行により生計を立てる仕組みができました。

 近現代音樂の歴史に就いて。明治維新により江戸からの各音樂の状況は一氣に流動化しました。能樂・普化尺八・盲人音樂は沒落し雅樂と洋樂が急浮上します。歌舞伎・文樂・三味線・尺八・箏曲・琵琶樂はそれぞれの方向性に發展していきました。洋樂信奉者からは日本音樂は遊里の野樂で蔑視されました。このやうな自國文化輕視の風は昭和三十年ころまで續きました。第二次大戰後の東京藝術大學の邦樂科排除運動はその最たるもののひとつです。以後は民族音樂の價値の再認識が始まり、洋樂系作曲者も邦樂の作曲を行ふやうになつていきました。

 

五、日本音樂の區分

 なぜ日本音樂は圖①のやうに複雜化したのか、この難解さから日本音樂が難しいと感じられ、身近なものになりません。しかしそれは日本の特殊性によるものと、歴史の長さによるもので、ある種仕方ないとも云へます。個々に理解するより全體を廣く淺く把握することで、少しでも身近になるやうにしていきたいです。複雜化には以下のやうな理由があります。

 第一に普通は時代の變化とともに古いものは新しいものに置き換わり後戻りをしません。しかし日本音樂は新種目をつくりながら古いものが共存すると云ふ特性をもつてゐます。これには「家の藝」として雅樂や能樂はずつと保持され、近世には家元制度として各種目が保持されるやうになつたからです。

 第二には樂種の多重構造です。例へば淨瑠璃は發展過程で他種目からの影響や演奏場面の變化で音樂樣式も變化し、淨瑠璃と云ふ大分類と義太夫節常磐津節と云つた小分類が同列で語られる點にあり、混亂の元となつてゐます。

 第三には特有の音樂性からくる區分概念の存在です。語り物の對として歌ひもの、劇場音樂の對として非劇場音樂です。語り物は民話などを傳へた語り部に起源を持ち、歌ひものは天岩屋戸傳説や祭祀などに起源を持ちます。このふたつの區分が明確に作用するのは主に近世音樂からです。歌ひものの代表種目は地唄箏曲長唄・三味線歌曲。語りものは淨瑠璃・歌祭文・説經節です。歌ひものと語りものは近世には相互に混じり合ふ場合が多々見られますが、成立過程が違ふので有效な區分けとされてゐます。劇場音樂も近世の區分概念で、興行のために綜合藝術を大規模に大衆に見せる場として劇場音樂は誕生しました。非劇場音樂は遊里で客接待のために不可缺な歌舞音曲のことです。このふたつも後のち劇場で使はれたものが非劇場でもつ使はれたりと混ざり合ひ、遊里で「流し」と云ふ獨特の藝能を生み出したりもしました。

 第四には種目それぞれが民俗文化と融合して綜合藝術家したしたものが多く、音樂的側面だけでは論じきれないからです。音樂以外の部分、舞臺や衣裝や假面や習俗などの要素が大きく影響してゐます。

 第五には享受層の階級の違ひが音樂種目の生成に關はつてきたことです。階級とは貴族・僧侶・武家・民衆です。階級が音樂カテゴリを分斷するのも日本の文化特性です。

 その他にも時代・樂器區分もあります。また、更に下位區分として○○物○○亊と云つた區分もあります。例として地歌の下位區分として作物や手事物、舞亊や囃子亊などです。

 

六、日本音樂の音樂理論

 音樂を構成する要素はリズム・テンポ・構成・音階に分けられます。これら四種類に就いて日本音樂の特徴をあげていきます。

 旋律や音の重なりを持たない音樂はあつてもリズムが無い音樂はありません。リズムは音樂を構成する尤も基本的な要素です。日本音樂は基本的に遲いリズムが主流で、躍動感のあるリズムはハイヤ節系の民謠以外にはあまり見受けられません。定期的に打たれる拍をもつものを有拍の曲、不定期に打たれるものを無拍の曲と呼んで區別してゐます。西洋の音樂の大部分が有拍の曲に對して、日本音樂には無拍の曲が多いと云ふ特徴があります。日本音樂は大部分が二拍子のリズムで三拍子系のリズムは殆ど見受けられません。片來と呼ばれるだんだん速く打たれるリズムがあり、越天樂の鼓が特に有名です。また、拍の頭が缺け、拍から外れて始まるリズムが多いのも特徴のひとつです。聲樂曲に多く見られ、三味線音樂では多くの場合、歌は伴奏より半拍送れて歌ひ始めます。

 日本音樂のテンポは、樂曲全體を通してみたとき、テンポが次第に早くなる樂曲が多いです。緩やかに始まり次第にテンポを早め終始部分ではテンポを緩め樂曲を締めくくると云ふ型が一般的です。

 日本音樂と云ふより、日本藝能全般の構成は序破急を基本にしてゐます。萬道の序破急と云はれるやうに、現代に於ても日本の藝能全てに大きな影響を及ぼしてゐます。序破急の構成を最初に始めたのは雅樂です。それを藝能分野にとりいれたのが世阿彌です。風姿花傳などで序破急論を著しました。序破急の序は無拍でゆつたりうねる旋律です。破は延び拍子と呼ばれる八拍子の有拍のリズムです。急は有拍で早拍子と呼ばれる四拍子のリズムです。全體的に見ると、樂曲が進むにつれて氣分が昂揚するやうに構成されてゐます。

 日本音階に就いて。圖③をご覽ください。日本音樂はテトラコードと呼ばれる音階分析理論の發見により日本音階の特質が明らかになりました。テトラコードとは完全四度の音程間隔にある二つの音と、その間にある音との三音または四音からなる音の集合體のことです。完全四度の上下ふたつの音は、旋律の中心的な役割を持つ音で、旋律の終始音にもなります。これらの音を核音、中間に置かれる音を中間音と呼んでゐます。西歐では二音の中間音をもつテトラコードが多いのに對して東アジアでは三音構成のテトラコードが多い特徴があります。圖③の下が一オクターブに及ぶ音階です。基本的に同じ種類のテトラコードを二個重ねて音階を構成してゐます。圖③の一番下はこれらのテトラコードによつて分類された音階の名稱です。ヨナ拔きとは雅樂の音階のことで、音階の一番目の音から數へて四番目の音と七番目の音を拔いた五音構成の呼び方です。また、この圖にはありませんが二番目と六番目を拔いたニロ拔きは民謠音階です。

 以上が日本音樂の概要となります。日本音樂の觸りだけでも今囘理解して戴けたなら幸ひです。

 

參考文獻

よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史
ひと目でわかる日本音樂入門 田中健
日本音樂との出會ひ 月溪恆子

 

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里見岸雄『天皇とプロレタリア』輪読会の模様

 民族文化研究会関西地区定例研究会では、会員による研究報告と並行して、日本文化・日本思想についての古典的著作を対象とした輪読会を行っています。現在の輪読会のテキストとなっているのは、里見岸雄天皇とプロレタリア』(展転社、平成30年/原著は昭和4年)です。国体の科学的認識を志向する「国体科学」を提唱し、従来の国体論に新風を吹き込んだ著者の初期論考であり、同『国体に対する疑惑』(展転社、平成12年/原著は昭和3年)と共に洛陽の紙価を高らしめました。マルクス主義の台頭に国体論の立場から如何に応答するかという問題意識のもとで、天皇と無産階級が対立してこなかった本邦の歴史事情に照らし、資本主義=皇室制度という誤謬のもとで皇室擁護論と皇室廃止論を呼号する左右両翼を批判し、国体論への社会主義運動の取り込みまで展望する快作です。特に従来の神学的・観念的な国体論への批判は峻烈であり、著者の展開する「国体科学」への自負が窺えます。観念ではない実際の国民の社会生活構造のなかに国体認識の基礎を見出す著者の手法は、現代でも国体論のアプローチのひとつのモデルを提示していると言えるでしょう。こうした本書に関心をもち、関西近辺にお住まいの方は、どうか民族文化研究会関西地区定例研究会にお気軽にご参加ください。(関西支部事務担当・湯原)

 

(写真1 先日開催された民族文化研究会関西地区第4回定例研究会)

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(写真2 里見岸雄天皇とプロレタリア』書影)

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