討論会報告 民族宗教(パガニズム)の可能性

 過日、民族文化研究会では、有志によって「民族宗教の可能性」を主題に、討論会を行った。現代における民族宗教の展望をめぐって、数時間にわたり議論が交わされた。そこでの議論は、民族宗教に伏在している可能性を剔出するものとなっている。以下は、その討論会の議事録である。また、参加者であるトモサカアキノリ・湯原静雄の両者は、それぞれトモサカ・湯原と表記している。

 

湯原「この度は、民族宗教が議題となっていますが、まず民族宗教の定義から議論を始めたいと思うのですが、いかがでしょうか」

トモサカ「民族宗教という言葉ですが、僕の場合は、まずこの語を漢文系の語彙として『民族的(Ethnic)な宗教ないし信仰体系』という意味合いでとらえています。次いで重要な要素として、西ローマ思想の文脈としては、この語を『Paganismus』としてとらえることができますので、その総合であるととらえて頂いて問題ないです。英語では『Paganism』ですね」

湯原「パガニズムという概念で分析される宗教には、具体例としてはどのようなものがあるでしょうか」

トモサカ「例えばドイチュラントのヴォータン(英語ではオーディーン)、エーラ(アイルランド)やフハンスに残るケルト系のドルイドコプト(エジプト)発祥のケメト教などが、それにあたります」

湯原「ヴォータンやドルイドは、キリスト教の外圧によって、かなり衰微していると聞き及びます。パガニズムは、民族固有の信仰体系のみならず、こうした民族固有の信仰体系の衰微を受け、こうした宗教の再生を標榜する運動でもあると理解して良いでしょうか」

トモサカ「まず、ヴォータンの信仰については、僕の知る限り近代以前ですと、衰退というか消滅しているものだと思います。どうやら田舎の山村には、そういうものをお化けの一種として祭典を行うという文化が残っているらしいのですが、それはキリスト教の強い信仰が支配する社会にとっては残滓程度でしかないものでしょう。そして、質問のほうですが、核心を突いた良い質問だと思います。すでにその言及それ自体に、民族宗教の性質が含まれていますが、民族宗教とは、民族の歴史においてかつて信じられた信仰を指すのであり、また、民族の始原の状態で信仰された思想体系であるととらえられています。賛否はともかく、このような捉え方は古今東西一致していると考えてよいでしょう。逆に言うと、民族宗教はすでに大多数には信仰されていない宗教ないし信仰体系であり、一方その社会では現在、民族宗教ではない大宗教が一般的であるということですね」

湯原「これで、パガニズムという概念の大枠が明瞭になってきたように思われます。民族の原初において信仰されてきた宗教、ヴォータンであれドルイドであれ、そうした信仰をふたたび蘇生させる、こうした意図が伏在している概念なのですね。では、パガニズムの概要を理解したうえで、本格的に議論へと移りたいと思います。まず、パガニズムという概念の中心にある、『民族に固有の信仰』という規定なのですが、これについて議論したい問題があります。『民族』という特殊性と、『宗教』という普遍性を、いかに整合的に理解するか、という問題です。これについて、どう思われますか。パガニズムは、ローカルな民族性に依拠しています。しかし、宗教である以上、普遍的な真理や超越にも言及しています。ここで、パガニズムは、ローカルな民族性を基礎づけつつ、グローバルな普遍性をも包摂しているわけです。パガニズムは、こうした倒錯した状態によって、かえってローカルな民族性を掘り崩しかねないと思います。この問題を、いかに理解すればいいでしょうか」

トモサカ「そうなりますと、『宗教』についてどう定義するかという問題が生まれますが、僕は『宗教』と『信仰』をさして区別せず宗教としてとらえており、その定義を『神秘主義(根拠のない事実認識および価値意識)を含む思想体系』であると考えています。そして、創唱宗教や自然発生的な信仰を等しく宗教ととらえています。つまり、民族宗教と、民族の歴史においてその後定着する大宗教とでは、単にヘゲモニーの違いしかなかった、という認識が根底にあります。もちろん、摸倣子(Meme)の強弱で言って大宗教のほうが強かったということができますが、その内容はどれだけ信仰が体系的であるか、どれだけ信心深いか、改宗の理論が発達しているか、といった手法的なものであり、信仰そのものではないと考えています。そして、民族宗教であろうと創唱宗教であろうと、それが一個の世界観であることは全く変わりませんし、それぞれが矛盾するということも当然同じ条件です。例えば、有名なゲルマン神話では世界は闘争の末に消滅するということですが、対照的にローマ神話では世界の終末は予期されていません。すなわち、世界は終わるか終わらないかという事実認識が根本的に異なっているのです。つまり、もともと宗教に普遍性はなく、単に流動的な優劣の状況が異なっているだけであったということです。しかし、それでも民族宗教は存在しているのです。信者もなく、場合によっては体系的ですらない『宗教』が、西ローマの国民主義の発達とともに、多くはキリスト教以前の民族の記憶を探るという名目で発掘されてきたのです。つまり、その発掘者にとっては、その信仰そのものを探るというよりも、『民族の本来の思想』を発掘するということに主眼が置かれてきたのです。その一部は、確実にその段階で整合性をとり、体系化すなわち改変がなされているのですが」

湯原「つまり、宗教の普遍性そのものが、虚構であるわけですね。普遍性があるように映る大宗教は、ヘゲモニー闘争の勝利の結果として、そう『見える』だけであるわけですね。現実には、諸宗教が、相互に対立する世界観を、それぞれ信奉しているに過ぎない。こうして、各々の宗教が、このように相対化された結果として、普遍的ではない個別的なるものとして、すなわち民族固有の信仰として出現してくる、あるいはそのように選択されてくるわけですね。すなわち、民族宗教は、宗教の正統性の根源であった、グローバルな普遍性を否定した先にあるわけですね。そこにあるのは、もはや普遍的な『神学』ではなく、民族意識の喚起や、国家生活の基礎づけといった『世俗』の動機でしかない。こうした、宗教が終焉したあとで、それでも可能な生の根拠として、政治や社会と接続され、世俗化された『ポスト宗教』として、民族宗教は位置づけられると思います。続いて、この問題について、議論を進めたいと思います。いかがお考えでしょうか」

トモサカ「その通りです。民族宗教とは、あくまで後世の民族ないしその延長としての国民にとって有益な『固有の思想』なのであって、その点では、初めから民族の期待という箍(たが)をはめられた宗教であるわけですね。そして、僕もそれを肯定的に受け止めていることを素直に告白したいと思います。これらの発想に着目すると、元来から宗教がもつ信仰の危険性は、こうした世俗主義の抑止力によって、手なずけることができるわけです。そして、西ローマにおいては、こうした世俗化というより、もっと理論的に先鋭である進化論や唯物論無神論の体系に触れたと思われる合理的な近代人によって、民族宗教的なものが発掘されていく過程があります。いうなれば近代と整理された国民国家(ないし付随的に民族)の洗礼を経て、民族宗教という枠組が生まれたととらえるべきなのです。さらに、そこには、ある種の平和主義が認められます。つまり、本来はグローバルなはずの宗教地図に、あらかじめ国境線が引かれており、民族宗教はその外側には出ようとしません。世俗化によって、いわば無毒化された宗教が、民族や国家の基礎づけのため、援用されてきたわけです」

湯原「なるほど」

トモサカ「ところで、危うく通り過ぎるところでしたが、ご指摘の通り近代とは宗教が終焉を迎えたとみなされた時代でもあったのですね。指摘したように、西ローマではローマ・カトリックの分厚い信仰の規範と道徳体系が価値観のすべてを覆いつくしていましたが、近代合理主義を基礎とする科学的手法が積み上げた事実認識の体系によって、その信仰に根拠がなかったことが白日の下にさらされるのですね。この過程で、非効率的ないし非人道的とみられる風習や文化が排除され、市民階級を中心にした人民が、明らかに身体的にも精神的にも開放され、ある種の利便性が保証されていきます。しかしながら、これは同時に価値観そのものの否定にも結び付いていきます。宗教の根幹としての神秘主義は、そもそも善悪とか真善美等の価値観の基礎になっていたものですが、その崩壊は、結局価値観そのものの無根拠性を暴き出し、哲学的な空白の時代を準備してしまうのです。たとえば、我々が世界の目的そのものである神のご慈悲によって塊(つちくれ)から作られ、その目的を全うするために生きるのであれば、何かのために生きたことになるのですが、偶然化学的な作用によって生まれた蛋白質の機構が増殖を繰り返す内に消滅の危険があるものを避けていき、その結果複雑な生体的機能を得て生物となり、我々人間もその一つに過ぎないとすれば、何者かに我々が生きているべきであると保証されるという希望は永久に損なわれていることになります。ニーチェは『神の死』を説いたのですが、他ならぬ彼がそれを超越できずに狂死したことは、近代の矛盾を端的に表す史実であると考えてよいでしょう。ですから、だれがバクテリアであった過去を誇りにできるか、という問いは、我々にも向けられていると考えるべきでしょうね。すなわち、一般的な社会にとって宗教は必要であり、その体系と矛盾する無神論唯物論事実認識は、そのままでは規範の資格がないと考えざるを得ません。ここで、宗教のもつ危険を排しつつ、人間の生を支える規範たりえる、民族宗教が注目されるわけです」

湯原「民族宗教の歴史的展開として、宗教の普遍性の瓦解(神の死)から、よりローカルで個別的なものとして、信仰の性質が転換する、という図式が描けるわけですね。こうした信仰は、宗教の普遍性の瓦解(神の死)のあとで、それでも可能な生の根拠として、政治や社会と接続され、世俗化された『ポスト宗教』として、出現してくるわけですね」

トモサカ「そうです」

湯原「ところで、こうした図式は、さきほど言及された西欧だけでなく、日本にも適用できると思います。まず、近世期における、形而上学への文献学的批判に着目しましょう。藤原惺窩や林羅山といった朱子学者による仏教批判を契機に、近世期には形而上学への文献学的批判が大きな潮流となります。この潮流は、伊藤仁斎荻生徂徠といった古学派による儒学そのものの脱構築の企図や、富永仲基や山片蟠桃懐徳堂の知識人による無鬼論(無神論)に発展しました。ここで、近世期の啓蒙主義的潮流によって、形而上学の瓦解(神の死)がもたらされたわけです。そして、こうして宗教の普遍性が破綻するなか、民族の固有性に脚光が集まるようになった。すなわち、近世思想の中心が、儒仏から国学へと転換するわけです。そして、ここで、民族宗教の体系化を標榜する、古道論(古神道)が登場しました。宗教の普遍性の瓦解(神の死)から、よりローカルで個別的なものとして、信仰の性質が転換する、という民族宗教の歴史的展開を、日本も辿ったわけです。そして、こうした古道論(古神道)をもとに、民族・国家を文化的に防衛するという政治的構想を明瞭にした国家神道が登場するわけです。ここには、世俗化され、政治化された宗教という、民族宗教の典型的性格が表出するとともに、世界宗教に対抗し、民族・国家をいかに防衛するか、という民族宗教がもつ課題も浮き彫りになっています。では、続いて、こうした世界宗教に対抗し、民族・国家をいかに文化的に防衛するか、という民族宗教の課題について議論したいと思いますが、この点について、いかにお考えでしょうか」

トモサカ「そうですね。オーヤシマ(日本)人と西ローマは同時に発達してきたとする考えがありえますが、こうした梅棹忠夫の近代化論に即した理解は分かりやすいですね。先の議論に続けていえば、我々は価値の欠損を埋めるためにも、世界の均衡を形成するためにも、民族宗教を防衛し拡大することを考えなければなりません。その前提として、世界を民族を単位に再設定しなければならないと考えています。それも、共存共栄できる諸民族です。重要な注釈ですが、ぼくは民族を徹底的に『Ethnic groups』という概念に置換しています。そして、『Nation』を基本的に国民と訳しています。国民は様々な経緯から、西ローマ文明を中心にして近代に作り出されたものですが、その原型になったのは基本的人権や平等といったフハンス革命にかかわる近代思想である機能的側面と、もう一方では歴史の始原から現在まで同一の民族が継続していると考える民族の信仰が国民を支えているのです。さて、民族宗教が最大の勢力を持っているのは我が帝国です。そして、この勢力も決して強力とはいえません。むしろ衰退の傾向にあると考えるべきでしょう。対比的に、先進国や高度資本主義社会では単なる世俗主義が優勢になりつつありますが、この思想や傾向は、その性質から、あまり宗教の敵ではないのですね。世界全体でみると、同時に大宗教も人口が増えていくことに注目しています。宗教は基本的には排他的なものですので、オーヤシマで言えば、ある側面では仏教やキリスト教神道の敵ではありますが、最近はイスラームに着目しています。既に指摘したように、それぞれ大宗教は強力な伝播力と優れた神学理論を持つ摸倣子の体系であり、精神的思想的に神学に乏しい神道よりも優位な立場にあります。そういう中で神道の武器は、思想的には唯一思考停止しかないような状況といえます。したがって、神道には体系的思想がないといけないのです」

湯原「神道神学の整備は急務ですね、既に多くの人々が指摘しておりますが」

トモサカ「しかも、それだけでは勢力が不足していることは隠しようもないことです。大宗教は、世界的に連帯しているため、当然ながら精神面にとどまらない物理的な強さがあります。この点、民族宗教はその性質上、これまでは全く力を持ち得てこなかったのです。ここで想起しなければならないのは、汎民族主義といいますか、世俗主義を媒介にした普遍的な民族主義です。つまり、他の民族の成員に対して、民族宗教を勧める立場です。神道はそうした立場から、民族内においては信仰者の顔をして神学理論の構築を行いつつ、海外に向けては、現地の宗教の蘇生を、無神論者の立場から行うよりほかに方法がないでしょう。捕捉ですが、そこで大宗教との対立を生まないことはとても大切なことです。先ほどの意見とは逆説的なことを言いますが、神道の優れた点の一つに、思考停止があります。あまり考えないことによって、大宗教である仏教との共存が履行されているのです。この点については疑問に思われる方がいるかもしれませんが、たとえば明治時代に遡りますとご存知の通り廃仏毀釈という武力闘争などが行われたことがあるのですが、その後神道は神学理論を殆ど追及することなく歴史の表舞台からは退くことになります。とはいえ、民間宗教としては単なる摸倣子としてよく残り、一般的な民衆は、その信仰が仏教やキリスト教と矛盾し対立するという論理を明確にしないまま生きながらえているのです。これはある種の世俗主義でもあります。これを優れているととらえているのは、世界の世俗化した地域なり社会階層にも同様の手法で、民族の自己同一性を喚起する手法となりうると理解しているからです。そうでなければ、大宗教の優位な地域なり社会階層に浸透することはまず不可能ですから。つまり、それは世俗化した人々の脳裏に摸倣子として刷り込まれることによって伸長する必要があるということです」

湯原「そうですね」

トモサカ「勿論、神学が進むことはそれ自体悪いことではないのです。ちなみに、僕はその視点から神道神学の研鑽と体系化を志向しているのですが、日本書紀古事記には様々な矛盾や論理的説得力のない点も多いのと、いくつかの理由から別の聖典を欲するようになり、体系的な神学が許された文献を探した結果、いわゆる『古史古伝』の一つである『ホツマツタヱ』に目を付け、これを信仰しています。『古史古伝』のような、宗教以外にも文字にも民族固有な摸倣子を求める態度は世界中に見られ、ドイチュラント人にとっては同じチュートン(ゲルマン)人が使っていたフサルク(ルーン)文字がそうした意識で啓発されましたし、真贋はともかくスラヴ人にとっては『ヴェレスの書』は同様の期待が向けられているといえます。話がそれましたが、民族宗教は、多数派になっても少数派である大宗教に対して寛容でなければならないと考えています。少数派であるとはいっても、国際的なつながりの強い宗教は、あくまで民族宗教の、もっと言えば民族自体の脅威になりうるものです。対立は双方にとって無益なものであろうと考えます。そこで、この均衡を制度化し、神道のような民族宗教がその民族の公式の宗教として地位が認められるとともに、その地位と宗教的核心としての民族文化の存続と発展を大宗教に認めさせることで、少数派としての大宗教の存続を防衛するような関係性を構築すべきでしょう。ぼくはこの制度を『ヘゲモニー宗教制』と呼んでいます」

湯原「『ヘゲモニー宗教制』は興味深いですね。大宗教と民族宗教の均衡を制度化することで、大宗教のもつ伝播力による民族性への脅威を緩和しつつ、民族宗教を大宗教と協調させることで、民族宗教による民族性の喚起を安定して実行できるようになるわけですね。こうした『ヘゲモニー宗教制』は、いわば最終的に目標とすべき宗教状況であるわけですが、こうした状況を創出するためにも、差し当たっては民族宗教を理論面・組織面の双方で、強靭化させる必要があると思います。こうした民族宗教の振興のため、解決すべき課題は多いかもしれませんが、今回の討論によって大枠の方向性は明らかになったと思います」

 

定例研究会報告 近年の記紀を巡る議論瞥見

一 はじめに

 我が民族の原点、基層を探る時、どうしても避けられないのが『古事記』『日本書紀』(以下、記紀)といった古典である。記紀を巡る研究は莫大なものがあり、研究史を瞥見するのは容易なことではないが、さりとて従来の研究の参照は、どうしても必要なことである。

 本稿は、近年の記紀を巡る議論のうち、磯前順一氏、小路田泰直氏、若井敏明氏の発言を簡単に紹介するものである。このうち、磯前氏はポストモダン的立場からする記紀理解と評し得るものであり、対して小路田氏、若井氏は、戦後の記紀批判を基調とする古代史学やポストモダン的立場に対する率直な疑問を投げかけているのである。

 

二 磯前順一氏の発言

 磯前氏の記紀に関する発言を、氏の『記紀神話と考古学 歴史的始原へのノスタルジア』(角川学芸出版、平成二十一年)から見てみたい。

 氏は、「記紀や考古学の世界は、近代日本において人々がみずからの過去を形象化させようと欲したとき、「祖先の、太古に生きた鼓動」(相沢忠洋の発言:筆者注)を感じさせる郷愁の対象として関心を惹起してきた」(二十頁)と述べる。そして、「時間的前後関係として先にネイションという実体が形成されて、それに見合うように後から国民の歴史をめぐる語りが創出されてきたということではなく、むしろそのような語りのもつ行為遂行性によって同時性のなかでネイションという主体が形成されてきた」(二十二頁)として、研究によるネイションの記憶形成を指摘するのである。ポストモダン的な視点を代表する見解といえよう。

 磯前氏は、酒井直樹氏の提唱する「死産された日本語・日本人」という概念を重視する。酒井氏の見解を少々長いが以下に引用しよう。

 「私は、十八世紀の新たな言説の変更の結果として……、おそらく初めて、日本という名辞によって漠然と支持された地域に住まう人々によって話された日常語を、中華つまり中国の言語とはきっぱり識別されたものとして、概念化する可能性が生まれた、と主張した。しかし当時の、今日日本と呼ばれる地域は、多くの国と社会集団・身分に分断され、方言や文体の多様性は膨大なものであり、「日本人」によってしゃべられる「日本語」なるものを十八世紀に見出すことはできなかった。そのため、その維新(=復活restration)が熱望される、喪失され死んだ言語としてしか日本語を概念化することはできなかったのである。つまり私は、日本語と日本民族は、一定の言説において音声中心的な言語概念が支配的になるにつれ死産したと、主張したのである」(酒井直樹『日本思想という問題』〈岩波書店 1997年〉)

 ある種、究極的な「想像の共同体」論であると言い得るものであろう。しかし、磯前氏は過去への素朴な郷愁は、「死産された日本語・日本人」に回収され尽くす訳ではなく、「余白と亀裂」、すなわち国家の物語に回収されない要素があるはずだと述べる。この点は、単純な国民国家批判などと違う点であって注意すべきであろう。氏は、記紀、考古学研究は「個人の意識を肯定する反映物へと矮小化されることなく、むしろ逆に個々の存在に変容を促していく働きをなすかぎりにおいて、人間関係が生み出す矛盾と葛藤の場として大きな可能性をはらんでいる」(十三~十四頁)。抽象的な表現のためいささか理解しにくいが、「個人の意識」の「肯定」、すなわち国家主義的な歴史観に収斂されない可能性があるというわけである。固定化された「歴史的言説の空間」を問い直す手段として、記紀研究や考古学が生きてくるというのが、氏の結論である。

 

三 小路田泰直氏・若井敏明氏の発言

 磯前氏のような、ポストモダン的な記紀理解、さらに遡れば戦後歴史学における伝統的な記紀理解(記紀批判)に対して、懐疑的な意見が表明されていることも見逃せない。これは決して多数派ではないが、率直な見解として非常に興味深い。本稿では、その例として、小路田泰直・西谷地晴美・若井敏明氏「対論 古事記日本書紀はいかに読むべきか」(『日本史の方法』七号、平成二十年)における、小路田氏、若井氏の発言を紹介したい。

 まず、小路田氏の発言である。「「『古事記』『日本書紀』は八世紀律令国家の支配者による自己正当化のための作り話(もう少しオブラートに包んでいうと「物語」)だから、歴史としては信がおけない」という。一見当たり前のことをいっているようにみえるのですが、じゃあ、そういっている人が「貴方の書く歴史論文は、どこまでいっても二一世紀日本人の描く物語だから、歴史の事実は多分反映していないでしょう」といわれたらどんな気分がするでしょうか。(中略)人が歴史としてものを書くということと、フィクションとしてものを書くということの違いについての吟味が欠如しているように思えるのです」(18頁)非常に鋭い指摘であろう。当時の人々による歴史叙述がいかなる意味を持っていたのか、熟考を迫る発言である。

 続いて、若井氏の発言を見てみたい。「(記紀の潤色論について)『古事記』と『日本書紀』を読みますと、『日本書紀』のほうがデータ数が多いのです。小学校の教科書と高校の教科書を比べて、高校の教科書に増えているデータはあとから付け加えられたといっているに等しい議論になる」(二十八頁)。ごく率直なたとえであるが、『記』を純朴で史実を多くとどめており、『紀』は潤色が多いという常識に再考を促す指摘である。

 続いて、「極論いたしますと、津田さんは神武東征に本格的に取り組んで日本古代国家の形成を論じるということから逃げられたわけです。それを一足飛びに、これは一種の説話であるということで神武東征伝説を棚上げすることによって、それを歴史の素材からはずし、そのことによって古代国家形成史というものを文献的に追究しようというところから逃げたわけです。逃げたことによって彼の頭の中には仲良しこよしの古代国家ができあがって、これが現在の、語弊があるかもしれませんが、古代史学に連綿と続いているというのが私の考えです」(三十一頁)。これは津田の描いた単一民族的古代史像に対する批判であり、小路田氏『「邪馬台国」と日本人』(平凡社、平成十三年)、若井氏『邪馬台国の滅亡』(吉川弘文館、平成二十二年)などにおいて津田史学批判が詳論されている。若井氏の古代史理解に関する近業としては『「神話」から読み直す古代天皇史』(洋泉社、平成二十九年)があり、極めてユニークな著作であるので、別の機会に紹介したい。

 

三 まとめにかえて

 本稿は、磯前氏、小路田氏、若井氏の研究の簡単な紹介に過ぎないが、戦前からの記紀批判の潮流に加え、ポストモダン的見地からする相対主義懐疑主義の立場の盛行の一方で、記紀研究による古代像の復元という研究スタイルを取る論者も継続して存在していることの一端がうかがえるであろう。

 戦後、古代史研究の進展に伴い、その論調も多様化している。必ずしも戦後の研究を「国家観」を喪失したものとして批判する必要はなく、各論者の業績に素朴に学ぶ必要が大いにあると言ってよい。今後、立ち入って記紀研究の各論を紹介していきたいと思う。

 

定例研究会報告 明治国家形成と国学者――平田国学と津和野国学の国家構想と維新政府への影響

はじめに

 明治国家は、近代的な法制・軍備の吸収に熱心な一方で、祭政一致主義・天皇親政主義を基調とする神権的政治秩序を基盤としていた。阪本是丸は、こうした体制を、『明治維新国学者』(大明堂、1993年)で、「近代的祭政一致国家」と呼称した。そして、こうした体制の構築には、国学者たちの影響が存在した。だが、こうした「近代的祭政一致国家」の建設にあたって、国学者たちの見解は一枚岩ではなかった。平田派と津和野派の国学者の国家構想は、深刻に対立していた。そして、こうした国学者たちの国家構想の対立は、国学者が維新政府に与える影響にも影を落としている。本稿では、平田国学と津和野国学の国家構想の対立を検討し、明治国家形成に国学者がいかなる影響を与えたのかを明らかにしたい。

 

一 祭政一致国家の実像

 明治維新政府は、王政復古の大号令太政官制の制定により、祭政一致国家の輪郭を一応は整えるに至った。このようにして、祭政一致主義・天皇親政主義を基調とする神権的政治秩序が、古代を規範として構築されていったのである。このような古代を彷彿とさせる祭政一致国家の創出に際しては、古代律令制・伝統的祭祀・神道教義に知悉する国学者が、神権的政治秩序の設計者としての役割を担うこととなった。

 洋学に通じた法制や軍事の専門家である官僚たちや政府首脳と、国学神道の専門家である国学者神道家たちの協働作業として祭政一致国家構想は理解できるのであり、この合作によって、明治国家の政治的正統性を弁証しえる伝統的祭祀や神話的秩序を近代的国家構造に組み込むことができたのである。つまり、祭政一致国家を構想し、樹立するに際して最も力のあった勢力である国学者神道家と、中央の政界・官界との関係性が、明治維新政府の神祇政策の展開を決定していたのである。国学者と政界・官界との関係性に注目し、国学者がどのように祭政一致神道政策、あるいは神道による国民教導についての自己の理想を実現していったかに注目することによって、われわれは国学者が明治国家形成に与えた影響の実像に接近することができるのだ。

 しかし、国学者の学派・派閥ごとで、それぞれ祭政一致国家、神祇政策、国民教化、神道教育についての認識や理想には大きく隔たりがあり、抗争や軋轢が生じていた。国学者と政治との関係性に加えて、学派間の関係性にも目を配り、津和野派・平田派・伝統的な神祇宗家の吉田家や白川家といった各派の理念の相違と、各派の関係性を見ていくことで、祭政一致国家の形成過程を追っていきたい。

 

二 平田派国学と明治国家形成

 幕末期における国学者の最大の流派は、二千を越える門人を擁した平田派である。平田篤胤を淵源とし、復古神道の代表的学派として隆盛を誇っていた。維新後には新政府に接近し、門人である玉松操が行なった岩倉具視への具申により「王政復古の大号令」の宣言がなされ、祭政一致主義・天皇親政主義が新国家の政治原理として据えられた。また、神祇事務局が開設されると、平田派からは判事職に矢野玄道・平田鐵胤が就任し神祇行政に携わった。

 しかし、結果的には、平田派国学明治新政府の神祇政策に与えた影響は限定的なものに留まった。やがて平田派の国学者たちは明治新政府の中枢から排除され、衰勢の憂き目に遭うことになる。これは神祇政策の主導権を争った津和野派との政治闘争や、学習院を基盤として公家・士族層に多くの支持者をもつ漢学や明治新政府に浸透しつつあった蘭学(洋学)との覇権争いの帰結とも解釈できるが、彼らの神権的政治秩序構想がその特異性の為に、維新後の政治展開において結局は受け入れられなかったのを示している。そして、平田派には、自身の神権的政治秩序構想を現実的に制度化するだけの政治的人脈を欠いており、また環境的な困難も伏在していた。そして、維新政府によって実現された祭政一致国家も平田派の理想からは乖離せざるをえず、また平田派も政治的展開から取り残されざるをえなかったのである。

 まずは、祭政一致国家の基礎となった神祇官の復興を巡る政治情勢を把握し、その中で平田派がどのような活動したか、また彼らの神権的政治秩序構想と、彼らの明治維新政府での位置を確認していきたい。

 祭政一致国家の樹立に際しては、ひとつの重大な争点が伏在していた。すなわち、新たに形成される政治的秩序の力点を「王政復古」に置くか、それとも「神武創業」に置くかという問題である。維新政府の成立を内外に宣言した慶應三年(1867年)の王政復古の大号令においては、「王政復古」と「諸事神武創業」という二つの原則が並立されていたが、「王政復古」と「諸事神武創業」はかなり趣旨を異にする概念である。

 「神武創業」という概念は確かに復古を意味してはいたのだが、歴史的には何ら具体的事実が存在しない「神武創業」に基づくことは、新政府が打ち出す制度・政策が律令制に囚われる必要の無いこと、すなわち「明治天皇による創業=革命」という意味合いを強く持っていた。「王政復古」は、「神武創業」とは異なり、古代律令制という歴史的政治秩序に規範を求め、古代の王政体制そのものの再現を企図する政治構想であった。維新を律令制時代の「復古」と解釈したのが矢野玄道ら平田派国学者中山忠能ら公卿出身の政府内復古派であり、維新を「諸事神武創業」、すなわち明治天皇による「御一新=革命」と理解したのが福羽美静や門脇重綾らの津和野派国学者大久保利通木戸孝允ら維新功臣たちであったのである。そして、このような「明治維新」への理解の差異は、祭政一致国家観の差異あるいは神権的政治秩序観の差異にも繋がってくるのである。「王政復古」の立場に立てば、神祇官を再興し、古代律令制太政官神祇官二官制に復古したかたちでの祭政一致国家の樹立を、「神武創業」の立場に立てば、律令制以前の天皇親祭・天皇親政への回帰というかたちで祭政一致国家の建設を目指すことになる。

 維新政府内での政治情勢を要約すると、「神武創業」の構想の具現化を目指す大久保利通木戸孝允らの維新功績者のグループと、「王政復古」の理念の実現を企図する中山忠能正親町三条実愛ら有力公卿と諸侯で構成される廷臣たちのグループとの間に熾烈な政治闘争が繰り広げられていたのであり、津和野派は維新功績者のグループ、平田派は廷臣のグループにそれぞれ人脈を持ち、各々の構想する祭政一致国家を実現するため政治活動を行なっていたのである。

 表面的には、太政官政府は樹立され、神祇官も復興された。これは平田派国学者・復古派廷臣グループの政治的勝利であるかのように見えるが、こうして再建された神祇官はやがて津和野派の勢力が主流派を占めるようになり、平田派はその中枢から放逐されていく。平田派の祭政一致国家観とそれが現実に制度化されたかどうか、そしてまた平田派と津和野派の政争―これはすなわち廷臣グループと維新功績者グループとの政争でもあるわけだが―の帰結を見ていきたい。

 矢野玄道が岩倉具視に献呈した祭政一致国家樹立に関する提議『献芹詹語』に見られる平田派の祭政一致国家観・神権的政治秩序構想は、きわめて雄大な復古的国家構想であると言える。太政官政府の再整備と神祇官の復興、八神殿(古代律令制下で神祇官西院に設けられた、天皇を守護する八神を祀る神殿)の再興、造化三神天御中主神、 高皇産神、神皇産霊神)を祭祀する神殿・大国主神を祭祀する神殿・南朝忠臣の霊を祭祀する神殿から構成される大宮(中央神殿)の新設、国学を中核とする大学校(高等教育機関)の設置、あらたな祭祀である大祭の挙行等がその内容であった。この構想を見ると、大宮建立の構想は、造化三神大国主命を重視する平田派神学の神霊観・幽冥観を基盤として構想されているものであり、大祭は、天皇の御幸が行なわれ、また庶民の参列が許され、天皇による敬神崇祖の実践を人々に知らしめることが目的とされていた。国学を中核とする大学校も、身分を問わずに入学を認められるものとされ、国学神道による大規模な国民教化という平田派の祭政一致国家理念がこれらの制度構想には表れている。この構想は、津和野派が目指した、神祇官祭祀から宮中祭祀への転換、国民の教導よりも天皇による祭祀の重視といった祭政一致国家像とは相反するものである。この祭政一致国家観の差異を巡り、平田派と津和野派は熾烈な政治的闘争を展開した。

 太政官政府は樹立され、神祇官は復興されたが、それらの内実は矢野玄道ら平田派国学者の構想とはかけ離れたものであった。維新政府の神祇政策は、矢野らが主張した大宮(中央神殿)の創建はおろか、都(矢野らにとってそれは京都以外には有り得なかった)に神祇官八神殿を造立することすらしなかったのである。国学を主軸とする大学校の建設も、後述するが矢野らの尽力も虚しく挫折する。太政官政府の樹立と神祇官の成立も、その歴史的沿革を見ると、廷臣グループと維新功臣グループによる政治的妥協の産物でしかない。天皇自らが祭祀し(天皇親祭)、天皇自らが政治を執り行う(天皇親政)ことを理想とする維新功臣グループは、天皇親祭の現実化・神武創業の理念の具現化として、天皇が直接に天神地祇に誓約する形式の「五箇条の御誓文」の誓約式を執り行った。これに危機感を募らせた守旧派の廷臣グループは、律令制復古構想の実現を賭けて、対抗運動を本格化させた。そして、両派の妥協の産物として太政官政府の樹立・神祇官の復興がなされたのである。平田派の「勝利」は表面的・形式的なものに過ぎなかった。

 平田派がこの政治的現実を受け入れ、ある程度の妥協をし、自身の祭政一致国家構想の実現を目指し政治運動を展開したならば、平田派国学者の神祇政策への影響力は維持されたであろうし、また彼らの神権的政治秩序構想を政策に反映させることも可能であっただろう。しかし、現実にはそのようにはならなかった。矢野玄道・玉松操・平田鐵胤ら平田派の幹部たちは、自身の祭政一致国家構想にひたすら固執するのみであった。東京への遷都についても平田派は反対の姿勢を取り、政治の中心地が東京に移転しているにもかかわらず、その現実を受け入れようとせず、東京でのロビー活動を拒絶し、政治的影響力を失墜させ続けた。彼らが人脈を持っていた廷臣グループの維新政府内部での衰勢もそれに拍車をかけた。神祇官の判事職に矢野玄道・玉松操・平田鐵胤は就いたものの、彼らは後に内国事務局判事に転任し、大学校設立問題に取り組むようになったため、神祇官からは平田派主力が姿を消し、これも平田派の没落を加速させた。そして、神祇官は福羽美静・門脇重綾ら津和野派が主流となっていったのである。

 平田派はその衰勢を挽回するため、国学を中心とする大学校の新設事業に総力を挙げて取り組んだ。政府内部では皇学院という名称の大学校(高等教育機関)を建設し、その中に国学科・漢学科・洋学科といった学科を設けるという構想が提議されたが、国学中心の大学校設置を求める平田派国学者たち、そして学習院を基盤とし漢学を主体とする大学校設置を目指していた漢学者たちの双方から批判を受け、国学を中心とする皇学所、漢学を中心とする漢学所をそれぞれ別個に設置するという折衷案で落ち着いた。皇学所・漢学所は慶應4年に開学したが、平田派国学者たちは、この皇学所を大学校に昇格させることを政府に求め続けた。この大学校構想は京都に開設されることが前提となっていたが、東京遷都問題も絡み、政府は大学校設立には消極的だった。しかし、京都留守官が設立を強行、明治2年に、皇学所と漢学所を発展解消し開学したが、命脈は長く続かず、政府の手で閉鎖された。東京においても、幕府の教育機関だった昌平学校・開成学校・医学校を統合し、国学を中核とする総合大学とすることが目指された。ただ、昌平学校は漢学の牙城であり、この学校の中心に国学を据えるのは無理があったと言える。国学派と漢学派の軋轢と抗争の末、東京の大学校は明治4年に閉鎖されることになった。この時、平田派の没落は決定的となったのである。

 

三 津和野派国学と明治国家形成

 津和野派とは、山陰・津和野藩から後援を受けていた国学者たちを指す。津和野藩は四万三千国の一小藩に過ぎなかったが、幕末以来、同藩は藩主である亀井茲監の指導のもと、多くの藩士が尊皇運動・倒幕運動に従事し、小藩ながら多方面に豊富な政治的人脈を持っていた。中でも、津和野派の代表的国学者である福羽美静は中央政界に顔が利いた。この幕末以来の豊かな政治的人脈があったからこそ、藩主亀井茲監や、彼が庇護した福羽美静ら津和野派の国学者たちは、維新政府の神祇政策において、重要な位置を占めることが可能となったのである。亀井は、津和野派の思想的淵源であった国学者大国隆正に影響を受け、藩内で社寺改革に取り組み、神仏混同の禁止や神葬祭の普及による神道興隆策を推進した。この経験を買われ、亀井は神祇事務局判事となり、神祇事務局そして神祇官に津和野派国学者の福羽美静、門脇重綾らを任官させ、津和野藩で行なった社寺改革で培われた宗教行政の手腕を発揮した。人脈と技能こそが、津和野派が神祇事務局・神祇官で勢力を得ることを可能にしたのであり、このような事情により、津和野派は初期から宗教行政を牽引し、ライバルであった平田派を引き離すに至ったのである。

 亀井らは、最初の神祇政策案として、①神祇官復興まで、とりあえず神祇局を設け、それに「八神」を勧請して神事を執行する ②伊勢神宮の祭典を再興して、ますます神威を高める ③熱田神宮伊勢神宮に次ぐ神社として待遇する④出雲大社熱田神宮に準じる待遇とする ⑤古来の大社の取り扱い規則を立てて崇敬する体制を設ける ⑥山稜の祭典を改革し、神祇事務局の管轄とする ⑥国内の「宗門」を「復古神道」に改める などを提議した。亀井のこの提案は、そのまま以後の神祇・神社行政の基本となった。神仏判然令の施行、明治天皇による石清水八幡宮親拝、明治天皇への古事記進講、切支丹への処分、楠公社の造営、招魂祭の挙行、明治天皇即位式の開催、新嘗祭の執行、明治天皇による神宮(伊勢神宮)親拝など、亀井茲監や福羽美静らを中心として、様々な神祇政策が実行されていったのである。神祇官問題においては、津和野派は平田派に妥協を余儀なくされたものの、現実的に神祇官の要職を占めたのは津和野派の国学者たちであった。平田派の衰退を横目に、津和野派が主流を占める神祇官は全国の神社から伝統的な神祇宗家である吉田・白川両家を全面的に排除することを上申した。吉田家・白川家による神社支配・祭祀権の剥奪は、天皇親祭・天皇親政という津和野派が理想とする祭政一致構想の実現へ向けて必須だったのである。続いて津和野派は宮中祭祀の整備に乗り出し、天皇による親祭すなわち天皇によるいわゆる敬神崇祖の実践を主軸とする津和野派の祭政一致国家の実現が図られた。そして、明治三年、津和野派の代表的国学者であり、神祇大祐である門脇重綾は、神祇官太政官の二官制を「何分祭政区別ノ姿」と述べ、神祇官特立による祭政一致体制を批判し、真に有効に機能しうる祭政一致体制(門脇に言わせればそれは天皇親祭である)の構築を訴えた。この建白には津和野派で占められた神祇官幹部の連署が添えられており、これは津和野派で占められた神祇官が、その機構の解体を望んでいることを示していた。この建言から一年、明治4年には神祇官太政官下の神祇省へと改組され、祭祀は宮中へ、宣教のみを神祇省が職掌とする体制へと移行していく。神祇省神殿鎮座の皇霊が宮中賢所遷座され、天皇が皇廟において親しく皇祖皇宗の神霊を祭祀するという天皇親祭体制が成立する。ここに、津和野派が理想とする祭政一致国家は実現され、平田派らの祭政一致国家構想は敗れ去ったのである。

 

おわりに

 以上の叙述を整理すると、平田派国学祭政一致国家構想は、明治維新を「復古」と解釈する立場から、制度構想として太政官政府を採用し、祭祀構想として国家祭祀を選択した。そして、祭祀の目的を国民教化として設定した。これに対し、津和野派国学祭政一致国家構想は、明治維新を「革命」と解釈する立場から、制度構想として天皇親政を採用し、祭祀構想として宮中祭祀を選択した。そして、祭祀の目的として、天皇による敬神崇祖の実行を設定した。

 津和野派国学祭政一致国家は、明治維新を「革命」と解釈し、天皇を中心とした新政府の集権的統治を肯定する。そして、祭祀を国家全体ではなく、宮中に限定する世俗主義的性格も持ち合わせていた。古代への回帰を理想とし、復古主義的な色彩の強い平田派国学と対照的に、津和野派国学の「近代的性格」が浮かび上がってくる。そして、こうした「近代的性格」ゆえに、津和野派国学の国家構想は、明治維新政府の推進する国家形成と軌を一にしていたのであり、ここで明治維新政府における、平田派国学と津和野派国学の運命の明暗が分かれたのである。津和野派の国学者明治維新政府の神祇政策において重用されるのに対し、平田派の国学者は、明治維新政府の神祇政策から次第に排除された。島崎藤村は、明治維新を「新しき古」の到来と表現したが、明治維新は島崎が表現したような、革命主義と復古主義の純粋な折衷ではありえなかった。そこでは、近代主義の勝利と、復古主義の敗北が、残酷に展開したのである。そして、島崎も、『夜明け前』(1932年~1935年)で、平田派国学の徒である青山半蔵の挫折と狂死というかたちで、この維新の悲劇を表現したのである。

 

参考文献
阪本是丸『明治維新国学者』(大明堂、1993年)
阪本是丸『国家神道再考――祭政一致国家の形成と展開』(弘文堂、2006年)
阪本是丸『国家神道形成過程の研究』(岩波書店、1994年)
新田均『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、1997年)
山口輝臣『明治国家と宗教』(東京大学出版会、1999年)

 

 

 

f:id:ysumadera:20190701002758j:plain

矢野玄道

 

奉祝 建国記念の日

 本日は、建国記念の日です。全国で、建国記念の日を奉祝する式典が挙行され、晴れやかな表情でこの慶き日をお祝いする人々の姿が見られました。当会も、多くの国民と共に、肇国の大業に想いを馳せ、わが国の弥栄を祈念申し上げます。

 

f:id:ysumadera:20200416132842j:plain

紀元祭」が行われる建国記念日橿原神宮

 

討論会報告 アジア主義の脱構築

 過日、民族文化研究会では、有志によって「アジア主義脱構築」を主題に、討論会を行った。現代におけるアジア主義の展望をめぐって、数時間にわたり議論が交わされた。そこでの議論は、これまでのアジア主義を生まれ変わらせようとする方向性を示唆しており、まさしくアジア主義の「脱構築」とでも形容すべき内容となっている。以下は、その討論会の議事録である。また、参加者であるトモサカアキノリ・湯原静雄の両者は、それぞれトモサカ・湯原と表記している。

 

湯原「では、アジア主義についての討論ということですが、おそらく、こうしたテーマを巡っては、過去のアジア主義の検討と、現在・将来におけるアジア主義の可能性と、この二点がまず考えられると思います。どちらから議論しましょうか」

トモサカ「基本的には将来を見据えていく方向性でいきましょう。過去は、そのための参照先として有用であるにすぎません。ですが、その視点であれば両者を接合させる事ができます。まず我々が、なぜアジア主義について語らなければならないかという問題がありますが、それは過去にアジア主義が、世界における帝国の生存戦略のうち、日本的秩序構築(パクスヤポニカ)を行う際にとりえた戦略の一つであったという理解に根差していると思いますが、いかがでしょうか」

湯原「アジア主義において、日本の国益の追求と、これは当時としてはパクスヤポニカという世界戦略のことであったわけですが、それとアジアの解放は、表裏一体だったと思います。また、この両面のどちらがメインだったかということについて、これまで議論が繰り返されてきたと思います。われわれは、このうち、どちらを選択するか、あるいは双方を成し遂げるのか、現代において課題となっていると思いますが、いかがお考えでしょうか」

トモサカ「捕捉しつつ理解したいと思いますが、まずアジア主義とは何であったか、その選択肢は二つあることになりますよね。前提として、日本の国益追及の手法として、世界戦略が必要とされていた。その結果、日本的秩序構築(パクスヤポニカ)と植民地解放という二面があったということですね」

湯原「そうです。そして、そのうち、どちらの側面が強かったかが、これまでアジア主義の議論の主題となってきたわけです。乱暴に整理すれば、左派はアジア主義侵略戦争の方便として、右派はアジア主義を植民地解放の理念として解釈したわけですが、こうした図式的でないアジア主義理解が、今必要とされている点は、議論として共有できると思います。そこで、アジア主義の二側面を、いかに理解していくか、というテーマが重要性をもつわけです」

トモサカ「アジア主義には二つの側面があって、左派はアジア主義侵略戦争の方便として、一方で右派はアジア主義を植民地解放の理念として解釈したということですね。その点は同意します。そして、それ以外のアジア主義というと、どういうものを想定されていますか」

湯原「アジア主義についての議論を簡単に整理するかたちで、議論を進めてきましたが、私の見解を述べさせて頂きますと、両者の類まれな一致が、アジア主義だったと捉えております。欧米と対抗するにあたって、アジアの独立の実現は、日本の国益でもあった。ここで、リアリスティックな国益の追求と、植民地解放という理念の探求が、見事に合一したのではないでしょうか。ただ、現代では、戦前期と状況が異なっているので、この両側面をいかに整合的に理解するかについては、最初から検討し直す必要性があると思います」

トモサカ「そうですね。『欧米と対抗するにあたって、アジアの独立の実現は、日本の国益でもあった。ここで、リアリスティックな国益の追求と、植民地解放という理念の探求が、見事に合一した』というのは、至言だと思います。そして、現在はかなり状況が違っているのも事実です。シナやスィンドやインドネスィアは独立したのですが、それぞれの国益は矛盾するような状況にあるということですよね」

湯原「アジアの利益を、そのまま日本の国益だと変換できなくなったわけです。ここで、アジア主義の現代における適用可能性にも疑問が出てきているわけですし、アジア主義の理念を維持したままで、日本の世界戦略を描出できるのか、という問題が発生しているわけです。この点を、いかにお考えですか」

トモサカ「それは全く仰る通りです。戦前戦中については、アジアは一つの利益共同体になりえたと思いますが、現代ではアジアという地域は一つの利益共同体として成立していません。しかしながら、現代のアジアという地域が、戦前戦中に理想とされたアジア主義の理念通りにならなかったことは、理念としてのアジア主義が誤っていたことの証左にはならないと考えています。まず、アジア主義では、対欧米の勢力確立という目的のために、アジアを『建設』するという構築主義的な意見が主流となったのであり、ある意味では、そもそも現実的でない意見を主張していたのです。現在、アジアという利益共同体は成立していないわけですが、仮にアジア主義をここで持ち出すのであれば、また、アジアの建設を再開するといったことは理論上、可能と思います。ですから、そうしたことをすべきかどうかについても、ここでは話したいと考えています」

湯原「アジアという利益共同体を、フィクションであれ構築することが、日本の国益に合致するのならば、という留保を付した上ですが、上記の議論には同意いたします」

トモサカ「もちろんです。それは大前提ですので。しかし、後で重要になると思いますので、そうでない前提がありうるのかと設問しますと、あり得ます。それは、日本以外の、アジア主義的アジアの参加者たちにとっての、防衛戦略としてです。アジア主義が実現を試みていたのは、現在の欧州連合のような国家共同体であるわけで、戦争状態にあった実際の短い試験期間の実情はどうあれ、その参加国は対等であることがうたわれています」

湯原「ですが、欧米への対抗や、植民地主義の脅威といった、アジアという利益共同体を構築するメリットが喪失されつつあるなかで、なおもアジアという利益共同体を仮構する意味は、どこにあるのでしょうか」

トモサカ「ぼくはアジア主義を無条件に肯定してはいません。ですが、我が国が今後とるべき戦略の中で、国家共同体という想定は、かなり重要になってくると考えています。それは、根本的には世界の流動における勢力確立の問題意識を基礎にしています。例えば、帝国は今後、一国で世界の資本主義勢力、もしくは脱文化勢力等に立ち向かえるでしょうか。また、ぼくは植民地主義の脅威が去ったとは理解していません。確かに冷戦終了後以降、大航海時代のように目に見えて虐殺や植民地化が行われる前提はなくなったかのように見えていますが、本当にそうでしょうか。ルスィヤを例に挙げますと、彼らはソ連時代に、本来は異民族(Ethnic groups)の土地に植民し、現在、結果的にルスィヤ人が多い地域を衛星国家として独立させながら、利害関係を共有しているわけですよね。それはシナも同様といっていいでしょう。シナは現在、充分に植民地主義的ですし、今後、世界が徐々に帝国主義的に変容する中で、新たに植民地を拡大させる可能性も、充分にあると考えています」

湯原「グローバル化や、存続し続けている植民地主義に対して、国家間の連帯を強化する必要性があるわけですね。それについては、分かりました。ですが、私がここで注意を喚起したいのは、連帯する国家を誤ってはならない、という点です。かつてのアジア主義のように、アジアという単位の自明性に寄りかからずに、アジアにおいて連帯を深めるにせよ、アジアのどの国家と連帯すべきか、慎重に吟味しなければならないでしょう。東アジア共同体論者が主張するような、日本にとって敵性国家であるシナや朝鮮半島との連帯は、国益の観点から阻止されなければならないのは言うまでもありません。また、国家間連帯ならば、アジアという広すぎる地域を、特権的に理念として標榜する必要性があるのか、という疑問も生じると思います」

トモサカ「ひとまず、グローバル化植民地主義に打ち勝つために、国家を超越した共同体が必要である点については、理解を共有できているということですね。『敵性国家』についてですが、現在の中華人民共和国や、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国が敵性国家であるという議論には同意します。したがって、我が国にとって、彼らとの連帯は、様々な場面で基本的に意味を持たないという点に同意します。そのうえで、我々はこの議論を、帝国が何と連帯しうるのかを問い直す場として再検討する必要があると思います」

湯原「それについては、完全に同意します」

トモサカ「上記の議論を引き継いで言えば、該当の地域にある体制が、我々と利益を共有でき、また、反資本主義であり、また、反植民地主義的になることができれば、我々は当然連帯することができるわけですよね」

湯原「そうですね、またそうした国家を、いかに増やしていけるか、日本の世界戦略が問われるでしょう」

トモサカ「ここまでは、完全に価値観を共有できました。繰り返しますが、『いかに増やしていけるか』。現代は帝国主義の時代です。我々は、能動的に相手国の体制を無害化し、味方につけていくという方向性を選択肢として見据えなければならない時代にあります」

湯原「では、続いて、帝国が他国と国家間連帯を推進するにせよ、アジアという単位に拘泥する必要があるのか、という論点が出てくると思います。これについて、いかにお考えでしょうか」

トモサカ「実のところ、全くないと思います。しかし、留保事項があります。そもそも目的意識としては、上記のように、反グローバルであり、反資本主義であり、反植民地主義的である等の条件のもとに、経済的な実態としての他の主体(主に国民国家)と思想的同志となり、互いに強調する連帯が必要なのです。したがって、それらの条件を満たしさえすれば、我々はすべての主体と手を組むべきだといえます。ただし、かつての三国同盟のように、地球の真裏にいくつかの勢力があるだけでは安定しません。近隣に勢力を持つ主体との連帯であることも、大変重要だといえます。まあこの点は、以前も意識されていたことでしょうが」

湯原「たしかに、地理的条件も重要ですね。そうした点も考慮した上で、連帯できる国家を増やしていくのが肝要でしょう」

トモサカ「少し話の流れを変えたいと思いますが、先の大戦では、我が国はたしかにアジア主義を掲げており、その使徒として奔走した経緯があります。ぼくはこの戦争を、時の政府が強調したように大東亜戦争と呼ぶことにやぶさかではありません。しかし、その実態を考えると、現在のアカデミズムが時折呼ぶ『アジア・太平洋戦争』といういい方は、なかなか優れた呼称だと思います。素朴な指摘ですが、太平洋はアジアには含まれないのです」

湯原「アジア主義は、その名とは裏腹に、アジアという単位に必要以上に拘泥せず、広い視野で国家間連帯を構想していたわけですね」

トモサカ「はい、その通りだと思います。大東亜戦争において、アジア主義という理念が、いかなる方向性を帯びたかというと、あくまで現地の国家なり国民なり民族という主体を重んじ、それぞれの独立と相互自助を求めていた。言うまでもないことですが、理念と実際の政策は別の次元で考えてください。実際の政策はかなり植民地主義的に、ある意味では帝国に優位な政策を行い、しばしば現地人を鑑みなかったことも事実です。話を続けましょう。戦略上重要だった事もありますが、わが軍は豪州の上陸作戦なども視野に入れていました。これが成功していたらどうなったでしょう。例えば現場合のインドネスィアのように、現地人の社会と指導体制とを擁立する形式の統治を目指していたとすれば、豪州は現在のような白人社会ではなく、アボリジナルピーポー(先住民族)も参加する社会が出来上がっていたのではないでしょうか。場合によってはハワイ王国の実現なども、考えられたでしょう。多少、話がそれたようですので修正しますと、『アジア主義』はアジアのみならず、南洋などでも行われていたのです。オセアニアにも自治という方針が多分に適用されていたのですね」

湯原「アジア主義が、国家間連帯と植民地解放という理念の行き着く先で、アジアを乗り越えていくわけですね。確かに、これら二つの理念と、アジアという単位は、直接的にはリンクしていません。ここで、アジア主義が、世界を視野に入れた、国家間連帯と植民地解放の理念として、拡張されていく可能性があったわけですね」

トモサカ「そうですね。それと、くどいようですが、アジア主義の思想的重鎮である大川周明の議論も取り上げたいと思います。ぼくは、大川を同志先輩として尊敬しています。彼は著書の中で、幾たびもイスラームの地域性についてふれているのですが、なぜ彼がイスラームを重視したのかというと、やはり、対欧米の視点で、反植民地主義的な戦略を構築するうえで、その主要な地域において、広範に信仰されているイスラーム潜在的能力を評価してのことだったのですね。イスラームは『西アジア』発祥ですから、彼は疑いなく『アジア』に着目したのですが、その概説書である『回教概論』では、もちろんアフリカ地域についても少なからず言及があります。そこで、改めてアジア主義とは何だったのかを見直しますと、これは、国家間連帯や植民地解放といった基本的戦略の上に、手段としての地域性を言及した結果、だいたい『アジア』という地域に収まったということにほかなりません」

湯原「いわば、アジア主義にとって、アジアとは目的ではなく、手段だったわけですね。その理念を実現していくうえで、足がかりとなる地域性として、アジア主義はアジアを捉えていた。他方で、岡倉天心などを見ますと、アジアを目的として捉えていたのではないか、と思われる部分がある。岡倉は、日本を東洋文化の一大流入地と理解していて、東洋文化を一身に受容した日本が、その総合と止揚を成し遂げたと絶賛するのですが、ここで岡倉の内部でナショナリズムアジア主義が合致する一方で、文化というかたちでアジアを実質的単位と把握し、これをアジア主義の究極的な目的と解釈しているわけです。アジアをどう捉えるかは、アジア主義の内部でも分裂していたのかもしれませんね」

トモサカ「それはご指摘の通りですね。岡倉のアジア主義は、かなり漢字文化圏に力点を置いていると思います。多少逸脱するかもしれませんが、ぼくは、この東アジア的な、漢字文明圏という概念はかなり有効だと考えていますが、いかがお考えでしょうか。初期のアジア主義というのは、おそらく東アジアをさして『アジア』を想像していたのではないか、と思われるふしがあります。また、これとは別に、そもそも『アジア』とはいったい何でしょうか。その点は問い直されるべきですね」

湯原「東アジアを、漢字文化圏であれ、儒教文化圏であれ、華夷秩序であれ、表面的な類似性をもって同質の文明圏と判断するのは、浅慮ではないでしょうか。例えば、シナや朝鮮半島が、封建制を経験したでしょうか、宗教改革を通過したでしょうか、合理主義が台頭したでしょうか、近代的なネーション(国民)や自由市場の観念を発生させたでしょうか、市民革命を成功させたでしょうか。結論を言うと、日本が主体的に近代を経験したのに対し、シナや朝鮮半島は、古代的専制国家のシーラカンスなのではないでしょうか。表面的な類似を追っていては気付けない、文明的内実や歴史的展開において、両者は隔絶された文化圏なのだと思っています。この点では、私は梅棹忠夫の主張する、日本とヨーロッパの並行進化という命題を支持しています」

トモサカ「その点は、ぼくも賛成しています。しかし、東アジアが成立しているかどうかは、定義によって結論が異なる議論です。まず、ぼくはどういう議論に賛成しているかですが、ぼくは歴史学でいう『文明』について、技術や経済を基礎とする、不可逆的な社会の進化がもたらす社会の在り方だと考えています。ある解釈では、『文明』は石器時代から青銅器時代への時代の変化と、表記体系の整った記号である文字が生まれたことにより、成立するのですね。シナ文明については、黄河文明長江文明遼河文明が成立したのち、おそらく黄河文明が主体となって残りを統合することに開始します。そしてご指摘の通り、主に近世において、シナ文明と近隣の主体(独立した『文明』と言いうるかどうかは、疑問があります)は、日本文明に比較して、生産様式や社会発展段階が劣っていた。では、別の意見ではどうか。例えば、ここで東アジアを文明ではなく文化として問い直してみましょう。ご指摘の通り、漢字文化や儒教文化や華夷秩序といった固有な文化は、現在でも我が国、ないし民族(Ethnic groups)に強く影響を与えています。その意味で、我が国・民族は東アジア文化圏、つまりシナ文化圏でもあるといっていいでしょう。さすがに逸脱しますので、この議論においてぼくの結論を述べます。シナ文化圏のなかの日本という状況がこれまでの経緯であるとして、今後の我が国はどうするべきか、ということについてです。じつは、ぼくは日本が文化的に自立すべきであるという意見です。極端なことを言うと、シナ文化圏から自立するために、漢語と漢字を排斥し、文化を純化するべきだと考えています。異論はあるかもしれませんが、近世に始まる思想的独立を、我々後世の者が完成させなければならないという使命感があります。また、それは民族(Ethnic groups)としての日本のみならず、民族という単位として並立しうる全ての主体において行われなければならないと考えています」

湯原「よく分かりました。続いて、アジアとは何かという問いについてですが、アジアとは、ヨーロッパの視線の中で、彼らより東方にある土地、そして住んでいる人々として、まずは定式化されたのだと思います。エドワード・サイードの表現を借用すると、オリエンタリズムですね。もっとも、これはアジアに限った話ではなく、どのような存在も、他者との対比のなかで、自我を形成していくのです」

トモサカ「そうですね。アジアとは、その始原においてアナトリア、今のトルコのことであり、その概念を継承した西ローマ帝国が世界を飲み込んだ結果、我々も上からアジアなる網をかぶせられたに過ぎないことは、肝に銘じておかなければならないでしょう」

 

【コラム】欧州右翼における「ヨーロッパ主義」――欧州右翼のヨーロッパ像とEU危機

 欧州は、解体の危機に晒されている。ヨーロッパ連合の制度疲労は明白であり、それに難民流入問題が拍車をかけ、欧州の連帯は危殆に陥りつつある。こうした危機的状況を象徴しているのが、昨年のイギリスのヨーロッパ連合からの離脱だった。このニュースは、世界を駆け巡り、欧州の危機を世界に印象付けた。今年は、フランス大統領選をめぐって、こうしたヨーロッパの危機が、再燃しそうな模様である。有力候補であるマリーヌ・ルペンが、反ヨーロッパ連合の姿勢を鮮明にしているためだ。これ以上、ヨーロッパ連合から大国が離脱する事態があれば、欧州の連帯の危機は終局的なものと化すだろう。

 そして、こうした欧州の解体の危機は、右翼の影響下で進展している、と頻繁に説明されている。さきほど言及したフランス大統領選の有力候補である、マリーヌ・ルペンが所属している、国民戦線がしばしば典型的事例として紹介される。また、イギリスのヨーロッパ連合離脱の引き金となったイギリス独立党や、ドイツで注目されつつある「ドイツのための選択肢」も、同様である。ナショナリズムに立脚する、こうした欧州右翼は、国家利益を保護するため、反ヨーロッパ連合の姿勢を鮮明にしており、こうした欧州右翼によって欧州の解体の危機が生じている、というわけだ。確かに、エマニュエル・トッドが、『問題は英国ではない、EUなのだ――21世紀の新・国家論』(文藝春秋、2016年)で指摘している通り、ヨーロッパの趨勢は「統合からネーションへ」と回帰しつつある。だが、欧州右翼の系譜を振り返ると、ヨーロッパの統合に積極的な意義を見出す、「ヨーロッパ主義」とでも形容すべき潮流も存在する。ここでは、こうした系譜に光を当て、欧州右翼における「ヨーロッパ理念」の多元性について言及したい。

 欧州の統合に積極的な意義を見出す、こうしたヨーロッパ主義の潮流としては、汎ヨーロッパ連合を提唱した、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが、まず想起される。だが、カレルギーの運動とは無関係に、ヨーロッパ主義の主張が、同時代の欧州右翼から提示された。こうした主張を展開したのは、フランスにおけるコラボラトゥール(対独協力者)として知られている、小説家のドリュ・ラ・ロシェルだった。ドリュ・ラ・ロシェルらコラボラトゥールの文学と行動は、福田和也『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』(筑摩書房、2002年)に詳述されているが、ドリュ・ラ・ロシェルアメリカとソ連が将来的に覇権を掌握し、ヨーロッパがこのままでは没落すると察知していた。そして、こうしたアメリカとソ連の脅威にヨーロッパが対抗するには、ファシズムによって統合するほかない、との主張を展開した。

 

f:id:ysumadera:20201224064914j:plain

ドリュ・ラ・ロシェル

 ドリュ・ラ・ロシェルナチス・ドイツへの協力は、こうした展望から導き出された帰結だった。ドリュ・ラ・ロシェルは、アメリカとソ連は、イデオロギー的に反目しているように映るが、双方とも卑俗な物質主義への信奉という点で、同一の傾向をもつと捉えた。物質主義のアメリカとソ連に、精神主義のヨーロッパが対抗しなければならない、との理解を提示した。ドリュ・ラ・ロシェルの文学は、こうした危機感を背景としていた。フランスとドイツが、ファシズムの理想の下で連携し、物質主義のアメリカとソ連に対抗しうる、精神主義の気高い統合ヨーロッパを実現する――こうした理念にしたがって、ドリュ・ラ・ロシェルの文学と行動はなされたのである。

 こうしたドリュ・ラ・ロシェルのヨーロッパ主義は、アメリカとソ連の台頭への危機感から、ヨーロッパをファシズムによって統合し対抗させる、という試みとして理解できる。そして、こうしたヨーロッパ主義を、ドリュ・ラ・ロシェルは情緒的な文学という営為によって表現した。他方で、これをリアリスティックな政治という営為によって表現したのが、カール・シュミットである。シュミットは、自身のヨーロッパ主義を、「グロスラウム」という概念で表現した。「グロスラウム」とは、後期のシュミットを代表する概念である。これは、シュミットが憲法学から国際法学に研究の軸足を移した1940年代から大々的に展開された。シュミットは、国際法秩序を理解するうえで、複数の国家から成立する広域圏(グロスラウム)において、歴史的に生成された国際法秩序を重視する必要がある、と訴えた。そして、ヨーロッパを、こうした国際法秩序を共有し、歴史的に生成してきた、「グロスラウム」として評価する。

 

f:id:ysumadera:20201224065326j:plain

カール・シュミット

 

 「グロスラウム」は、主権国家を超えたグローバルな空間だが、それは同一の秩序を共有する法共同体であることを要求され、全地球的な広がりはもたない、地域性を保った概念となる。こうした複数の国家から構成され、同一の秩序を共有する、巨大だが限定された「地域」として、「グロスラウム」は定義される。そして、こうした「グロスラウム」の典型を、シュミットはヨーロッパに発見する。そして、シュミットは、国際法秩序を理解するうえで、こうした特定の地域における秩序を重視する「グロスラウム」を基調とした解釈と、全地球規模の秩序を対象とする普遍主義的な解釈が、対抗関係にあると主張する。そして、そこには、ヨーロッパの脅威である、アメリカとソ連への、シュミットの敵意が伏在していた。歴史と伝統(シュミットのタームを用いれば、具体的秩序)をもつヨーロッパと、実験国家として成立したアメリカとソ連の対抗が、特殊と普遍の衝突として表現されているわけだ。シュミットは、「グロスラウム」であるヨーロッパが、普遍主義のアメリカやソ連の脅威に晒されている、と解釈した。この図式は、戦後のシュミットにおいても、一貫して維持されている。

 こうしたシュミットのヨーロッパ主義は、大竹弘二が『正戦と内戦――カール・シュミットの国際秩序思想』(以文社、2009年)で言及しているように、戦後の欧州右翼の思潮にも影響を及ぼした。その代表例が、フランス新右翼の思想的主柱である、アラン・ド・ブノワや、イタリア新右翼のイデオローグである、ミリオだった。アラン・ド・ブノワは、アイデンティティの依拠すべき単位は、主権国家の枠内に留まらず、最終的にはヨーロッパへと包摂される、と主張した。そして、米ソ両国に対抗する目的で、「中央ヨーロッパ」といった伝統的なヨーロッパ理念を再発見する。また、ミリオは、イタリア北部の自治拡大を求める極右政党「北部同盟」のイデオローグとなり、イタリアという主権国家から手を切った。ここで、ミリオは、イタリア北部のアイデンティティを、イタリアという主権国家の一部である点ではなく、ヨーロッパの一員である点に求めた。ヨーロッパという主権国家を超えた地域への注目や、米ソ両国への対抗という点において、こうした欧州の新右翼のヨーロッパ主義は、戦前のドリュ・ラ・ロシェルカール・シュミットの図式を継承している。

 このように、欧州右翼には、ヨーロッパの統合に積極的な意義を見出す、「ヨーロッパ主義」とでも形容すべき潮流がある。欧州右翼には、しばしば指摘される国粋主義的な側面と、こうしたヨーロッパ主義的な側面が、複雑に交錯しているわけだ。こうした欧州右翼の構図と同じく、現代の欧州も、ナショナリズムと国際的統合の狭間で、模索を続けている。こうした欧州の情勢を分析するには、ここで取り上げたような、欧州右翼のヨーロッパ像の検討が不可欠なのである。