定例研究会報告 明治国家形成と国学者――平田国学と津和野国学の国家構想と維新政府への影響

はじめに

 明治国家は、近代的な法制・軍備の吸収に熱心な一方で、祭政一致主義・天皇親政主義を基調とする神権的政治秩序を基盤としていた。阪本是丸は、こうした体制を、『明治維新国学者』(大明堂、1993年)で、「近代的祭政一致国家」と呼称した。そして、こうした体制の構築には、国学者たちの影響が存在した。だが、こうした「近代的祭政一致国家」の建設にあたって、国学者たちの見解は一枚岩ではなかった。平田派と津和野派の国学者の国家構想は、深刻に対立していた。そして、こうした国学者たちの国家構想の対立は、国学者が維新政府に与える影響にも影を落としている。本稿では、平田国学と津和野国学の国家構想の対立を検討し、明治国家形成に国学者がいかなる影響を与えたのかを明らかにしたい。

 

一 祭政一致国家の実像

 明治維新政府は、王政復古の大号令太政官制の制定により、祭政一致国家の輪郭を一応は整えるに至った。このようにして、祭政一致主義・天皇親政主義を基調とする神権的政治秩序が、古代を規範として構築されていったのである。このような古代を彷彿とさせる祭政一致国家の創出に際しては、古代律令制・伝統的祭祀・神道教義に知悉する国学者が、神権的政治秩序の設計者としての役割を担うこととなった。

 洋学に通じた法制や軍事の専門家である官僚たちや政府首脳と、国学神道の専門家である国学者神道家たちの協働作業として祭政一致国家構想は理解できるのであり、この合作によって、明治国家の政治的正統性を弁証しえる伝統的祭祀や神話的秩序を近代的国家構造に組み込むことができたのである。つまり、祭政一致国家を構想し、樹立するに際して最も力のあった勢力である国学者神道家と、中央の政界・官界との関係性が、明治維新政府の神祇政策の展開を決定していたのである。国学者と政界・官界との関係性に注目し、国学者がどのように祭政一致神道政策、あるいは神道による国民教導についての自己の理想を実現していったかに注目することによって、われわれは国学者が明治国家形成に与えた影響の実像に接近することができるのだ。

 しかし、国学者の学派・派閥ごとで、それぞれ祭政一致国家、神祇政策、国民教化、神道教育についての認識や理想には大きく隔たりがあり、抗争や軋轢が生じていた。国学者と政治との関係性に加えて、学派間の関係性にも目を配り、津和野派・平田派・伝統的な神祇宗家の吉田家や白川家といった各派の理念の相違と、各派の関係性を見ていくことで、祭政一致国家の形成過程を追っていきたい。

 

二 平田派国学と明治国家形成

 幕末期における国学者の最大の流派は、二千を越える門人を擁した平田派である。平田篤胤を淵源とし、復古神道の代表的学派として隆盛を誇っていた。維新後には新政府に接近し、門人である玉松操が行なった岩倉具視への具申により「王政復古の大号令」の宣言がなされ、祭政一致主義・天皇親政主義が新国家の政治原理として据えられた。また、神祇事務局が開設されると、平田派からは判事職に矢野玄道・平田鐵胤が就任し神祇行政に携わった。

 しかし、結果的には、平田派国学明治新政府の神祇政策に与えた影響は限定的なものに留まった。やがて平田派の国学者たちは明治新政府の中枢から排除され、衰勢の憂き目に遭うことになる。これは神祇政策の主導権を争った津和野派との政治闘争や、学習院を基盤として公家・士族層に多くの支持者をもつ漢学や明治新政府に浸透しつつあった蘭学(洋学)との覇権争いの帰結とも解釈できるが、彼らの神権的政治秩序構想がその特異性の為に、維新後の政治展開において結局は受け入れられなかったのを示している。そして、平田派には、自身の神権的政治秩序構想を現実的に制度化するだけの政治的人脈を欠いており、また環境的な困難も伏在していた。そして、維新政府によって実現された祭政一致国家も平田派の理想からは乖離せざるをえず、また平田派も政治的展開から取り残されざるをえなかったのである。

 まずは、祭政一致国家の基礎となった神祇官の復興を巡る政治情勢を把握し、その中で平田派がどのような活動したか、また彼らの神権的政治秩序構想と、彼らの明治維新政府での位置を確認していきたい。

 祭政一致国家の樹立に際しては、ひとつの重大な争点が伏在していた。すなわち、新たに形成される政治的秩序の力点を「王政復古」に置くか、それとも「神武創業」に置くかという問題である。維新政府の成立を内外に宣言した慶應三年(1867年)の王政復古の大号令においては、「王政復古」と「諸事神武創業」という二つの原則が並立されていたが、「王政復古」と「諸事神武創業」はかなり趣旨を異にする概念である。

 「神武創業」という概念は確かに復古を意味してはいたのだが、歴史的には何ら具体的事実が存在しない「神武創業」に基づくことは、新政府が打ち出す制度・政策が律令制に囚われる必要の無いこと、すなわち「明治天皇による創業=革命」という意味合いを強く持っていた。「王政復古」は、「神武創業」とは異なり、古代律令制という歴史的政治秩序に規範を求め、古代の王政体制そのものの再現を企図する政治構想であった。維新を律令制時代の「復古」と解釈したのが矢野玄道ら平田派国学者中山忠能ら公卿出身の政府内復古派であり、維新を「諸事神武創業」、すなわち明治天皇による「御一新=革命」と理解したのが福羽美静や門脇重綾らの津和野派国学者大久保利通木戸孝允ら維新功臣たちであったのである。そして、このような「明治維新」への理解の差異は、祭政一致国家観の差異あるいは神権的政治秩序観の差異にも繋がってくるのである。「王政復古」の立場に立てば、神祇官を再興し、古代律令制太政官神祇官二官制に復古したかたちでの祭政一致国家の樹立を、「神武創業」の立場に立てば、律令制以前の天皇親祭・天皇親政への回帰というかたちで祭政一致国家の建設を目指すことになる。

 維新政府内での政治情勢を要約すると、「神武創業」の構想の具現化を目指す大久保利通木戸孝允らの維新功績者のグループと、「王政復古」の理念の実現を企図する中山忠能正親町三条実愛ら有力公卿と諸侯で構成される廷臣たちのグループとの間に熾烈な政治闘争が繰り広げられていたのであり、津和野派は維新功績者のグループ、平田派は廷臣のグループにそれぞれ人脈を持ち、各々の構想する祭政一致国家を実現するため政治活動を行なっていたのである。

 表面的には、太政官政府は樹立され、神祇官も復興された。これは平田派国学者・復古派廷臣グループの政治的勝利であるかのように見えるが、こうして再建された神祇官はやがて津和野派の勢力が主流派を占めるようになり、平田派はその中枢から放逐されていく。平田派の祭政一致国家観とそれが現実に制度化されたかどうか、そしてまた平田派と津和野派の政争―これはすなわち廷臣グループと維新功績者グループとの政争でもあるわけだが―の帰結を見ていきたい。

 矢野玄道が岩倉具視に献呈した祭政一致国家樹立に関する提議『献芹詹語』に見られる平田派の祭政一致国家観・神権的政治秩序構想は、きわめて雄大な復古的国家構想であると言える。太政官政府の再整備と神祇官の復興、八神殿(古代律令制下で神祇官西院に設けられた、天皇を守護する八神を祀る神殿)の再興、造化三神天御中主神、 高皇産神、神皇産霊神)を祭祀する神殿・大国主神を祭祀する神殿・南朝忠臣の霊を祭祀する神殿から構成される大宮(中央神殿)の新設、国学を中核とする大学校(高等教育機関)の設置、あらたな祭祀である大祭の挙行等がその内容であった。この構想を見ると、大宮建立の構想は、造化三神大国主命を重視する平田派神学の神霊観・幽冥観を基盤として構想されているものであり、大祭は、天皇の御幸が行なわれ、また庶民の参列が許され、天皇による敬神崇祖の実践を人々に知らしめることが目的とされていた。国学を中核とする大学校も、身分を問わずに入学を認められるものとされ、国学神道による大規模な国民教化という平田派の祭政一致国家理念がこれらの制度構想には表れている。この構想は、津和野派が目指した、神祇官祭祀から宮中祭祀への転換、国民の教導よりも天皇による祭祀の重視といった祭政一致国家像とは相反するものである。この祭政一致国家観の差異を巡り、平田派と津和野派は熾烈な政治的闘争を展開した。

 太政官政府は樹立され、神祇官は復興されたが、それらの内実は矢野玄道ら平田派国学者の構想とはかけ離れたものであった。維新政府の神祇政策は、矢野らが主張した大宮(中央神殿)の創建はおろか、都(矢野らにとってそれは京都以外には有り得なかった)に神祇官八神殿を造立することすらしなかったのである。国学を主軸とする大学校の建設も、後述するが矢野らの尽力も虚しく挫折する。太政官政府の樹立と神祇官の成立も、その歴史的沿革を見ると、廷臣グループと維新功臣グループによる政治的妥協の産物でしかない。天皇自らが祭祀し(天皇親祭)、天皇自らが政治を執り行う(天皇親政)ことを理想とする維新功臣グループは、天皇親祭の現実化・神武創業の理念の具現化として、天皇が直接に天神地祇に誓約する形式の「五箇条の御誓文」の誓約式を執り行った。これに危機感を募らせた守旧派の廷臣グループは、律令制復古構想の実現を賭けて、対抗運動を本格化させた。そして、両派の妥協の産物として太政官政府の樹立・神祇官の復興がなされたのである。平田派の「勝利」は表面的・形式的なものに過ぎなかった。

 平田派がこの政治的現実を受け入れ、ある程度の妥協をし、自身の祭政一致国家構想の実現を目指し政治運動を展開したならば、平田派国学者の神祇政策への影響力は維持されたであろうし、また彼らの神権的政治秩序構想を政策に反映させることも可能であっただろう。しかし、現実にはそのようにはならなかった。矢野玄道・玉松操・平田鐵胤ら平田派の幹部たちは、自身の祭政一致国家構想にひたすら固執するのみであった。東京への遷都についても平田派は反対の姿勢を取り、政治の中心地が東京に移転しているにもかかわらず、その現実を受け入れようとせず、東京でのロビー活動を拒絶し、政治的影響力を失墜させ続けた。彼らが人脈を持っていた廷臣グループの維新政府内部での衰勢もそれに拍車をかけた。神祇官の判事職に矢野玄道・玉松操・平田鐵胤は就いたものの、彼らは後に内国事務局判事に転任し、大学校設立問題に取り組むようになったため、神祇官からは平田派主力が姿を消し、これも平田派の没落を加速させた。そして、神祇官は福羽美静・門脇重綾ら津和野派が主流となっていったのである。

 平田派はその衰勢を挽回するため、国学を中心とする大学校の新設事業に総力を挙げて取り組んだ。政府内部では皇学院という名称の大学校(高等教育機関)を建設し、その中に国学科・漢学科・洋学科といった学科を設けるという構想が提議されたが、国学中心の大学校設置を求める平田派国学者たち、そして学習院を基盤とし漢学を主体とする大学校設置を目指していた漢学者たちの双方から批判を受け、国学を中心とする皇学所、漢学を中心とする漢学所をそれぞれ別個に設置するという折衷案で落ち着いた。皇学所・漢学所は慶應4年に開学したが、平田派国学者たちは、この皇学所を大学校に昇格させることを政府に求め続けた。この大学校構想は京都に開設されることが前提となっていたが、東京遷都問題も絡み、政府は大学校設立には消極的だった。しかし、京都留守官が設立を強行、明治2年に、皇学所と漢学所を発展解消し開学したが、命脈は長く続かず、政府の手で閉鎖された。東京においても、幕府の教育機関だった昌平学校・開成学校・医学校を統合し、国学を中核とする総合大学とすることが目指された。ただ、昌平学校は漢学の牙城であり、この学校の中心に国学を据えるのは無理があったと言える。国学派と漢学派の軋轢と抗争の末、東京の大学校は明治4年に閉鎖されることになった。この時、平田派の没落は決定的となったのである。

 

三 津和野派国学と明治国家形成

 津和野派とは、山陰・津和野藩から後援を受けていた国学者たちを指す。津和野藩は四万三千国の一小藩に過ぎなかったが、幕末以来、同藩は藩主である亀井茲監の指導のもと、多くの藩士が尊皇運動・倒幕運動に従事し、小藩ながら多方面に豊富な政治的人脈を持っていた。中でも、津和野派の代表的国学者である福羽美静は中央政界に顔が利いた。この幕末以来の豊かな政治的人脈があったからこそ、藩主亀井茲監や、彼が庇護した福羽美静ら津和野派の国学者たちは、維新政府の神祇政策において、重要な位置を占めることが可能となったのである。亀井は、津和野派の思想的淵源であった国学者大国隆正に影響を受け、藩内で社寺改革に取り組み、神仏混同の禁止や神葬祭の普及による神道興隆策を推進した。この経験を買われ、亀井は神祇事務局判事となり、神祇事務局そして神祇官に津和野派国学者の福羽美静、門脇重綾らを任官させ、津和野藩で行なった社寺改革で培われた宗教行政の手腕を発揮した。人脈と技能こそが、津和野派が神祇事務局・神祇官で勢力を得ることを可能にしたのであり、このような事情により、津和野派は初期から宗教行政を牽引し、ライバルであった平田派を引き離すに至ったのである。

 亀井らは、最初の神祇政策案として、①神祇官復興まで、とりあえず神祇局を設け、それに「八神」を勧請して神事を執行する ②伊勢神宮の祭典を再興して、ますます神威を高める ③熱田神宮伊勢神宮に次ぐ神社として待遇する④出雲大社熱田神宮に準じる待遇とする ⑤古来の大社の取り扱い規則を立てて崇敬する体制を設ける ⑥山稜の祭典を改革し、神祇事務局の管轄とする ⑥国内の「宗門」を「復古神道」に改める などを提議した。亀井のこの提案は、そのまま以後の神祇・神社行政の基本となった。神仏判然令の施行、明治天皇による石清水八幡宮親拝、明治天皇への古事記進講、切支丹への処分、楠公社の造営、招魂祭の挙行、明治天皇即位式の開催、新嘗祭の執行、明治天皇による神宮(伊勢神宮)親拝など、亀井茲監や福羽美静らを中心として、様々な神祇政策が実行されていったのである。神祇官問題においては、津和野派は平田派に妥協を余儀なくされたものの、現実的に神祇官の要職を占めたのは津和野派の国学者たちであった。平田派の衰退を横目に、津和野派が主流を占める神祇官は全国の神社から伝統的な神祇宗家である吉田・白川両家を全面的に排除することを上申した。吉田家・白川家による神社支配・祭祀権の剥奪は、天皇親祭・天皇親政という津和野派が理想とする祭政一致構想の実現へ向けて必須だったのである。続いて津和野派は宮中祭祀の整備に乗り出し、天皇による親祭すなわち天皇によるいわゆる敬神崇祖の実践を主軸とする津和野派の祭政一致国家の実現が図られた。そして、明治三年、津和野派の代表的国学者であり、神祇大祐である門脇重綾は、神祇官太政官の二官制を「何分祭政区別ノ姿」と述べ、神祇官特立による祭政一致体制を批判し、真に有効に機能しうる祭政一致体制(門脇に言わせればそれは天皇親祭である)の構築を訴えた。この建白には津和野派で占められた神祇官幹部の連署が添えられており、これは津和野派で占められた神祇官が、その機構の解体を望んでいることを示していた。この建言から一年、明治4年には神祇官太政官下の神祇省へと改組され、祭祀は宮中へ、宣教のみを神祇省が職掌とする体制へと移行していく。神祇省神殿鎮座の皇霊が宮中賢所遷座され、天皇が皇廟において親しく皇祖皇宗の神霊を祭祀するという天皇親祭体制が成立する。ここに、津和野派が理想とする祭政一致国家は実現され、平田派らの祭政一致国家構想は敗れ去ったのである。

 

おわりに

 以上の叙述を整理すると、平田派国学祭政一致国家構想は、明治維新を「復古」と解釈する立場から、制度構想として太政官政府を採用し、祭祀構想として国家祭祀を選択した。そして、祭祀の目的を国民教化として設定した。これに対し、津和野派国学祭政一致国家構想は、明治維新を「革命」と解釈する立場から、制度構想として天皇親政を採用し、祭祀構想として宮中祭祀を選択した。そして、祭祀の目的として、天皇による敬神崇祖の実行を設定した。

 津和野派国学祭政一致国家は、明治維新を「革命」と解釈し、天皇を中心とした新政府の集権的統治を肯定する。そして、祭祀を国家全体ではなく、宮中に限定する世俗主義的性格も持ち合わせていた。古代への回帰を理想とし、復古主義的な色彩の強い平田派国学と対照的に、津和野派国学の「近代的性格」が浮かび上がってくる。そして、こうした「近代的性格」ゆえに、津和野派国学の国家構想は、明治維新政府の推進する国家形成と軌を一にしていたのであり、ここで明治維新政府における、平田派国学と津和野派国学の運命の明暗が分かれたのである。津和野派の国学者明治維新政府の神祇政策において重用されるのに対し、平田派の国学者は、明治維新政府の神祇政策から次第に排除された。島崎藤村は、明治維新を「新しき古」の到来と表現したが、明治維新は島崎が表現したような、革命主義と復古主義の純粋な折衷ではありえなかった。そこでは、近代主義の勝利と、復古主義の敗北が、残酷に展開したのである。そして、島崎も、『夜明け前』(1932年~1935年)で、平田派国学の徒である青山半蔵の挫折と狂死というかたちで、この維新の悲劇を表現したのである。

 

参考文献
阪本是丸『明治維新国学者』(大明堂、1993年)
阪本是丸『国家神道再考――祭政一致国家の形成と展開』(弘文堂、2006年)
阪本是丸『国家神道形成過程の研究』(岩波書店、1994年)
新田均『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、1997年)
山口輝臣『明治国家と宗教』(東京大学出版会、1999年)

 

 

 

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矢野玄道

 

奉祝 建国記念の日

 本日は、建国記念の日です。全国で、建国記念の日を奉祝する式典が挙行され、晴れやかな表情でこの慶き日をお祝いする人々の姿が見られました。当会も、多くの国民と共に、肇国の大業に想いを馳せ、わが国の弥栄を祈念申し上げます。

 

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紀元祭」が行われる建国記念日橿原神宮

 

討論会報告 アジア主義の脱構築

 過日、民族文化研究会では、有志によって「アジア主義脱構築」を主題に、討論会を行った。現代におけるアジア主義の展望をめぐって、数時間にわたり議論が交わされた。そこでの議論は、これまでのアジア主義を生まれ変わらせようとする方向性を示唆しており、まさしくアジア主義の「脱構築」とでも形容すべき内容となっている。以下は、その討論会の議事録である。また、参加者であるトモサカアキノリ・湯原静雄の両者は、それぞれトモサカ・湯原と表記している。

 

湯原「では、アジア主義についての討論ということですが、おそらく、こうしたテーマを巡っては、過去のアジア主義の検討と、現在・将来におけるアジア主義の可能性と、この二点がまず考えられると思います。どちらから議論しましょうか」

トモサカ「基本的には将来を見据えていく方向性でいきましょう。過去は、そのための参照先として有用であるにすぎません。ですが、その視点であれば両者を接合させる事ができます。まず我々が、なぜアジア主義について語らなければならないかという問題がありますが、それは過去にアジア主義が、世界における帝国の生存戦略のうち、日本的秩序構築(パクスヤポニカ)を行う際にとりえた戦略の一つであったという理解に根差していると思いますが、いかがでしょうか」

湯原「アジア主義において、日本の国益の追求と、これは当時としてはパクスヤポニカという世界戦略のことであったわけですが、それとアジアの解放は、表裏一体だったと思います。また、この両面のどちらがメインだったかということについて、これまで議論が繰り返されてきたと思います。われわれは、このうち、どちらを選択するか、あるいは双方を成し遂げるのか、現代において課題となっていると思いますが、いかがお考えでしょうか」

トモサカ「捕捉しつつ理解したいと思いますが、まずアジア主義とは何であったか、その選択肢は二つあることになりますよね。前提として、日本の国益追及の手法として、世界戦略が必要とされていた。その結果、日本的秩序構築(パクスヤポニカ)と植民地解放という二面があったということですね」

湯原「そうです。そして、そのうち、どちらの側面が強かったかが、これまでアジア主義の議論の主題となってきたわけです。乱暴に整理すれば、左派はアジア主義侵略戦争の方便として、右派はアジア主義を植民地解放の理念として解釈したわけですが、こうした図式的でないアジア主義理解が、今必要とされている点は、議論として共有できると思います。そこで、アジア主義の二側面を、いかに理解していくか、というテーマが重要性をもつわけです」

トモサカ「アジア主義には二つの側面があって、左派はアジア主義侵略戦争の方便として、一方で右派はアジア主義を植民地解放の理念として解釈したということですね。その点は同意します。そして、それ以外のアジア主義というと、どういうものを想定されていますか」

湯原「アジア主義についての議論を簡単に整理するかたちで、議論を進めてきましたが、私の見解を述べさせて頂きますと、両者の類まれな一致が、アジア主義だったと捉えております。欧米と対抗するにあたって、アジアの独立の実現は、日本の国益でもあった。ここで、リアリスティックな国益の追求と、植民地解放という理念の探求が、見事に合一したのではないでしょうか。ただ、現代では、戦前期と状況が異なっているので、この両側面をいかに整合的に理解するかについては、最初から検討し直す必要性があると思います」

トモサカ「そうですね。『欧米と対抗するにあたって、アジアの独立の実現は、日本の国益でもあった。ここで、リアリスティックな国益の追求と、植民地解放という理念の探求が、見事に合一した』というのは、至言だと思います。そして、現在はかなり状況が違っているのも事実です。シナやスィンドやインドネスィアは独立したのですが、それぞれの国益は矛盾するような状況にあるということですよね」

湯原「アジアの利益を、そのまま日本の国益だと変換できなくなったわけです。ここで、アジア主義の現代における適用可能性にも疑問が出てきているわけですし、アジア主義の理念を維持したままで、日本の世界戦略を描出できるのか、という問題が発生しているわけです。この点を、いかにお考えですか」

トモサカ「それは全く仰る通りです。戦前戦中については、アジアは一つの利益共同体になりえたと思いますが、現代ではアジアという地域は一つの利益共同体として成立していません。しかしながら、現代のアジアという地域が、戦前戦中に理想とされたアジア主義の理念通りにならなかったことは、理念としてのアジア主義が誤っていたことの証左にはならないと考えています。まず、アジア主義では、対欧米の勢力確立という目的のために、アジアを『建設』するという構築主義的な意見が主流となったのであり、ある意味では、そもそも現実的でない意見を主張していたのです。現在、アジアという利益共同体は成立していないわけですが、仮にアジア主義をここで持ち出すのであれば、また、アジアの建設を再開するといったことは理論上、可能と思います。ですから、そうしたことをすべきかどうかについても、ここでは話したいと考えています」

湯原「アジアという利益共同体を、フィクションであれ構築することが、日本の国益に合致するのならば、という留保を付した上ですが、上記の議論には同意いたします」

トモサカ「もちろんです。それは大前提ですので。しかし、後で重要になると思いますので、そうでない前提がありうるのかと設問しますと、あり得ます。それは、日本以外の、アジア主義的アジアの参加者たちにとっての、防衛戦略としてです。アジア主義が実現を試みていたのは、現在の欧州連合のような国家共同体であるわけで、戦争状態にあった実際の短い試験期間の実情はどうあれ、その参加国は対等であることがうたわれています」

湯原「ですが、欧米への対抗や、植民地主義の脅威といった、アジアという利益共同体を構築するメリットが喪失されつつあるなかで、なおもアジアという利益共同体を仮構する意味は、どこにあるのでしょうか」

トモサカ「ぼくはアジア主義を無条件に肯定してはいません。ですが、我が国が今後とるべき戦略の中で、国家共同体という想定は、かなり重要になってくると考えています。それは、根本的には世界の流動における勢力確立の問題意識を基礎にしています。例えば、帝国は今後、一国で世界の資本主義勢力、もしくは脱文化勢力等に立ち向かえるでしょうか。また、ぼくは植民地主義の脅威が去ったとは理解していません。確かに冷戦終了後以降、大航海時代のように目に見えて虐殺や植民地化が行われる前提はなくなったかのように見えていますが、本当にそうでしょうか。ルスィヤを例に挙げますと、彼らはソ連時代に、本来は異民族(Ethnic groups)の土地に植民し、現在、結果的にルスィヤ人が多い地域を衛星国家として独立させながら、利害関係を共有しているわけですよね。それはシナも同様といっていいでしょう。シナは現在、充分に植民地主義的ですし、今後、世界が徐々に帝国主義的に変容する中で、新たに植民地を拡大させる可能性も、充分にあると考えています」

湯原「グローバル化や、存続し続けている植民地主義に対して、国家間の連帯を強化する必要性があるわけですね。それについては、分かりました。ですが、私がここで注意を喚起したいのは、連帯する国家を誤ってはならない、という点です。かつてのアジア主義のように、アジアという単位の自明性に寄りかからずに、アジアにおいて連帯を深めるにせよ、アジアのどの国家と連帯すべきか、慎重に吟味しなければならないでしょう。東アジア共同体論者が主張するような、日本にとって敵性国家であるシナや朝鮮半島との連帯は、国益の観点から阻止されなければならないのは言うまでもありません。また、国家間連帯ならば、アジアという広すぎる地域を、特権的に理念として標榜する必要性があるのか、という疑問も生じると思います」

トモサカ「ひとまず、グローバル化植民地主義に打ち勝つために、国家を超越した共同体が必要である点については、理解を共有できているということですね。『敵性国家』についてですが、現在の中華人民共和国や、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国が敵性国家であるという議論には同意します。したがって、我が国にとって、彼らとの連帯は、様々な場面で基本的に意味を持たないという点に同意します。そのうえで、我々はこの議論を、帝国が何と連帯しうるのかを問い直す場として再検討する必要があると思います」

湯原「それについては、完全に同意します」

トモサカ「上記の議論を引き継いで言えば、該当の地域にある体制が、我々と利益を共有でき、また、反資本主義であり、また、反植民地主義的になることができれば、我々は当然連帯することができるわけですよね」

湯原「そうですね、またそうした国家を、いかに増やしていけるか、日本の世界戦略が問われるでしょう」

トモサカ「ここまでは、完全に価値観を共有できました。繰り返しますが、『いかに増やしていけるか』。現代は帝国主義の時代です。我々は、能動的に相手国の体制を無害化し、味方につけていくという方向性を選択肢として見据えなければならない時代にあります」

湯原「では、続いて、帝国が他国と国家間連帯を推進するにせよ、アジアという単位に拘泥する必要があるのか、という論点が出てくると思います。これについて、いかにお考えでしょうか」

トモサカ「実のところ、全くないと思います。しかし、留保事項があります。そもそも目的意識としては、上記のように、反グローバルであり、反資本主義であり、反植民地主義的である等の条件のもとに、経済的な実態としての他の主体(主に国民国家)と思想的同志となり、互いに強調する連帯が必要なのです。したがって、それらの条件を満たしさえすれば、我々はすべての主体と手を組むべきだといえます。ただし、かつての三国同盟のように、地球の真裏にいくつかの勢力があるだけでは安定しません。近隣に勢力を持つ主体との連帯であることも、大変重要だといえます。まあこの点は、以前も意識されていたことでしょうが」

湯原「たしかに、地理的条件も重要ですね。そうした点も考慮した上で、連帯できる国家を増やしていくのが肝要でしょう」

トモサカ「少し話の流れを変えたいと思いますが、先の大戦では、我が国はたしかにアジア主義を掲げており、その使徒として奔走した経緯があります。ぼくはこの戦争を、時の政府が強調したように大東亜戦争と呼ぶことにやぶさかではありません。しかし、その実態を考えると、現在のアカデミズムが時折呼ぶ『アジア・太平洋戦争』といういい方は、なかなか優れた呼称だと思います。素朴な指摘ですが、太平洋はアジアには含まれないのです」

湯原「アジア主義は、その名とは裏腹に、アジアという単位に必要以上に拘泥せず、広い視野で国家間連帯を構想していたわけですね」

トモサカ「はい、その通りだと思います。大東亜戦争において、アジア主義という理念が、いかなる方向性を帯びたかというと、あくまで現地の国家なり国民なり民族という主体を重んじ、それぞれの独立と相互自助を求めていた。言うまでもないことですが、理念と実際の政策は別の次元で考えてください。実際の政策はかなり植民地主義的に、ある意味では帝国に優位な政策を行い、しばしば現地人を鑑みなかったことも事実です。話を続けましょう。戦略上重要だった事もありますが、わが軍は豪州の上陸作戦なども視野に入れていました。これが成功していたらどうなったでしょう。例えば現場合のインドネスィアのように、現地人の社会と指導体制とを擁立する形式の統治を目指していたとすれば、豪州は現在のような白人社会ではなく、アボリジナルピーポー(先住民族)も参加する社会が出来上がっていたのではないでしょうか。場合によってはハワイ王国の実現なども、考えられたでしょう。多少、話がそれたようですので修正しますと、『アジア主義』はアジアのみならず、南洋などでも行われていたのです。オセアニアにも自治という方針が多分に適用されていたのですね」

湯原「アジア主義が、国家間連帯と植民地解放という理念の行き着く先で、アジアを乗り越えていくわけですね。確かに、これら二つの理念と、アジアという単位は、直接的にはリンクしていません。ここで、アジア主義が、世界を視野に入れた、国家間連帯と植民地解放の理念として、拡張されていく可能性があったわけですね」

トモサカ「そうですね。それと、くどいようですが、アジア主義の思想的重鎮である大川周明の議論も取り上げたいと思います。ぼくは、大川を同志先輩として尊敬しています。彼は著書の中で、幾たびもイスラームの地域性についてふれているのですが、なぜ彼がイスラームを重視したのかというと、やはり、対欧米の視点で、反植民地主義的な戦略を構築するうえで、その主要な地域において、広範に信仰されているイスラーム潜在的能力を評価してのことだったのですね。イスラームは『西アジア』発祥ですから、彼は疑いなく『アジア』に着目したのですが、その概説書である『回教概論』では、もちろんアフリカ地域についても少なからず言及があります。そこで、改めてアジア主義とは何だったのかを見直しますと、これは、国家間連帯や植民地解放といった基本的戦略の上に、手段としての地域性を言及した結果、だいたい『アジア』という地域に収まったということにほかなりません」

湯原「いわば、アジア主義にとって、アジアとは目的ではなく、手段だったわけですね。その理念を実現していくうえで、足がかりとなる地域性として、アジア主義はアジアを捉えていた。他方で、岡倉天心などを見ますと、アジアを目的として捉えていたのではないか、と思われる部分がある。岡倉は、日本を東洋文化の一大流入地と理解していて、東洋文化を一身に受容した日本が、その総合と止揚を成し遂げたと絶賛するのですが、ここで岡倉の内部でナショナリズムアジア主義が合致する一方で、文化というかたちでアジアを実質的単位と把握し、これをアジア主義の究極的な目的と解釈しているわけです。アジアをどう捉えるかは、アジア主義の内部でも分裂していたのかもしれませんね」

トモサカ「それはご指摘の通りですね。岡倉のアジア主義は、かなり漢字文化圏に力点を置いていると思います。多少逸脱するかもしれませんが、ぼくは、この東アジア的な、漢字文明圏という概念はかなり有効だと考えていますが、いかがお考えでしょうか。初期のアジア主義というのは、おそらく東アジアをさして『アジア』を想像していたのではないか、と思われるふしがあります。また、これとは別に、そもそも『アジア』とはいったい何でしょうか。その点は問い直されるべきですね」

湯原「東アジアを、漢字文化圏であれ、儒教文化圏であれ、華夷秩序であれ、表面的な類似性をもって同質の文明圏と判断するのは、浅慮ではないでしょうか。例えば、シナや朝鮮半島が、封建制を経験したでしょうか、宗教改革を通過したでしょうか、合理主義が台頭したでしょうか、近代的なネーション(国民)や自由市場の観念を発生させたでしょうか、市民革命を成功させたでしょうか。結論を言うと、日本が主体的に近代を経験したのに対し、シナや朝鮮半島は、古代的専制国家のシーラカンスなのではないでしょうか。表面的な類似を追っていては気付けない、文明的内実や歴史的展開において、両者は隔絶された文化圏なのだと思っています。この点では、私は梅棹忠夫の主張する、日本とヨーロッパの並行進化という命題を支持しています」

トモサカ「その点は、ぼくも賛成しています。しかし、東アジアが成立しているかどうかは、定義によって結論が異なる議論です。まず、ぼくはどういう議論に賛成しているかですが、ぼくは歴史学でいう『文明』について、技術や経済を基礎とする、不可逆的な社会の進化がもたらす社会の在り方だと考えています。ある解釈では、『文明』は石器時代から青銅器時代への時代の変化と、表記体系の整った記号である文字が生まれたことにより、成立するのですね。シナ文明については、黄河文明長江文明遼河文明が成立したのち、おそらく黄河文明が主体となって残りを統合することに開始します。そしてご指摘の通り、主に近世において、シナ文明と近隣の主体(独立した『文明』と言いうるかどうかは、疑問があります)は、日本文明に比較して、生産様式や社会発展段階が劣っていた。では、別の意見ではどうか。例えば、ここで東アジアを文明ではなく文化として問い直してみましょう。ご指摘の通り、漢字文化や儒教文化や華夷秩序といった固有な文化は、現在でも我が国、ないし民族(Ethnic groups)に強く影響を与えています。その意味で、我が国・民族は東アジア文化圏、つまりシナ文化圏でもあるといっていいでしょう。さすがに逸脱しますので、この議論においてぼくの結論を述べます。シナ文化圏のなかの日本という状況がこれまでの経緯であるとして、今後の我が国はどうするべきか、ということについてです。じつは、ぼくは日本が文化的に自立すべきであるという意見です。極端なことを言うと、シナ文化圏から自立するために、漢語と漢字を排斥し、文化を純化するべきだと考えています。異論はあるかもしれませんが、近世に始まる思想的独立を、我々後世の者が完成させなければならないという使命感があります。また、それは民族(Ethnic groups)としての日本のみならず、民族という単位として並立しうる全ての主体において行われなければならないと考えています」

湯原「よく分かりました。続いて、アジアとは何かという問いについてですが、アジアとは、ヨーロッパの視線の中で、彼らより東方にある土地、そして住んでいる人々として、まずは定式化されたのだと思います。エドワード・サイードの表現を借用すると、オリエンタリズムですね。もっとも、これはアジアに限った話ではなく、どのような存在も、他者との対比のなかで、自我を形成していくのです」

トモサカ「そうですね。アジアとは、その始原においてアナトリア、今のトルコのことであり、その概念を継承した西ローマ帝国が世界を飲み込んだ結果、我々も上からアジアなる網をかぶせられたに過ぎないことは、肝に銘じておかなければならないでしょう」

 

【コラム】欧州右翼における「ヨーロッパ主義」――欧州右翼のヨーロッパ像とEU危機

 欧州は、解体の危機に晒されている。ヨーロッパ連合の制度疲労は明白であり、それに難民流入問題が拍車をかけ、欧州の連帯は危殆に陥りつつある。こうした危機的状況を象徴しているのが、昨年のイギリスのヨーロッパ連合からの離脱だった。このニュースは、世界を駆け巡り、欧州の危機を世界に印象付けた。今年は、フランス大統領選をめぐって、こうしたヨーロッパの危機が、再燃しそうな模様である。有力候補であるマリーヌ・ルペンが、反ヨーロッパ連合の姿勢を鮮明にしているためだ。これ以上、ヨーロッパ連合から大国が離脱する事態があれば、欧州の連帯の危機は終局的なものと化すだろう。

 そして、こうした欧州の解体の危機は、右翼の影響下で進展している、と頻繁に説明されている。さきほど言及したフランス大統領選の有力候補である、マリーヌ・ルペンが所属している、国民戦線がしばしば典型的事例として紹介される。また、イギリスのヨーロッパ連合離脱の引き金となったイギリス独立党や、ドイツで注目されつつある「ドイツのための選択肢」も、同様である。ナショナリズムに立脚する、こうした欧州右翼は、国家利益を保護するため、反ヨーロッパ連合の姿勢を鮮明にしており、こうした欧州右翼によって欧州の解体の危機が生じている、というわけだ。確かに、エマニュエル・トッドが、『問題は英国ではない、EUなのだ――21世紀の新・国家論』(文藝春秋、2016年)で指摘している通り、ヨーロッパの趨勢は「統合からネーションへ」と回帰しつつある。だが、欧州右翼の系譜を振り返ると、ヨーロッパの統合に積極的な意義を見出す、「ヨーロッパ主義」とでも形容すべき潮流も存在する。ここでは、こうした系譜に光を当て、欧州右翼における「ヨーロッパ理念」の多元性について言及したい。

 欧州の統合に積極的な意義を見出す、こうしたヨーロッパ主義の潮流としては、汎ヨーロッパ連合を提唱した、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが、まず想起される。だが、カレルギーの運動とは無関係に、ヨーロッパ主義の主張が、同時代の欧州右翼から提示された。こうした主張を展開したのは、フランスにおけるコラボラトゥール(対独協力者)として知られている、小説家のドリュ・ラ・ロシェルだった。ドリュ・ラ・ロシェルらコラボラトゥールの文学と行動は、福田和也『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』(筑摩書房、2002年)に詳述されているが、ドリュ・ラ・ロシェルアメリカとソ連が将来的に覇権を掌握し、ヨーロッパがこのままでは没落すると察知していた。そして、こうしたアメリカとソ連の脅威にヨーロッパが対抗するには、ファシズムによって統合するほかない、との主張を展開した。

 

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ドリュ・ラ・ロシェル

 ドリュ・ラ・ロシェルナチス・ドイツへの協力は、こうした展望から導き出された帰結だった。ドリュ・ラ・ロシェルは、アメリカとソ連は、イデオロギー的に反目しているように映るが、双方とも卑俗な物質主義への信奉という点で、同一の傾向をもつと捉えた。物質主義のアメリカとソ連に、精神主義のヨーロッパが対抗しなければならない、との理解を提示した。ドリュ・ラ・ロシェルの文学は、こうした危機感を背景としていた。フランスとドイツが、ファシズムの理想の下で連携し、物質主義のアメリカとソ連に対抗しうる、精神主義の気高い統合ヨーロッパを実現する――こうした理念にしたがって、ドリュ・ラ・ロシェルの文学と行動はなされたのである。

 こうしたドリュ・ラ・ロシェルのヨーロッパ主義は、アメリカとソ連の台頭への危機感から、ヨーロッパをファシズムによって統合し対抗させる、という試みとして理解できる。そして、こうしたヨーロッパ主義を、ドリュ・ラ・ロシェルは情緒的な文学という営為によって表現した。他方で、これをリアリスティックな政治という営為によって表現したのが、カール・シュミットである。シュミットは、自身のヨーロッパ主義を、「グロスラウム」という概念で表現した。「グロスラウム」とは、後期のシュミットを代表する概念である。これは、シュミットが憲法学から国際法学に研究の軸足を移した1940年代から大々的に展開された。シュミットは、国際法秩序を理解するうえで、複数の国家から成立する広域圏(グロスラウム)において、歴史的に生成された国際法秩序を重視する必要がある、と訴えた。そして、ヨーロッパを、こうした国際法秩序を共有し、歴史的に生成してきた、「グロスラウム」として評価する。

 

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カール・シュミット

 

 「グロスラウム」は、主権国家を超えたグローバルな空間だが、それは同一の秩序を共有する法共同体であることを要求され、全地球的な広がりはもたない、地域性を保った概念となる。こうした複数の国家から構成され、同一の秩序を共有する、巨大だが限定された「地域」として、「グロスラウム」は定義される。そして、こうした「グロスラウム」の典型を、シュミットはヨーロッパに発見する。そして、シュミットは、国際法秩序を理解するうえで、こうした特定の地域における秩序を重視する「グロスラウム」を基調とした解釈と、全地球規模の秩序を対象とする普遍主義的な解釈が、対抗関係にあると主張する。そして、そこには、ヨーロッパの脅威である、アメリカとソ連への、シュミットの敵意が伏在していた。歴史と伝統(シュミットのタームを用いれば、具体的秩序)をもつヨーロッパと、実験国家として成立したアメリカとソ連の対抗が、特殊と普遍の衝突として表現されているわけだ。シュミットは、「グロスラウム」であるヨーロッパが、普遍主義のアメリカやソ連の脅威に晒されている、と解釈した。この図式は、戦後のシュミットにおいても、一貫して維持されている。

 こうしたシュミットのヨーロッパ主義は、大竹弘二が『正戦と内戦――カール・シュミットの国際秩序思想』(以文社、2009年)で言及しているように、戦後の欧州右翼の思潮にも影響を及ぼした。その代表例が、フランス新右翼の思想的主柱である、アラン・ド・ブノワや、イタリア新右翼のイデオローグである、ミリオだった。アラン・ド・ブノワは、アイデンティティの依拠すべき単位は、主権国家の枠内に留まらず、最終的にはヨーロッパへと包摂される、と主張した。そして、米ソ両国に対抗する目的で、「中央ヨーロッパ」といった伝統的なヨーロッパ理念を再発見する。また、ミリオは、イタリア北部の自治拡大を求める極右政党「北部同盟」のイデオローグとなり、イタリアという主権国家から手を切った。ここで、ミリオは、イタリア北部のアイデンティティを、イタリアという主権国家の一部である点ではなく、ヨーロッパの一員である点に求めた。ヨーロッパという主権国家を超えた地域への注目や、米ソ両国への対抗という点において、こうした欧州の新右翼のヨーロッパ主義は、戦前のドリュ・ラ・ロシェルカール・シュミットの図式を継承している。

 このように、欧州右翼には、ヨーロッパの統合に積極的な意義を見出す、「ヨーロッパ主義」とでも形容すべき潮流がある。欧州右翼には、しばしば指摘される国粋主義的な側面と、こうしたヨーロッパ主義的な側面が、複雑に交錯しているわけだ。こうした欧州右翼の構図と同じく、現代の欧州も、ナショナリズムと国際的統合の狭間で、模索を続けている。こうした欧州の情勢を分析するには、ここで取り上げたような、欧州右翼のヨーロッパ像の検討が不可欠なのである。

 

謹賀新年

 旧年中は、当会の活動をご支援いただき、誠にありがとうございました。振り返るに、イギリスのEU離脱アメリカ大統領選の模様など、昨年は波乱に満ちた一年でした。この激動は、グローバル化の矛盾が噴出し、ナショナリティへの回帰が顕在化しつつある、と解釈できます。こうした状況において、当会の伝統的な民族文化・民族生活の再検討という問題意識は、非常に重要性をもつと思われます。今年も、こうした問題意識に基づき、当会は活動を展開していきます。これまで以上のご支援を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。

 

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【書評】川久保剛・星山京子・石川公彌子『方法としての国学』(北樹出版、平成28年)

 

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 本書は、いかにグローバル化の潮流と対峙し、ナショナリティを再確認するか、という伝統的な、しかし喫緊の課題を解決する糸口を、国学の系譜に求めた気鋭の日本思想史研究者たちの論考集である。こう説明すると、国学のイメージから想起される、きわめて常識的な問題設定をもとにしていると思われるかもしれない。だが、この論考集を、きわめて特異な作品に仕上げているのは、扱っている「国学の系譜」の型破りさ、である。

 第一部「江戸のグローバル化国学」において平田篤胤を扱っているのは妥当に思われるが、主題となっているのは篤胤の対ロシア認識や自然科学との関連である。文献研究を基調とした日本学という「国学」のイメージを、国籍と学問領域の双方から越境しているのだ。そして、第二部「近代国学の諸相」では、柳田國男保田與重郎折口信夫が検討対象となる。また、第三部「戦後『国学』精神の一系譜」では、今西錦司梅棹忠夫梅原猛たち新京都学派と、小林秀雄福田恆存江藤淳たち保守思想家が俎上に載せられる。近世期に展開された「国学」のイメージを、時間軸から越境しているのだ。すなわち、帯における苅部直の推薦の辞が記しているように、本書は「『江戸時代』にも『19世紀』にも、それどころか『日本』にも封じ込めることのできない、国学思想の意味と広がりを明らかにしている」わけである。

 こうした国学の多面性への着眼において、本書は類書とは異なった型破りな作品に仕上がっている。ここから、その国学の多面性を、本書の構成にしたがって見ていく。まず、第一部「江戸のグローバル化国学」では、平田篤胤の対ロシア認識を取り上げて、国学がもつグローバル性が提示される。ラクスマンやレザノフの日本来訪と開国要求によって、当時の日本ではロシア脅威論が高まりつつあった。平田のロシア研究は、こうしたロシア脅威論を受けたものだったが、そのロシア認識はきわめて学問的で客観的だった。こうした対ロシア認識の背景には、国学は外国の知見を包含する学でなければならない、という平田の国学観のグローバル性があった。そして、続いて、傑出した望遠鏡の作成に成功し、人類ではじめて太陽黒点の観測を行い、航空機の製作構想を幕府に上申したことでも知られる、近江の科学者の国友藤兵衛と篤胤の交流が取り上げられ、国学がもつ学際性が提示される。篤胤の私塾である気吹舎では、文理の境界を越え、様々な知的関心をもつ人々が集まっていた。篤胤自身も、蘭学の素養があり、自然科学の知識をもっていた。藤兵衛と篤胤の交流の背景には、こうした平田の国学観の学際性があったわけである。

 第二部「近代国学の諸相」では、柳田國男保田與重郎折口信夫を、国学の近代における継承者として解釈する。そして、こうした人々の「近代国学」が同時代の潮流に対して行った異議申し立てが着眼される。こうした視座は、第二部の執筆担当者である石川公彌子の『〈弱さ〉と〈抵抗〉の「近代国学」』(講談社、2009年)と共通しており、非常に興味深い。だが、この視座については、いくつかの疑義を提示することができるだろう。第一に、国学の文献学的方法論を継受した、皇典講究所國學院の文献学者の潮流を無視するのは、適切なのだろうか。石川は、国学の基調をなす「弱い」主体を継承していないため、こうした潮流は「近代的国体論」の所産に過ぎないと主張している。だが、文献学的方法論の継受や学際的日本学の志向といった、国学の重要な構成要素を、皇典講究所國學院の文献学者の潮流はもっている。こうした潮流を一方的に切り捨て、柳田・保田・折口を「近代国学」の系譜に据えるだけの論拠を、石川は提示しているのだろうか。「弱い」主体は、国学の核心であると定義できるのか、はなはだ疑問である。藤田大誠は、『近代国学の研究』(弘文堂、2007年)において、石川が「近代的国体論」と切り捨てた皇典講究所國學院の文献学者の潮流こそ「近代国学」であると定義したが、こちらの見解の方が説得的である。

 第二に、柳田・保田・折口の同時代への「抵抗」の側面を過度に強調するのは、妥当なのだろうか。同時代の国学から影響を受けた思潮を、体制側の「国家神道」と反体制側の柳田・保田・折口に二分し、後者による前者への「抵抗」を描出するのは、たしかに分かりやすい。だが、あまりに図式的であって、場合によっては石川の私的な政治イデオロギーの表出ではないか、という懐疑すら抱かせかねない。柳田・保田・折口の思惟を、「体制側」の言説から区別することで、その「救出」を石川は意図しているのかもしれない。だが、「体制」と「抵抗」という図式そのものが誤りなら、こうした企ては思想史の歪曲以外の何者でもあるまい。第二部は、興味深い視座を提示しつつ、こうした問題を抱えていた。

 第三部「戦後『国学』精神の一系譜」は、今西錦司梅棹忠夫梅原猛たち新京都学派と、小林秀雄福田恆存江藤淳たち保守思想家が、いかに国学の精神を継受したか、を主題としている。ここで課題となるのが、戦後日本への欧米の圧倒的な影響に、いかなる抵抗を展開するか、である。そもそも、江戸期の国学は、同時代の儒仏の圧倒的な影響に、いかなる抵抗を展開するか、を課題としていた。この論考では、こうした江戸期と戦後日本の時代状況の相似を念頭に置き、それぞれの「国学」のあり方を検討している。適者生存を基調とした西欧の進化論に、日本的な棲み分けを基調とした進化論を対置した今西錦司や、西欧崇拝を拒絶して土着的な知を求め、西欧と日本の並行進化という卓越した比較文明論を樹立した梅棹忠夫や、国学から影響を受けつつ、より広い視座から日本人の精神文化の検討を志向した梅原猛は、日本的なるものを基軸として思考を展開する、という共通項がある。西欧崇拝の風潮のさなかで、こうした日本的なるものを基軸とした学問を展開した新京都学派は、戦後「国学」精神の一典型だった。そして、西欧的な合理主義の瑕疵を見抜き、晩年に『本居宣長』を執筆し日本への回帰を企図した小林秀雄や、演劇や批評と並行して、国語問題や安保問題といった現実政治への発言を行った福田恆存や、GHQの検閲政策を糾弾し、戦後日本の言語空間の根源的問題と対峙した江藤淳は、戦後日本への欧米の圧倒的な影響に、いかなる抵抗を展開するか、という課題に応答を試みた、という共通項がある。こうした保守思想家は、新京都学派と並んで、戦後「国学」精神の一典型だった。このように、新京都学派と、保守思想家こそ、戦後日本において「国学」精神を体現したのである。

 このように、本書では「国学」を、その国籍・学問領域・時代を越え、多面的に理解しようと試みているわけである。こうした拡大された視座から「国学」を眺望する試みは、「国学」のもつ意味をさらに深く掘り下げるとともに、日本思想史そのものへの理解をさらに進展させることになるだろう。そして、こうした試みは、いかにグローバル化の潮流と対峙し、ナショナリティを再確認するか、という伝統的な、しかし喫緊の課題に向き合うわれわれに、きわめて有益な知見を提供するだろう。

定例研究会報告 東京裁判の比較文明論――東京裁判開廷70年を迎えて

はじめに

 今年は、1946年に東京裁判極東国際軍事裁判)が開廷してから、70年の節目に当たる。東京裁判が開廷してから50年の節目だった1996年にも、「東京裁判とは何だったのか」と題して、歴史家を中心とした大規模なシンポジウムが挙行されたが――五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)にまとめられている――、今年も東京裁判を再考する試みが陸続した。国士舘大学法学部比較法制研究所が数年前から取り組んでいる、東京裁判の速記録を翻訳し体系的に整序した『極東国際軍事裁判審理要録』(原書房)は、今年に入ってようやく4巻目まで公刊されるにいたった――国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)――。また、日本国体学会によって、東京裁判開廷70年を期して、「東京裁判を問い直す」と題して、シンポジウムが挙行された。20年前の東京裁判開廷50年の節目よりも、戦後の思想的な拘束状況が緩和されたためか、今年の東京裁判開廷70年の節目に見られた動きの方が、積極的に東京裁判を再考しようとする姿勢に満ちている。

 本稿でも、こうした東京裁判開廷70年の節目にあって、東京裁判を問い直すため、問題提起を行いたい。具体的には、既存の東京裁判の分析では欠落しがちであった、東京裁判の比較文明論的な考察を、ひとつの視座として提示する。東京裁判の首席検察官だったジョゼフ・キーナンは、東京裁判の冒頭陳述で、日本を「文明に対し宣戦布告した」と断罪し、この裁判を「文明の断乎たる戦い」と表現した。すなわち、「文明」である連合国が、「野蛮」である日本を裁く、という枠組が東京裁判の基礎にあると宣言したのである。ここで、執拗に登場するのが、ほかならない「文明」という概念である。連合国は、「文明」と「野蛮」という図式のもとで、この裁判を遂行した。そして、この裁判では、西欧諸国を中心とする原告と、日本人の被告が対峙し、そこで東西文明の衝突が発生した。東京裁判を問い直すため、もっとも着目しなければならない概念のひとつこそ、この「文明」の概念なのだ。

 だが、既存の東京裁判研究は、この東京裁判における「文明」の概念の分析を怠ってきた。国際法学者の大沼保昭は、『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)に所収された「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」で、東京裁判における「文明」の概念の欺瞞を指摘した。また、法哲学者の長尾龍一も、『中央公論』1975年8月号に掲載された「文明は裁いたのか裁かれたのか」で、東京裁判で謳われた「文明」の裁きとは、西欧諸国による植民地喪失への復讐に過ぎないと断言している。だが、キーナンによって高らかに謳われた「文明」による裁きの欺瞞を糾弾するだけでは、東京裁判で発生した東西文明の衝突について、充分に明らかにすることはできない。ここで必要なのは、東京裁判で発生した東西文明の衝突を、比較文明論的な視座で明らかにするアプローチである。こうしたアプローチを試みてきた東京裁判研究者こそ、『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)や『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)において、東京裁判の比較文明論的な考察を行ってきた牛村圭だった。ここでは、以上の牛村の業績に依拠しつつ、東京裁判の比較文明論的な考察を試みる。

 

一 丸山真男東京裁判論――「無責任の体系」という名の虚像

 牛村は、東京裁判における「文明」の概念を分析するにあたって、まずは同時期に開廷され、連合国による枢軸国への裁きという図式を共有していた、ニュルンベルク裁判に着目した。具体的には、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとする試みである。ここで、検討対象となるのが、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとした、丸山真男「軍国支配者の精神形態」(1949年)である。丸山は、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、後者が主体的に戦争犯罪を遂行し、積極的にその責任を認める傾向があるのに対し、前者は受動的に戦争犯罪に巻き込まれ、その責任を認めるのに消極的であると指摘した。ここで、日本戦犯の特質は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」に原因があるとされ、日本戦犯は時代の潮流になすがままに屈服し、それゆえその責任から逃避しようとする「無責任の体系」を示していると糾弾される。

 この丸山の東京裁判批評は一世を風靡したが、牛村は丸山の分析には重大な錯誤があると指摘した。まず、「軍国支配者の精神形態」は、東京裁判における日本戦犯の供述と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述を比較しているが、この比較の過程で資料の操作が行われたとする。東京裁判における日本戦犯の供述は、ほぼ全て参照されているのに対し、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述は、ヘルマン・ゲーリングを中心とした一部の戦犯の供述しか参照されていない。たしかに、ゲーリングはナチの戦争犯罪を積極的に認め、この責任を負うと公言したが、その他のナチ戦犯の供述には、丸山の表現を借用すると、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」が散見された。丸山は、一見すると潔く映るゲーリングら一部の戦犯の供述だけを、意図的に選択していたのである。そして、牛村は、日本戦犯の供述も、丸山が主張するように「既成事実への屈服」や「権限への逃避」によって説明しえるわけではない、と解釈した。日本戦犯には、「法的責任」と「道義的責任」を峻別する論理が見られ、前者を法廷で争いつつ、後者を積極的に認めた。丸山は、こうした日本戦犯の態度を無視し、「道義的責任」を積極的に認める日本戦犯の供述を切り捨て、「法的責任」を法廷で争う日本戦犯の供述を誇張することで、「無責任の体系」を示す日本戦犯という虚像を構築したのである。牛村は、こうした丸山による、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の対抗図式を否定し、両者の実質的な差異は無かった、と結論付けた。キーナンによって「文明」と「野蛮」として、丸山真男によって「ニヒリストの明快さ」と「無責任の体系」として、それぞれ峻別された東西文明の差異は、実際には存在しなかったのである。では、両者に共通し、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのか。

 

二 竹山道雄東京裁判論――「近代文明」という名の被告

 牛村は、丸山の東京裁判批評の錯誤を指摘し、東西文明の差異を越えて、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのかを明らかにしなければならない、と指摘した。ここで、注目されるのが、竹山道雄東京裁判批判である。竹山道雄は、「ハイド氏の裁き」(1946年)において、卓抜した東京裁判を展開した。「ハイド氏の裁き」は、筆者が東京裁判を傍聴する場面から始まる。今回の裁判では、どうやら新しい被告が裁かれるらしく、筆者は隣の傍聴者に被告の素性を尋ねた。「あのあたらしい被告の名は何といいますか?」という筆者の問いに、隣の傍聴者は「近代文明といいます」と答える。こうした、「近代文明」を被告とした、東京裁判のパロディを通して、竹山は何を読者に伝えようとしたのだろうか。

 竹山は、近代文明の二面性を、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説である『ジキル博士とハイド氏』に登場するジキルとハイドに仮託した。そして、こうした近代文明の悪しき側面(ハイド)こそ、帝国主義であると定義する。ここから、日本による一連の対外進出と大東亜戦争への帰結は、近代文明の悪しき側面(ハイド)の表出であるという結論が導かれた。そして、こうした近代文明は、裁かれる日本と、裁く西欧の双方に共通しているわけである。すなわち、竹山は、「文明」である自らが、「野蛮」である日本を裁く、という図式で東京裁判を遂行する連合国に対し、お前たちも近代文明の悪しき側面(ハイド)という罪を抱えており、日本と同じく「被告」なのだ、という厳然たる事実を突きつけるのだ。ここで、東京裁判が裁く対象とした、「文明」という概念の実像は、はっきりと明らかになる。帝国主義の根源であり、総力戦への駆動力だった、「近代文明」の悪しき側面(ハイド)こそ、本来は東京裁判において裁かれるべき「被告」だった。「ハイド氏の裁き」は、無分別に「文明」の名を振りかざす東京裁判への痛烈な風刺であるとともに、東京裁判のあるべき姿を明らかにする試みでもあったのである。 また、こうした「近代文明」を、東京裁判において裁くべき対象とする東京裁判批判は、丸山真男ファシズム論への反駁の意味も込められていた。丸山は、封建制の残滓こそ、ファシズムをもたらし、日本を大東亜戦争へと帰結させたと結論付ける。そして、連合国と同じく、東京裁判を「文明」と「野蛮」の図式によって解釈しようとする。竹山は、これに対して、連合国と枢軸国に共通した「文明」の罪こそ、東京裁判では問われるべきだ、と丸山に反駁した。そして、こうした竹山の「近代文明」に戦争犯罪の根源を見出し、日本を野蛮な絶対悪として裁こうとする態度を否定する姿勢は、数奇な偶然から交友があった東京裁判のオランダ人判事であるベルナルド・レーリングに影響を与え、レーリングによる判決にあたっての個別意見書の提出に繋がる。インド人判事であるラダ・ビノート・パールの著名な個別意見書と比較すると、レーリングの個別意見書は歴史に埋没してきたが、共同謀議の適用への疑問や、広田弘毅元首相ら5名を無罪と表明するなど、キーナンが高らかに謳い上げた「文明」による「野蛮」への裁きという東京裁判の図式から自由な見地から執筆されており、竹山からの影響もあって、きわめて高い歴史的意義をもっている。

 

おわりに

 牛村は、丸山真男「軍国支配者の精神形態」を分析し、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯には、差異が無いと指摘した。ここで、東西に共通する「文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると議論は展開する。そして、竹山道雄「ハイド氏の裁き」を参照し、東西文明が共通して抱える「近代文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると判明した。この視点には、植民地支配を受けた東洋の立場から、被告全員を無罪とする個別意見書を執筆したパールや、文明を自負する西洋の立場から、野蛮と侮蔑する日本を裁いた連合国の検事・判事が、もちえなかった認識が含まれている。東西を越えて「近代文明」が不可避的に負っている宿命(竹山の表現を借用すると、「ハイド氏」の側面)こそ、日本を大東亜戦争へと追いやったのであり、この宿命によって日本は裁かれたのである。そして、こうした認識は、東西文明を俯瞰する牛村の比較文明論的なアプローチによってこそ、可能となったのだ。

 

参考文献
竹山道雄「ハイド氏の裁き」『樅の子と薔薇』(新潮社、1951年)
丸山真男「軍国支配者の精神形態」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)
長尾龍一「文明は裁いたのか裁かれたのか」『中央公論』1975年8月号
大沼保昭「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)
ベルナルド・レーリング(小菅信子訳・粟屋憲太郎解説)『レーリング判事の東京裁判』(新曜社、1996年)
五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)
牛村圭『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)
牛村圭『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)
国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)

 

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竹山道雄