奉祝 建国記念の日

 本日は、建国記念の日です。全国で、建国記念の日を奉祝する式典が挙行され、晴れやかな表情でこの慶き日をお祝いする人々の姿が見られました。当会も、多くの国民と共に、肇国の大業に想いを馳せ、わが国の弥栄を祈念申し上げます。

 

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紀元祭」が行われる建国記念日橿原神宮

 

討論会報告 アジア主義の脱構築

 過日、民族文化研究会では、有志によって「アジア主義脱構築」を主題に、討論会を行った。現代におけるアジア主義の展望をめぐって、数時間にわたり議論が交わされた。そこでの議論は、これまでのアジア主義を生まれ変わらせようとする方向性を示唆しており、まさしくアジア主義の「脱構築」とでも形容すべき内容となっている。以下は、その討論会の議事録である。また、参加者であるトモサカアキノリ・湯原静雄の両者は、それぞれトモサカ・湯原と表記している。

 

湯原「では、アジア主義についての討論ということですが、おそらく、こうしたテーマを巡っては、過去のアジア主義の検討と、現在・将来におけるアジア主義の可能性と、この二点がまず考えられると思います。どちらから議論しましょうか」

トモサカ「基本的には将来を見据えていく方向性でいきましょう。過去は、そのための参照先として有用であるにすぎません。ですが、その視点であれば両者を接合させる事ができます。まず我々が、なぜアジア主義について語らなければならないかという問題がありますが、それは過去にアジア主義が、世界における帝国の生存戦略のうち、日本的秩序構築(パクスヤポニカ)を行う際にとりえた戦略の一つであったという理解に根差していると思いますが、いかがでしょうか」

湯原「アジア主義において、日本の国益の追求と、これは当時としてはパクスヤポニカという世界戦略のことであったわけですが、それとアジアの解放は、表裏一体だったと思います。また、この両面のどちらがメインだったかということについて、これまで議論が繰り返されてきたと思います。われわれは、このうち、どちらを選択するか、あるいは双方を成し遂げるのか、現代において課題となっていると思いますが、いかがお考えでしょうか」

トモサカ「捕捉しつつ理解したいと思いますが、まずアジア主義とは何であったか、その選択肢は二つあることになりますよね。前提として、日本の国益追及の手法として、世界戦略が必要とされていた。その結果、日本的秩序構築(パクスヤポニカ)と植民地解放という二面があったということですね」

湯原「そうです。そして、そのうち、どちらの側面が強かったかが、これまでアジア主義の議論の主題となってきたわけです。乱暴に整理すれば、左派はアジア主義侵略戦争の方便として、右派はアジア主義を植民地解放の理念として解釈したわけですが、こうした図式的でないアジア主義理解が、今必要とされている点は、議論として共有できると思います。そこで、アジア主義の二側面を、いかに理解していくか、というテーマが重要性をもつわけです」

トモサカ「アジア主義には二つの側面があって、左派はアジア主義侵略戦争の方便として、一方で右派はアジア主義を植民地解放の理念として解釈したということですね。その点は同意します。そして、それ以外のアジア主義というと、どういうものを想定されていますか」

湯原「アジア主義についての議論を簡単に整理するかたちで、議論を進めてきましたが、私の見解を述べさせて頂きますと、両者の類まれな一致が、アジア主義だったと捉えております。欧米と対抗するにあたって、アジアの独立の実現は、日本の国益でもあった。ここで、リアリスティックな国益の追求と、植民地解放という理念の探求が、見事に合一したのではないでしょうか。ただ、現代では、戦前期と状況が異なっているので、この両側面をいかに整合的に理解するかについては、最初から検討し直す必要性があると思います」

トモサカ「そうですね。『欧米と対抗するにあたって、アジアの独立の実現は、日本の国益でもあった。ここで、リアリスティックな国益の追求と、植民地解放という理念の探求が、見事に合一した』というのは、至言だと思います。そして、現在はかなり状況が違っているのも事実です。シナやスィンドやインドネスィアは独立したのですが、それぞれの国益は矛盾するような状況にあるということですよね」

湯原「アジアの利益を、そのまま日本の国益だと変換できなくなったわけです。ここで、アジア主義の現代における適用可能性にも疑問が出てきているわけですし、アジア主義の理念を維持したままで、日本の世界戦略を描出できるのか、という問題が発生しているわけです。この点を、いかにお考えですか」

トモサカ「それは全く仰る通りです。戦前戦中については、アジアは一つの利益共同体になりえたと思いますが、現代ではアジアという地域は一つの利益共同体として成立していません。しかしながら、現代のアジアという地域が、戦前戦中に理想とされたアジア主義の理念通りにならなかったことは、理念としてのアジア主義が誤っていたことの証左にはならないと考えています。まず、アジア主義では、対欧米の勢力確立という目的のために、アジアを『建設』するという構築主義的な意見が主流となったのであり、ある意味では、そもそも現実的でない意見を主張していたのです。現在、アジアという利益共同体は成立していないわけですが、仮にアジア主義をここで持ち出すのであれば、また、アジアの建設を再開するといったことは理論上、可能と思います。ですから、そうしたことをすべきかどうかについても、ここでは話したいと考えています」

湯原「アジアという利益共同体を、フィクションであれ構築することが、日本の国益に合致するのならば、という留保を付した上ですが、上記の議論には同意いたします」

トモサカ「もちろんです。それは大前提ですので。しかし、後で重要になると思いますので、そうでない前提がありうるのかと設問しますと、あり得ます。それは、日本以外の、アジア主義的アジアの参加者たちにとっての、防衛戦略としてです。アジア主義が実現を試みていたのは、現在の欧州連合のような国家共同体であるわけで、戦争状態にあった実際の短い試験期間の実情はどうあれ、その参加国は対等であることがうたわれています」

湯原「ですが、欧米への対抗や、植民地主義の脅威といった、アジアという利益共同体を構築するメリットが喪失されつつあるなかで、なおもアジアという利益共同体を仮構する意味は、どこにあるのでしょうか」

トモサカ「ぼくはアジア主義を無条件に肯定してはいません。ですが、我が国が今後とるべき戦略の中で、国家共同体という想定は、かなり重要になってくると考えています。それは、根本的には世界の流動における勢力確立の問題意識を基礎にしています。例えば、帝国は今後、一国で世界の資本主義勢力、もしくは脱文化勢力等に立ち向かえるでしょうか。また、ぼくは植民地主義の脅威が去ったとは理解していません。確かに冷戦終了後以降、大航海時代のように目に見えて虐殺や植民地化が行われる前提はなくなったかのように見えていますが、本当にそうでしょうか。ルスィヤを例に挙げますと、彼らはソ連時代に、本来は異民族(Ethnic groups)の土地に植民し、現在、結果的にルスィヤ人が多い地域を衛星国家として独立させながら、利害関係を共有しているわけですよね。それはシナも同様といっていいでしょう。シナは現在、充分に植民地主義的ですし、今後、世界が徐々に帝国主義的に変容する中で、新たに植民地を拡大させる可能性も、充分にあると考えています」

湯原「グローバル化や、存続し続けている植民地主義に対して、国家間の連帯を強化する必要性があるわけですね。それについては、分かりました。ですが、私がここで注意を喚起したいのは、連帯する国家を誤ってはならない、という点です。かつてのアジア主義のように、アジアという単位の自明性に寄りかからずに、アジアにおいて連帯を深めるにせよ、アジアのどの国家と連帯すべきか、慎重に吟味しなければならないでしょう。東アジア共同体論者が主張するような、日本にとって敵性国家であるシナや朝鮮半島との連帯は、国益の観点から阻止されなければならないのは言うまでもありません。また、国家間連帯ならば、アジアという広すぎる地域を、特権的に理念として標榜する必要性があるのか、という疑問も生じると思います」

トモサカ「ひとまず、グローバル化植民地主義に打ち勝つために、国家を超越した共同体が必要である点については、理解を共有できているということですね。『敵性国家』についてですが、現在の中華人民共和国や、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国が敵性国家であるという議論には同意します。したがって、我が国にとって、彼らとの連帯は、様々な場面で基本的に意味を持たないという点に同意します。そのうえで、我々はこの議論を、帝国が何と連帯しうるのかを問い直す場として再検討する必要があると思います」

湯原「それについては、完全に同意します」

トモサカ「上記の議論を引き継いで言えば、該当の地域にある体制が、我々と利益を共有でき、また、反資本主義であり、また、反植民地主義的になることができれば、我々は当然連帯することができるわけですよね」

湯原「そうですね、またそうした国家を、いかに増やしていけるか、日本の世界戦略が問われるでしょう」

トモサカ「ここまでは、完全に価値観を共有できました。繰り返しますが、『いかに増やしていけるか』。現代は帝国主義の時代です。我々は、能動的に相手国の体制を無害化し、味方につけていくという方向性を選択肢として見据えなければならない時代にあります」

湯原「では、続いて、帝国が他国と国家間連帯を推進するにせよ、アジアという単位に拘泥する必要があるのか、という論点が出てくると思います。これについて、いかにお考えでしょうか」

トモサカ「実のところ、全くないと思います。しかし、留保事項があります。そもそも目的意識としては、上記のように、反グローバルであり、反資本主義であり、反植民地主義的である等の条件のもとに、経済的な実態としての他の主体(主に国民国家)と思想的同志となり、互いに強調する連帯が必要なのです。したがって、それらの条件を満たしさえすれば、我々はすべての主体と手を組むべきだといえます。ただし、かつての三国同盟のように、地球の真裏にいくつかの勢力があるだけでは安定しません。近隣に勢力を持つ主体との連帯であることも、大変重要だといえます。まあこの点は、以前も意識されていたことでしょうが」

湯原「たしかに、地理的条件も重要ですね。そうした点も考慮した上で、連帯できる国家を増やしていくのが肝要でしょう」

トモサカ「少し話の流れを変えたいと思いますが、先の大戦では、我が国はたしかにアジア主義を掲げており、その使徒として奔走した経緯があります。ぼくはこの戦争を、時の政府が強調したように大東亜戦争と呼ぶことにやぶさかではありません。しかし、その実態を考えると、現在のアカデミズムが時折呼ぶ『アジア・太平洋戦争』といういい方は、なかなか優れた呼称だと思います。素朴な指摘ですが、太平洋はアジアには含まれないのです」

湯原「アジア主義は、その名とは裏腹に、アジアという単位に必要以上に拘泥せず、広い視野で国家間連帯を構想していたわけですね」

トモサカ「はい、その通りだと思います。大東亜戦争において、アジア主義という理念が、いかなる方向性を帯びたかというと、あくまで現地の国家なり国民なり民族という主体を重んじ、それぞれの独立と相互自助を求めていた。言うまでもないことですが、理念と実際の政策は別の次元で考えてください。実際の政策はかなり植民地主義的に、ある意味では帝国に優位な政策を行い、しばしば現地人を鑑みなかったことも事実です。話を続けましょう。戦略上重要だった事もありますが、わが軍は豪州の上陸作戦なども視野に入れていました。これが成功していたらどうなったでしょう。例えば現場合のインドネスィアのように、現地人の社会と指導体制とを擁立する形式の統治を目指していたとすれば、豪州は現在のような白人社会ではなく、アボリジナルピーポー(先住民族)も参加する社会が出来上がっていたのではないでしょうか。場合によってはハワイ王国の実現なども、考えられたでしょう。多少、話がそれたようですので修正しますと、『アジア主義』はアジアのみならず、南洋などでも行われていたのです。オセアニアにも自治という方針が多分に適用されていたのですね」

湯原「アジア主義が、国家間連帯と植民地解放という理念の行き着く先で、アジアを乗り越えていくわけですね。確かに、これら二つの理念と、アジアという単位は、直接的にはリンクしていません。ここで、アジア主義が、世界を視野に入れた、国家間連帯と植民地解放の理念として、拡張されていく可能性があったわけですね」

トモサカ「そうですね。それと、くどいようですが、アジア主義の思想的重鎮である大川周明の議論も取り上げたいと思います。ぼくは、大川を同志先輩として尊敬しています。彼は著書の中で、幾たびもイスラームの地域性についてふれているのですが、なぜ彼がイスラームを重視したのかというと、やはり、対欧米の視点で、反植民地主義的な戦略を構築するうえで、その主要な地域において、広範に信仰されているイスラーム潜在的能力を評価してのことだったのですね。イスラームは『西アジア』発祥ですから、彼は疑いなく『アジア』に着目したのですが、その概説書である『回教概論』では、もちろんアフリカ地域についても少なからず言及があります。そこで、改めてアジア主義とは何だったのかを見直しますと、これは、国家間連帯や植民地解放といった基本的戦略の上に、手段としての地域性を言及した結果、だいたい『アジア』という地域に収まったということにほかなりません」

湯原「いわば、アジア主義にとって、アジアとは目的ではなく、手段だったわけですね。その理念を実現していくうえで、足がかりとなる地域性として、アジア主義はアジアを捉えていた。他方で、岡倉天心などを見ますと、アジアを目的として捉えていたのではないか、と思われる部分がある。岡倉は、日本を東洋文化の一大流入地と理解していて、東洋文化を一身に受容した日本が、その総合と止揚を成し遂げたと絶賛するのですが、ここで岡倉の内部でナショナリズムアジア主義が合致する一方で、文化というかたちでアジアを実質的単位と把握し、これをアジア主義の究極的な目的と解釈しているわけです。アジアをどう捉えるかは、アジア主義の内部でも分裂していたのかもしれませんね」

トモサカ「それはご指摘の通りですね。岡倉のアジア主義は、かなり漢字文化圏に力点を置いていると思います。多少逸脱するかもしれませんが、ぼくは、この東アジア的な、漢字文明圏という概念はかなり有効だと考えていますが、いかがお考えでしょうか。初期のアジア主義というのは、おそらく東アジアをさして『アジア』を想像していたのではないか、と思われるふしがあります。また、これとは別に、そもそも『アジア』とはいったい何でしょうか。その点は問い直されるべきですね」

湯原「東アジアを、漢字文化圏であれ、儒教文化圏であれ、華夷秩序であれ、表面的な類似性をもって同質の文明圏と判断するのは、浅慮ではないでしょうか。例えば、シナや朝鮮半島が、封建制を経験したでしょうか、宗教改革を通過したでしょうか、合理主義が台頭したでしょうか、近代的なネーション(国民)や自由市場の観念を発生させたでしょうか、市民革命を成功させたでしょうか。結論を言うと、日本が主体的に近代を経験したのに対し、シナや朝鮮半島は、古代的専制国家のシーラカンスなのではないでしょうか。表面的な類似を追っていては気付けない、文明的内実や歴史的展開において、両者は隔絶された文化圏なのだと思っています。この点では、私は梅棹忠夫の主張する、日本とヨーロッパの並行進化という命題を支持しています」

トモサカ「その点は、ぼくも賛成しています。しかし、東アジアが成立しているかどうかは、定義によって結論が異なる議論です。まず、ぼくはどういう議論に賛成しているかですが、ぼくは歴史学でいう『文明』について、技術や経済を基礎とする、不可逆的な社会の進化がもたらす社会の在り方だと考えています。ある解釈では、『文明』は石器時代から青銅器時代への時代の変化と、表記体系の整った記号である文字が生まれたことにより、成立するのですね。シナ文明については、黄河文明長江文明遼河文明が成立したのち、おそらく黄河文明が主体となって残りを統合することに開始します。そしてご指摘の通り、主に近世において、シナ文明と近隣の主体(独立した『文明』と言いうるかどうかは、疑問があります)は、日本文明に比較して、生産様式や社会発展段階が劣っていた。では、別の意見ではどうか。例えば、ここで東アジアを文明ではなく文化として問い直してみましょう。ご指摘の通り、漢字文化や儒教文化や華夷秩序といった固有な文化は、現在でも我が国、ないし民族(Ethnic groups)に強く影響を与えています。その意味で、我が国・民族は東アジア文化圏、つまりシナ文化圏でもあるといっていいでしょう。さすがに逸脱しますので、この議論においてぼくの結論を述べます。シナ文化圏のなかの日本という状況がこれまでの経緯であるとして、今後の我が国はどうするべきか、ということについてです。じつは、ぼくは日本が文化的に自立すべきであるという意見です。極端なことを言うと、シナ文化圏から自立するために、漢語と漢字を排斥し、文化を純化するべきだと考えています。異論はあるかもしれませんが、近世に始まる思想的独立を、我々後世の者が完成させなければならないという使命感があります。また、それは民族(Ethnic groups)としての日本のみならず、民族という単位として並立しうる全ての主体において行われなければならないと考えています」

湯原「よく分かりました。続いて、アジアとは何かという問いについてですが、アジアとは、ヨーロッパの視線の中で、彼らより東方にある土地、そして住んでいる人々として、まずは定式化されたのだと思います。エドワード・サイードの表現を借用すると、オリエンタリズムですね。もっとも、これはアジアに限った話ではなく、どのような存在も、他者との対比のなかで、自我を形成していくのです」

トモサカ「そうですね。アジアとは、その始原においてアナトリア、今のトルコのことであり、その概念を継承した西ローマ帝国が世界を飲み込んだ結果、我々も上からアジアなる網をかぶせられたに過ぎないことは、肝に銘じておかなければならないでしょう」

 

【コラム】欧州右翼における「ヨーロッパ主義」――欧州右翼のヨーロッパ像とEU危機

 欧州は、解体の危機に晒されている。ヨーロッパ連合の制度疲労は明白であり、それに難民流入問題が拍車をかけ、欧州の連帯は危殆に陥りつつある。こうした危機的状況を象徴しているのが、昨年のイギリスのヨーロッパ連合からの離脱だった。このニュースは、世界を駆け巡り、欧州の危機を世界に印象付けた。今年は、フランス大統領選をめぐって、こうしたヨーロッパの危機が、再燃しそうな模様である。有力候補であるマリーヌ・ルペンが、反ヨーロッパ連合の姿勢を鮮明にしているためだ。これ以上、ヨーロッパ連合から大国が離脱する事態があれば、欧州の連帯の危機は終局的なものと化すだろう。

 そして、こうした欧州の解体の危機は、右翼の影響下で進展している、と頻繁に説明されている。さきほど言及したフランス大統領選の有力候補である、マリーヌ・ルペンが所属している、国民戦線がしばしば典型的事例として紹介される。また、イギリスのヨーロッパ連合離脱の引き金となったイギリス独立党や、ドイツで注目されつつある「ドイツのための選択肢」も、同様である。ナショナリズムに立脚する、こうした欧州右翼は、国家利益を保護するため、反ヨーロッパ連合の姿勢を鮮明にしており、こうした欧州右翼によって欧州の解体の危機が生じている、というわけだ。確かに、エマニュエル・トッドが、『問題は英国ではない、EUなのだ――21世紀の新・国家論』(文藝春秋、2016年)で指摘している通り、ヨーロッパの趨勢は「統合からネーションへ」と回帰しつつある。だが、欧州右翼の系譜を振り返ると、ヨーロッパの統合に積極的な意義を見出す、「ヨーロッパ主義」とでも形容すべき潮流も存在する。ここでは、こうした系譜に光を当て、欧州右翼における「ヨーロッパ理念」の多元性について言及したい。

 欧州の統合に積極的な意義を見出す、こうしたヨーロッパ主義の潮流としては、汎ヨーロッパ連合を提唱した、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが、まず想起される。だが、カレルギーの運動とは無関係に、ヨーロッパ主義の主張が、同時代の欧州右翼から提示された。こうした主張を展開したのは、フランスにおけるコラボラトゥール(対独協力者)として知られている、小説家のドリュ・ラ・ロシェルだった。ドリュ・ラ・ロシェルらコラボラトゥールの文学と行動は、福田和也『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』(筑摩書房、2002年)に詳述されているが、ドリュ・ラ・ロシェルアメリカとソ連が将来的に覇権を掌握し、ヨーロッパがこのままでは没落すると察知していた。そして、こうしたアメリカとソ連の脅威にヨーロッパが対抗するには、ファシズムによって統合するほかない、との主張を展開した。

 

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ドリュ・ラ・ロシェル

 ドリュ・ラ・ロシェルナチス・ドイツへの協力は、こうした展望から導き出された帰結だった。ドリュ・ラ・ロシェルは、アメリカとソ連は、イデオロギー的に反目しているように映るが、双方とも卑俗な物質主義への信奉という点で、同一の傾向をもつと捉えた。物質主義のアメリカとソ連に、精神主義のヨーロッパが対抗しなければならない、との理解を提示した。ドリュ・ラ・ロシェルの文学は、こうした危機感を背景としていた。フランスとドイツが、ファシズムの理想の下で連携し、物質主義のアメリカとソ連に対抗しうる、精神主義の気高い統合ヨーロッパを実現する――こうした理念にしたがって、ドリュ・ラ・ロシェルの文学と行動はなされたのである。

 こうしたドリュ・ラ・ロシェルのヨーロッパ主義は、アメリカとソ連の台頭への危機感から、ヨーロッパをファシズムによって統合し対抗させる、という試みとして理解できる。そして、こうしたヨーロッパ主義を、ドリュ・ラ・ロシェルは情緒的な文学という営為によって表現した。他方で、これをリアリスティックな政治という営為によって表現したのが、カール・シュミットである。シュミットは、自身のヨーロッパ主義を、「グロスラウム」という概念で表現した。「グロスラウム」とは、後期のシュミットを代表する概念である。これは、シュミットが憲法学から国際法学に研究の軸足を移した1940年代から大々的に展開された。シュミットは、国際法秩序を理解するうえで、複数の国家から成立する広域圏(グロスラウム)において、歴史的に生成された国際法秩序を重視する必要がある、と訴えた。そして、ヨーロッパを、こうした国際法秩序を共有し、歴史的に生成してきた、「グロスラウム」として評価する。

 

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カール・シュミット

 

 「グロスラウム」は、主権国家を超えたグローバルな空間だが、それは同一の秩序を共有する法共同体であることを要求され、全地球的な広がりはもたない、地域性を保った概念となる。こうした複数の国家から構成され、同一の秩序を共有する、巨大だが限定された「地域」として、「グロスラウム」は定義される。そして、こうした「グロスラウム」の典型を、シュミットはヨーロッパに発見する。そして、シュミットは、国際法秩序を理解するうえで、こうした特定の地域における秩序を重視する「グロスラウム」を基調とした解釈と、全地球規模の秩序を対象とする普遍主義的な解釈が、対抗関係にあると主張する。そして、そこには、ヨーロッパの脅威である、アメリカとソ連への、シュミットの敵意が伏在していた。歴史と伝統(シュミットのタームを用いれば、具体的秩序)をもつヨーロッパと、実験国家として成立したアメリカとソ連の対抗が、特殊と普遍の衝突として表現されているわけだ。シュミットは、「グロスラウム」であるヨーロッパが、普遍主義のアメリカやソ連の脅威に晒されている、と解釈した。この図式は、戦後のシュミットにおいても、一貫して維持されている。

 こうしたシュミットのヨーロッパ主義は、大竹弘二が『正戦と内戦――カール・シュミットの国際秩序思想』(以文社、2009年)で言及しているように、戦後の欧州右翼の思潮にも影響を及ぼした。その代表例が、フランス新右翼の思想的主柱である、アラン・ド・ブノワや、イタリア新右翼のイデオローグである、ミリオだった。アラン・ド・ブノワは、アイデンティティの依拠すべき単位は、主権国家の枠内に留まらず、最終的にはヨーロッパへと包摂される、と主張した。そして、米ソ両国に対抗する目的で、「中央ヨーロッパ」といった伝統的なヨーロッパ理念を再発見する。また、ミリオは、イタリア北部の自治拡大を求める極右政党「北部同盟」のイデオローグとなり、イタリアという主権国家から手を切った。ここで、ミリオは、イタリア北部のアイデンティティを、イタリアという主権国家の一部である点ではなく、ヨーロッパの一員である点に求めた。ヨーロッパという主権国家を超えた地域への注目や、米ソ両国への対抗という点において、こうした欧州の新右翼のヨーロッパ主義は、戦前のドリュ・ラ・ロシェルカール・シュミットの図式を継承している。

 このように、欧州右翼には、ヨーロッパの統合に積極的な意義を見出す、「ヨーロッパ主義」とでも形容すべき潮流がある。欧州右翼には、しばしば指摘される国粋主義的な側面と、こうしたヨーロッパ主義的な側面が、複雑に交錯しているわけだ。こうした欧州右翼の構図と同じく、現代の欧州も、ナショナリズムと国際的統合の狭間で、模索を続けている。こうした欧州の情勢を分析するには、ここで取り上げたような、欧州右翼のヨーロッパ像の検討が不可欠なのである。

 

謹賀新年

 旧年中は、当会の活動をご支援いただき、誠にありがとうございました。振り返るに、イギリスのEU離脱アメリカ大統領選の模様など、昨年は波乱に満ちた一年でした。この激動は、グローバル化の矛盾が噴出し、ナショナリティへの回帰が顕在化しつつある、と解釈できます。こうした状況において、当会の伝統的な民族文化・民族生活の再検討という問題意識は、非常に重要性をもつと思われます。今年も、こうした問題意識に基づき、当会は活動を展開していきます。これまで以上のご支援を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。

 

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【書評】川久保剛・星山京子・石川公彌子『方法としての国学』(北樹出版、平成28年)

 

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 本書は、いかにグローバル化の潮流と対峙し、ナショナリティを再確認するか、という伝統的な、しかし喫緊の課題を解決する糸口を、国学の系譜に求めた気鋭の日本思想史研究者たちの論考集である。こう説明すると、国学のイメージから想起される、きわめて常識的な問題設定をもとにしていると思われるかもしれない。だが、この論考集を、きわめて特異な作品に仕上げているのは、扱っている「国学の系譜」の型破りさ、である。

 第一部「江戸のグローバル化国学」において平田篤胤を扱っているのは妥当に思われるが、主題となっているのは篤胤の対ロシア認識や自然科学との関連である。文献研究を基調とした日本学という「国学」のイメージを、国籍と学問領域の双方から越境しているのだ。そして、第二部「近代国学の諸相」では、柳田國男保田與重郎折口信夫が検討対象となる。また、第三部「戦後『国学』精神の一系譜」では、今西錦司梅棹忠夫梅原猛たち新京都学派と、小林秀雄福田恆存江藤淳たち保守思想家が俎上に載せられる。近世期に展開された「国学」のイメージを、時間軸から越境しているのだ。すなわち、帯における苅部直の推薦の辞が記しているように、本書は「『江戸時代』にも『19世紀』にも、それどころか『日本』にも封じ込めることのできない、国学思想の意味と広がりを明らかにしている」わけである。

 こうした国学の多面性への着眼において、本書は類書とは異なった型破りな作品に仕上がっている。ここから、その国学の多面性を、本書の構成にしたがって見ていく。まず、第一部「江戸のグローバル化国学」では、平田篤胤の対ロシア認識を取り上げて、国学がもつグローバル性が提示される。ラクスマンやレザノフの日本来訪と開国要求によって、当時の日本ではロシア脅威論が高まりつつあった。平田のロシア研究は、こうしたロシア脅威論を受けたものだったが、そのロシア認識はきわめて学問的で客観的だった。こうした対ロシア認識の背景には、国学は外国の知見を包含する学でなければならない、という平田の国学観のグローバル性があった。そして、続いて、傑出した望遠鏡の作成に成功し、人類ではじめて太陽黒点の観測を行い、航空機の製作構想を幕府に上申したことでも知られる、近江の科学者の国友藤兵衛と篤胤の交流が取り上げられ、国学がもつ学際性が提示される。篤胤の私塾である気吹舎では、文理の境界を越え、様々な知的関心をもつ人々が集まっていた。篤胤自身も、蘭学の素養があり、自然科学の知識をもっていた。藤兵衛と篤胤の交流の背景には、こうした平田の国学観の学際性があったわけである。

 第二部「近代国学の諸相」では、柳田國男保田與重郎折口信夫を、国学の近代における継承者として解釈する。そして、こうした人々の「近代国学」が同時代の潮流に対して行った異議申し立てが着眼される。こうした視座は、第二部の執筆担当者である石川公彌子の『〈弱さ〉と〈抵抗〉の「近代国学」』(講談社、2009年)と共通しており、非常に興味深い。だが、この視座については、いくつかの疑義を提示することができるだろう。第一に、国学の文献学的方法論を継受した、皇典講究所國學院の文献学者の潮流を無視するのは、適切なのだろうか。石川は、国学の基調をなす「弱い」主体を継承していないため、こうした潮流は「近代的国体論」の所産に過ぎないと主張している。だが、文献学的方法論の継受や学際的日本学の志向といった、国学の重要な構成要素を、皇典講究所國學院の文献学者の潮流はもっている。こうした潮流を一方的に切り捨て、柳田・保田・折口を「近代国学」の系譜に据えるだけの論拠を、石川は提示しているのだろうか。「弱い」主体は、国学の核心であると定義できるのか、はなはだ疑問である。藤田大誠は、『近代国学の研究』(弘文堂、2007年)において、石川が「近代的国体論」と切り捨てた皇典講究所國學院の文献学者の潮流こそ「近代国学」であると定義したが、こちらの見解の方が説得的である。

 第二に、柳田・保田・折口の同時代への「抵抗」の側面を過度に強調するのは、妥当なのだろうか。同時代の国学から影響を受けた思潮を、体制側の「国家神道」と反体制側の柳田・保田・折口に二分し、後者による前者への「抵抗」を描出するのは、たしかに分かりやすい。だが、あまりに図式的であって、場合によっては石川の私的な政治イデオロギーの表出ではないか、という懐疑すら抱かせかねない。柳田・保田・折口の思惟を、「体制側」の言説から区別することで、その「救出」を石川は意図しているのかもしれない。だが、「体制」と「抵抗」という図式そのものが誤りなら、こうした企ては思想史の歪曲以外の何者でもあるまい。第二部は、興味深い視座を提示しつつ、こうした問題を抱えていた。

 第三部「戦後『国学』精神の一系譜」は、今西錦司梅棹忠夫梅原猛たち新京都学派と、小林秀雄福田恆存江藤淳たち保守思想家が、いかに国学の精神を継受したか、を主題としている。ここで課題となるのが、戦後日本への欧米の圧倒的な影響に、いかなる抵抗を展開するか、である。そもそも、江戸期の国学は、同時代の儒仏の圧倒的な影響に、いかなる抵抗を展開するか、を課題としていた。この論考では、こうした江戸期と戦後日本の時代状況の相似を念頭に置き、それぞれの「国学」のあり方を検討している。適者生存を基調とした西欧の進化論に、日本的な棲み分けを基調とした進化論を対置した今西錦司や、西欧崇拝を拒絶して土着的な知を求め、西欧と日本の並行進化という卓越した比較文明論を樹立した梅棹忠夫や、国学から影響を受けつつ、より広い視座から日本人の精神文化の検討を志向した梅原猛は、日本的なるものを基軸として思考を展開する、という共通項がある。西欧崇拝の風潮のさなかで、こうした日本的なるものを基軸とした学問を展開した新京都学派は、戦後「国学」精神の一典型だった。そして、西欧的な合理主義の瑕疵を見抜き、晩年に『本居宣長』を執筆し日本への回帰を企図した小林秀雄や、演劇や批評と並行して、国語問題や安保問題といった現実政治への発言を行った福田恆存や、GHQの検閲政策を糾弾し、戦後日本の言語空間の根源的問題と対峙した江藤淳は、戦後日本への欧米の圧倒的な影響に、いかなる抵抗を展開するか、という課題に応答を試みた、という共通項がある。こうした保守思想家は、新京都学派と並んで、戦後「国学」精神の一典型だった。このように、新京都学派と、保守思想家こそ、戦後日本において「国学」精神を体現したのである。

 このように、本書では「国学」を、その国籍・学問領域・時代を越え、多面的に理解しようと試みているわけである。こうした拡大された視座から「国学」を眺望する試みは、「国学」のもつ意味をさらに深く掘り下げるとともに、日本思想史そのものへの理解をさらに進展させることになるだろう。そして、こうした試みは、いかにグローバル化の潮流と対峙し、ナショナリティを再確認するか、という伝統的な、しかし喫緊の課題に向き合うわれわれに、きわめて有益な知見を提供するだろう。

定例研究会報告 東京裁判の比較文明論――東京裁判開廷70年を迎えて

はじめに

 今年は、1946年に東京裁判極東国際軍事裁判)が開廷してから、70年の節目に当たる。東京裁判が開廷してから50年の節目だった1996年にも、「東京裁判とは何だったのか」と題して、歴史家を中心とした大規模なシンポジウムが挙行されたが――五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)にまとめられている――、今年も東京裁判を再考する試みが陸続した。国士舘大学法学部比較法制研究所が数年前から取り組んでいる、東京裁判の速記録を翻訳し体系的に整序した『極東国際軍事裁判審理要録』(原書房)は、今年に入ってようやく4巻目まで公刊されるにいたった――国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)――。また、日本国体学会によって、東京裁判開廷70年を期して、「東京裁判を問い直す」と題して、シンポジウムが挙行された。20年前の東京裁判開廷50年の節目よりも、戦後の思想的な拘束状況が緩和されたためか、今年の東京裁判開廷70年の節目に見られた動きの方が、積極的に東京裁判を再考しようとする姿勢に満ちている。

 本稿でも、こうした東京裁判開廷70年の節目にあって、東京裁判を問い直すため、問題提起を行いたい。具体的には、既存の東京裁判の分析では欠落しがちであった、東京裁判の比較文明論的な考察を、ひとつの視座として提示する。東京裁判の首席検察官だったジョゼフ・キーナンは、東京裁判の冒頭陳述で、日本を「文明に対し宣戦布告した」と断罪し、この裁判を「文明の断乎たる戦い」と表現した。すなわち、「文明」である連合国が、「野蛮」である日本を裁く、という枠組が東京裁判の基礎にあると宣言したのである。ここで、執拗に登場するのが、ほかならない「文明」という概念である。連合国は、「文明」と「野蛮」という図式のもとで、この裁判を遂行した。そして、この裁判では、西欧諸国を中心とする原告と、日本人の被告が対峙し、そこで東西文明の衝突が発生した。東京裁判を問い直すため、もっとも着目しなければならない概念のひとつこそ、この「文明」の概念なのだ。

 だが、既存の東京裁判研究は、この東京裁判における「文明」の概念の分析を怠ってきた。国際法学者の大沼保昭は、『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)に所収された「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」で、東京裁判における「文明」の概念の欺瞞を指摘した。また、法哲学者の長尾龍一も、『中央公論』1975年8月号に掲載された「文明は裁いたのか裁かれたのか」で、東京裁判で謳われた「文明」の裁きとは、西欧諸国による植民地喪失への復讐に過ぎないと断言している。だが、キーナンによって高らかに謳われた「文明」による裁きの欺瞞を糾弾するだけでは、東京裁判で発生した東西文明の衝突について、充分に明らかにすることはできない。ここで必要なのは、東京裁判で発生した東西文明の衝突を、比較文明論的な視座で明らかにするアプローチである。こうしたアプローチを試みてきた東京裁判研究者こそ、『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)や『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)において、東京裁判の比較文明論的な考察を行ってきた牛村圭だった。ここでは、以上の牛村の業績に依拠しつつ、東京裁判の比較文明論的な考察を試みる。

 

一 丸山真男東京裁判論――「無責任の体系」という名の虚像

 牛村は、東京裁判における「文明」の概念を分析するにあたって、まずは同時期に開廷され、連合国による枢軸国への裁きという図式を共有していた、ニュルンベルク裁判に着目した。具体的には、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとする試みである。ここで、検討対象となるのが、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとした、丸山真男「軍国支配者の精神形態」(1949年)である。丸山は、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、後者が主体的に戦争犯罪を遂行し、積極的にその責任を認める傾向があるのに対し、前者は受動的に戦争犯罪に巻き込まれ、その責任を認めるのに消極的であると指摘した。ここで、日本戦犯の特質は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」に原因があるとされ、日本戦犯は時代の潮流になすがままに屈服し、それゆえその責任から逃避しようとする「無責任の体系」を示していると糾弾される。

 この丸山の東京裁判批評は一世を風靡したが、牛村は丸山の分析には重大な錯誤があると指摘した。まず、「軍国支配者の精神形態」は、東京裁判における日本戦犯の供述と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述を比較しているが、この比較の過程で資料の操作が行われたとする。東京裁判における日本戦犯の供述は、ほぼ全て参照されているのに対し、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述は、ヘルマン・ゲーリングを中心とした一部の戦犯の供述しか参照されていない。たしかに、ゲーリングはナチの戦争犯罪を積極的に認め、この責任を負うと公言したが、その他のナチ戦犯の供述には、丸山の表現を借用すると、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」が散見された。丸山は、一見すると潔く映るゲーリングら一部の戦犯の供述だけを、意図的に選択していたのである。そして、牛村は、日本戦犯の供述も、丸山が主張するように「既成事実への屈服」や「権限への逃避」によって説明しえるわけではない、と解釈した。日本戦犯には、「法的責任」と「道義的責任」を峻別する論理が見られ、前者を法廷で争いつつ、後者を積極的に認めた。丸山は、こうした日本戦犯の態度を無視し、「道義的責任」を積極的に認める日本戦犯の供述を切り捨て、「法的責任」を法廷で争う日本戦犯の供述を誇張することで、「無責任の体系」を示す日本戦犯という虚像を構築したのである。牛村は、こうした丸山による、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の対抗図式を否定し、両者の実質的な差異は無かった、と結論付けた。キーナンによって「文明」と「野蛮」として、丸山真男によって「ニヒリストの明快さ」と「無責任の体系」として、それぞれ峻別された東西文明の差異は、実際には存在しなかったのである。では、両者に共通し、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのか。

 

二 竹山道雄東京裁判論――「近代文明」という名の被告

 牛村は、丸山の東京裁判批評の錯誤を指摘し、東西文明の差異を越えて、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのかを明らかにしなければならない、と指摘した。ここで、注目されるのが、竹山道雄東京裁判批判である。竹山道雄は、「ハイド氏の裁き」(1946年)において、卓抜した東京裁判を展開した。「ハイド氏の裁き」は、筆者が東京裁判を傍聴する場面から始まる。今回の裁判では、どうやら新しい被告が裁かれるらしく、筆者は隣の傍聴者に被告の素性を尋ねた。「あのあたらしい被告の名は何といいますか?」という筆者の問いに、隣の傍聴者は「近代文明といいます」と答える。こうした、「近代文明」を被告とした、東京裁判のパロディを通して、竹山は何を読者に伝えようとしたのだろうか。

 竹山は、近代文明の二面性を、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説である『ジキル博士とハイド氏』に登場するジキルとハイドに仮託した。そして、こうした近代文明の悪しき側面(ハイド)こそ、帝国主義であると定義する。ここから、日本による一連の対外進出と大東亜戦争への帰結は、近代文明の悪しき側面(ハイド)の表出であるという結論が導かれた。そして、こうした近代文明は、裁かれる日本と、裁く西欧の双方に共通しているわけである。すなわち、竹山は、「文明」である自らが、「野蛮」である日本を裁く、という図式で東京裁判を遂行する連合国に対し、お前たちも近代文明の悪しき側面(ハイド)という罪を抱えており、日本と同じく「被告」なのだ、という厳然たる事実を突きつけるのだ。ここで、東京裁判が裁く対象とした、「文明」という概念の実像は、はっきりと明らかになる。帝国主義の根源であり、総力戦への駆動力だった、「近代文明」の悪しき側面(ハイド)こそ、本来は東京裁判において裁かれるべき「被告」だった。「ハイド氏の裁き」は、無分別に「文明」の名を振りかざす東京裁判への痛烈な風刺であるとともに、東京裁判のあるべき姿を明らかにする試みでもあったのである。 また、こうした「近代文明」を、東京裁判において裁くべき対象とする東京裁判批判は、丸山真男ファシズム論への反駁の意味も込められていた。丸山は、封建制の残滓こそ、ファシズムをもたらし、日本を大東亜戦争へと帰結させたと結論付ける。そして、連合国と同じく、東京裁判を「文明」と「野蛮」の図式によって解釈しようとする。竹山は、これに対して、連合国と枢軸国に共通した「文明」の罪こそ、東京裁判では問われるべきだ、と丸山に反駁した。そして、こうした竹山の「近代文明」に戦争犯罪の根源を見出し、日本を野蛮な絶対悪として裁こうとする態度を否定する姿勢は、数奇な偶然から交友があった東京裁判のオランダ人判事であるベルナルド・レーリングに影響を与え、レーリングによる判決にあたっての個別意見書の提出に繋がる。インド人判事であるラダ・ビノート・パールの著名な個別意見書と比較すると、レーリングの個別意見書は歴史に埋没してきたが、共同謀議の適用への疑問や、広田弘毅元首相ら5名を無罪と表明するなど、キーナンが高らかに謳い上げた「文明」による「野蛮」への裁きという東京裁判の図式から自由な見地から執筆されており、竹山からの影響もあって、きわめて高い歴史的意義をもっている。

 

おわりに

 牛村は、丸山真男「軍国支配者の精神形態」を分析し、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯には、差異が無いと指摘した。ここで、東西に共通する「文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると議論は展開する。そして、竹山道雄「ハイド氏の裁き」を参照し、東西文明が共通して抱える「近代文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると判明した。この視点には、植民地支配を受けた東洋の立場から、被告全員を無罪とする個別意見書を執筆したパールや、文明を自負する西洋の立場から、野蛮と侮蔑する日本を裁いた連合国の検事・判事が、もちえなかった認識が含まれている。東西を越えて「近代文明」が不可避的に負っている宿命(竹山の表現を借用すると、「ハイド氏」の側面)こそ、日本を大東亜戦争へと追いやったのであり、この宿命によって日本は裁かれたのである。そして、こうした認識は、東西文明を俯瞰する牛村の比較文明論的なアプローチによってこそ、可能となったのだ。

 

参考文献
竹山道雄「ハイド氏の裁き」『樅の子と薔薇』(新潮社、1951年)
丸山真男「軍国支配者の精神形態」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)
長尾龍一「文明は裁いたのか裁かれたのか」『中央公論』1975年8月号
大沼保昭「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)
ベルナルド・レーリング(小菅信子訳・粟屋憲太郎解説)『レーリング判事の東京裁判』(新曜社、1996年)
五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)
牛村圭『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)
牛村圭『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)
国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)

 

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竹山道雄

 

定例研究会報告 明治典憲体制について

 明治典憲体制とは、一般に、皇室典範大日本帝国憲法が、ともに最高の形式的効力をもつ憲法体制のことをいう。明治典憲体制は、明治22年、あるいは明治40年に成立した。

 明治22年は、大日本帝国憲法皇室典範が制定された年である。憲法では国家の統治機構が整備された。皇位継承等の皇室のルールについては憲法では明記せず、皇室典範により定められた。皇室典範の改正は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て天皇が勅定すると定められ、議会の議は経らない。このように「皇室のことは皇室自らが決定し、国民がこれに関与することを許さない」原則を「皇室自律主義」と呼ぶ(伊藤正巳ほか編(1978)『憲法小辞典』増補版,有斐閣)。

 現在存在する君主国では、王位継承法の制定や改正の際に議会の議を経らないという方式を採用する国はほとんど見られない。先進国ではルクセンブルクがわずかに挙げられる程度である。一方、19世紀には、このような方式を導入する国は比較的多く見られた。帝政ロシアデンマーク、ドイツなどが挙げられる。ホイシュリンク(2012)は、この種の方式を採用していた国の多くは、ドイツの影響を受けていたと指摘する。ドイツには、Fürstenrecht(侯爵法)と呼ばれる法領域が伝統的に存在していた。14世紀、神聖ローマ帝国内の王家は、通常の私法規範への服従を拒んだ。王の死亡の際に、政治権力と不動産の移転の問題について通常の相続法規範の適用を回避するためである。各王家は、王家内の相続およびそれに関連する「家の事柄」に関する法の発布権限が王家に帰属することを皇帝に承認させた。これがFürstenrechtという法領域の誕生である。ドイツの君主国の多くでは、1922-23年のドイツ革命・ヴァイマル共和国成立までFürstenrechtは存続した。

 日本において、皇位継承法を憲法とは別に定める方針は、明治14年岩倉具視憲法意見書(実質的な執筆者は井上毅)によって定まった。この意見書にはロエスレルの影響がうかがえる。ロエスレルは、ドイツ人のお雇い外国人であり、井上毅と密接な関係にあった。ロエスレルも皇位継承法を憲法とは別に定めるべきとする意見を持っており(「皇室典範並皇族令ニ付ロエスレル氏答議」)、Fürstenrechtの概念は、ロエスレルを通じて日本に影響を与えたといえよう。

 さて、皇室典範の性質について、伊藤博文皇室典範義解』では以下のように説明されている。「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非す。…又臣民の敢て干渉する所に非さるなり。」皇室典範は、皇室の「家法」であり、大臣の副署が無く、臣民にも公布されなかった。しかし、皇室典範を家法とし、公布しなかったことは、皇室典範の国法としての地位を不明確にした。皇室典範は、国法としての効力を持つのか、臣民・政府に対して拘束力を持つのかが曖昧な状態にあった。

 この問題の是正を図ったのが、帝室制度調査局である。明治36年に伊東巳代治が帝室制度調査局副総裁に就任すると、伊東が中心となり、帝室制度調査局は典範関係の不備の是正に取り組んだ。

 明治40年、帝室制度調査局の作成した草案をもとに、皇室典範増補・公式令が制定される。皇室典範増補は公布された。そして公式令4条では、皇室典範改正の際には、宮相・全国務大臣が副署し公布する旨が明記された。すなわち、皇室典範を家法とみなす『皇室典範義解』の思想からの転換である。皇室典範は、家法ではなく国法であり、臣民・政府に対しても有効であることが明確となった。また、公式令5条では、”皇室令”という勅令や法律とは異なる新たな法形式が創設された。皇室令は、「皇室典範に基づく諸規則、宮内官制、其の他皇室の事務」を規定するとされた。

 この明治40年の改革により、国法上に「二元的な憲法秩序」が出現した(大石2005:291)。すなわち、大日本帝国憲法最高法規とする国務法(政務法、国家法、憲法法とも)の系統の他に、皇室典範最高法規とする宮務法(皇室法、典範法とも)の系統が誕生したのである。国務法は、大日本帝国憲法の下で、法律・勅令・閣令等で「国家の事務」を規定し、宮務法は、皇室典範の下で、皇室令宮内省令等で「皇室の事務」を規定した。これをもって、明治典憲体制は、名実ともに完成したのである。 

 

 国務法・宮務法の二分体制には問題もあった。国家の事務か皇室の事務か単純に峻別できない事務が存在するということだ。この問題ゆえに、大正時代には「大礼使官制問題」と呼ばれる論争が勃発した。

 大礼使官制問題は、大礼使官制の制定形式を巡る論争である。登極令(明治42年皇室令第1号)は、新天皇の”即位の礼”の事務を掌理する”大礼使”を宮中に設置し、大礼使官制を制定することを求めていた。明治45年7月、皇太子嘉仁親王殿下の践祚により「大正」と改元する。第一次山本権兵衛内閣は、大礼使官制を勅令で制定し(大正2年勅令第303号)、大礼使を内閣総理大臣の管理に属するとした。この山本内閣の処置について、一部の憲法学者や議員の間で「大礼使官制は皇室令で制定すべきであり、勅令での制定は違法である」との批判が起こる。一方で、山本内閣の処置を合法とみる憲法学者も多く存在し、大礼使官制を勅令で制定すべきか皇室令で制定すべきかについて、憲法学者を中心に論争が勃発した。昭憲皇太后崩御に伴い即位の礼の延期が決定され、大礼使官制は一旦廃止される。大正3年、第二次大隈内閣は本問題を枢密院へ委ねた。枢密院小委員会では勅令での制定が妥当であるとする説が6対4で賛成多数となり議決され、大礼使官制は勅令(大正4年勅令第51号)として再制定された。

 本問題の発生は、国家の事務・皇室の事務の線引きが難しいことを如実に表している。「即位の礼」が皇室に関係する儀式であることは間違いない。ただ、「即位の礼」の本質が、統治権の総覧者である天皇の即位を、内外にしらしめるための儀式であると解釈すれば、即位の礼は国家の大祭であるとも考えられる。

 国家の事務か皇室の事務か曖昧な領域について、誰もが納得するような線引きを設けることは困難であった。国務法・宮務法の二分体制は、このような領域の事務について管轄争いが生じる可能性を秘めていた。

 

参考文献

大石眞(2005)『日本憲法史』第2版、有斐閣
川田敬一(2001)『近代日本の国家形成と皇室財産』原書房
国分航士(2015)「明治立憲制と『宮中』」(『史学雑誌』124巻9号)
高久嶺之介(1983)「大正期皇室法令をめぐる紛争 上」(『社会科学』32巻)
三浦裕史(2003)「解説二 皇室法研究雑纂」(穂積八束皇室典範講義・皇室典範増補講義』信山社
ホイシュリンク・リュック (2012)「ナッソー協約・侯爵法・皇室典範」井上武史訳(『岡山大學法學會雜誌』62巻2号)
皇室典範並皇族令ニ付ロエスレル氏答議」(伊藤博文編(1970)『秘書類纂』19巻、原書房

 

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明治憲法の発布式典