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民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

定例勉強会報告6 東京裁判の比較文明論――東京裁判開廷70年を迎えて

はじめに

 今年は、1946年に東京裁判極東国際軍事裁判)が開廷してから、70年の節目に当たる。東京裁判が開廷してから50年の節目だった1996年にも、「東京裁判とは何だったのか」と題して、歴史家を中心とした大規模なシンポジウムが挙行されたが――五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)にまとめられている――、今年も東京裁判を再考する試みが陸続した。国士舘大学法学部比較法制研究所が数年前から取り組んでいる、東京裁判の速記録を翻訳し体系的に整序した『極東国際軍事裁判審理要録』(原書房)は、今年に入ってようやく4巻目まで公刊されるにいたった――国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)――。また、日本国体学会によって、東京裁判開廷70年を期して、「東京裁判を問い直す」と題して、シンポジウムが挙行された。20年前の東京裁判開廷50年の節目よりも、戦後の思想的な拘束状況が緩和されたためか、今年の東京裁判開廷70年の節目に見られた動きの方が、積極的に東京裁判を再考しようとする姿勢に満ちている。

 本稿でも、こうした東京裁判開廷70年の節目にあって、東京裁判を問い直すため、問題提起を行いたい。具体的には、既存の東京裁判の分析では欠落しがちであった、東京裁判の比較文明論的な考察を、ひとつの視座として提示する。東京裁判の首席検察官だったジョゼフ・キーナンは、東京裁判の冒頭陳述で、日本を「文明に対し宣戦布告した」と断罪し、この裁判を「文明の断乎たる戦い」と表現した。すなわち、「文明」である連合国が、「野蛮」である日本を裁く、という枠組が東京裁判の基礎にあると宣言したのである。ここで、執拗に登場するのが、ほかならない「文明」という概念である。連合国は、「文明」と「野蛮」という図式のもとで、この裁判を遂行した。そして、この裁判では、西欧諸国を中心とする原告と、日本人の被告が対峙し、そこで東西文明の衝突が発生した。東京裁判を問い直すため、もっとも着目しなければならない概念のひとつこそ、この「文明」の概念なのだ。

 だが、既存の東京裁判研究は、この東京裁判における「文明」の概念の分析を怠ってきた。国際法学者の大沼保昭は、『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)に所収された「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」で、東京裁判における「文明」の概念の欺瞞を指摘した。また、法哲学者の長尾龍一も、『中央公論』1975年8月号に掲載された「文明は裁いたのか裁かれたのか」で、東京裁判で謳われた「文明」の裁きとは、西欧諸国による植民地喪失への復讐に過ぎないと断言している。だが、キーナンによって高らかに謳われた「文明」による裁きの欺瞞を糾弾するだけでは、東京裁判で発生した東西文明の衝突について、充分に明らかにすることはできない。ここで必要なのは、東京裁判で発生した東西文明の衝突を、比較文明論的な視座で明らかにするアプローチである。こうしたアプローチを試みてきた東京裁判研究者こそ、『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)や『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)において、東京裁判の比較文明論的な考察を行ってきた牛村圭だった。ここでは、以上の牛村の業績に依拠しつつ、東京裁判の比較文明論的な考察を試みる。

 

一 丸山真男東京裁判論――「無責任の体系」という名の虚像

 牛村は、東京裁判における「文明」の概念を分析するにあたって、まずは同時期に開廷され、連合国による枢軸国への裁きという図式を共有していた、ニュルンベルク裁判に着目した。具体的には、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとする試みである。ここで、検討対象となるのが、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとした、丸山真男「軍国支配者の精神形態」(1949年)である。丸山は、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、後者が主体的に戦争犯罪を遂行し、積極的にその責任を認める傾向があるのに対し、前者は受動的に戦争犯罪に巻き込まれ、その責任を認めるのに消極的であると指摘した。ここで、日本戦犯の特質は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」に原因があるとされ、日本戦犯は時代の潮流になすがままに屈服し、それゆえその責任から逃避しようとする「無責任の体系」を示していると糾弾される。

 この丸山の東京裁判批評は一世を風靡したが、牛村は丸山の分析には重大な錯誤があると指摘した。まず、「軍国支配者の精神形態」は、東京裁判における日本戦犯の供述と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述を比較しているが、この比較の過程で資料の操作が行われたとする。東京裁判における日本戦犯の供述は、ほぼ全て参照されているのに対し、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述は、ヘルマン・ゲーリングを中心とした一部の戦犯の供述しか参照されていない。たしかに、ゲーリングはナチの戦争犯罪を積極的に認め、この責任を負うと公言したが、その他のナチ戦犯の供述には、丸山の表現を借用すると、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」が散見された。丸山は、一見すると潔く映るゲーリングら一部の戦犯の供述だけを、意図的に選択していたのである。そして、牛村は、日本戦犯の供述も、丸山が主張するように「既成事実への屈服」や「権限への逃避」によって説明しえるわけではない、と解釈した。日本戦犯には、「法的責任」と「道義的責任」を峻別する論理が見られ、前者を法廷で争いつつ、後者を積極的に認めた。丸山は、こうした日本戦犯の態度を無視し、「道義的責任」を積極的に認める日本戦犯の供述を切り捨て、「法的責任」を法廷で争う日本戦犯の供述を誇張することで、「無責任の体系」を示す日本戦犯という虚像を構築したのである。牛村は、こうした丸山による、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の対抗図式を否定し、両者の実質的な差異は無かった、と結論付けた。キーナンによって「文明」と「野蛮」として、丸山真男によって「ニヒリストの明快さ」と「無責任の体系」として、それぞれ峻別された東西文明の差異は、実際には存在しなかったのである。では、両者に共通し、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのか。

 

二 竹山道雄東京裁判論――「近代文明」という名の被告

 牛村は、丸山の東京裁判批評の錯誤を指摘し、東西文明の差異を越えて、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのかを明らかにしなければならない、と指摘した。ここで、注目されるのが、竹山道雄東京裁判批判である。竹山道雄は、「ハイド氏の裁き」(1946年)において、卓抜した東京裁判を展開した。「ハイド氏の裁き」は、筆者が東京裁判を傍聴する場面から始まる。今回の裁判では、どうやら新しい被告が裁かれるらしく、筆者は隣の傍聴者に被告の素性を尋ねた。「あのあたらしい被告の名は何といいますか?」という筆者の問いに、隣の傍聴者は「近代文明といいます」と答える。こうした、「近代文明」を被告とした、東京裁判のパロディを通して、竹山は何を読者に伝えようとしたのだろうか。

 竹山は、近代文明の二面性を、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説である『ジキル博士とハイド氏』に登場するジキルとハイドに仮託した。そして、こうした近代文明の悪しき側面(ハイド)こそ、帝国主義であると定義する。ここから、日本による一連の対外進出と大東亜戦争への帰結は、近代文明の悪しき側面(ハイド)の表出であるという結論が導かれた。そして、こうした近代文明は、裁かれる日本と、裁く西欧の双方に共通しているわけである。すなわち、竹山は、「文明」である自らが、「野蛮」である日本を裁く、という図式で東京裁判を遂行する連合国に対し、お前たちも近代文明の悪しき側面(ハイド)という罪を抱えており、日本と同じく「被告」なのだ、という厳然たる事実を突きつけるのだ。ここで、東京裁判が裁く対象とした、「文明」という概念の実像は、はっきりと明らかになる。帝国主義の根源であり、総力戦への駆動力だった、「近代文明」の悪しき側面(ハイド)こそ、本来は東京裁判において裁かれるべき「被告」だった。「ハイド氏の裁き」は、無分別に「文明」の名を振りかざす東京裁判への痛烈な風刺であるとともに、東京裁判のあるべき姿を明らかにする試みでもあったのである。 また、こうした「近代文明」を、東京裁判において裁くべき対象とする東京裁判批判は、丸山真男ファシズム論への反駁の意味も込められていた。丸山は、封建制の残滓こそ、ファシズムをもたらし、日本を大東亜戦争へと帰結させたと結論付ける。そして、連合国と同じく、東京裁判を「文明」と「野蛮」の図式によって解釈しようとする。竹山は、これに対して、連合国と枢軸国に共通した「文明」の罪こそ、東京裁判では問われるべきだ、と丸山に反駁した。そして、こうした竹山の「近代文明」に戦争犯罪の根源を見出し、日本を野蛮な絶対悪として裁こうとする態度を否定する姿勢は、数奇な偶然から交友があった東京裁判のオランダ人判事であるベルナルド・レーリングに影響を与え、レーリングによる判決にあたっての個別意見書の提出に繋がる。インド人判事であるラダ・ビノート・パールの著名な個別意見書と比較すると、レーリングの個別意見書は歴史に埋没してきたが、共同謀議の適用への疑問や、広田弘毅元首相ら5名を無罪と表明するなど、キーナンが高らかに謳い上げた「文明」による「野蛮」への裁きという東京裁判の図式から自由な見地から執筆されており、竹山からの影響もあって、きわめて高い歴史的意義をもっている。

 

おわりに

 牛村は、丸山真男「軍国支配者の精神形態」を分析し、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯には、差異が無いと指摘した。ここで、東西に共通する「文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると議論は展開する。そして、竹山道雄「ハイド氏の裁き」を参照し、東西文明が共通して抱える「近代文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると判明した。この視点には、植民地支配を受けた東洋の立場から、被告全員を無罪とする個別意見書を執筆したパールや、文明を自負する西洋の立場から、野蛮と侮蔑する日本を裁いた連合国の検事・判事が、もちえなかった認識が含まれている。東西を越えて「近代文明」が不可避的に負っている宿命(竹山の表現を借用すると、「ハイド氏」の側面)こそ、日本を大東亜戦争へと追いやったのであり、この宿命によって日本は裁かれたのである。そして、こうした認識は、東西文明を俯瞰する牛村の比較文明論的なアプローチによってこそ、可能となったのだ。

 

参考文献
竹山道雄「ハイド氏の裁き」『樅の子と薔薇』(新潮社、1951年)
丸山真男「軍国支配者の精神形態」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)
長尾龍一「文明は裁いたのか裁かれたのか」『中央公論』1975年8月号
大沼保昭「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)
ベルナルド・レーリング(小菅信子訳・粟屋憲太郎解説)『レーリング判事の東京裁判』(新曜社、1996年)
五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)
牛村圭『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)
牛村圭『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)
国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)

定例勉強会報告5 明治典憲体制について

 明治典憲体制とは、一般に、皇室典範大日本帝国憲法が、ともに最高の形式的効力をもつ憲法体制のことをいう。明治典憲体制は、明治22年、あるいは明治40年に成立した。

 明治22年は、大日本帝国憲法皇室典範が制定された年である。憲法では国家の統治機構が整備された。皇位継承等の皇室のルールについては憲法では明記せず、皇室典範により定められた。皇室典範の改正は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て天皇が勅定すると定められ、議会の議は経らない。このように「皇室のことは皇室自らが決定し、国民がこれに関与することを許さない」原則を「皇室自律主義」と呼ぶ(伊藤正巳ほか編(1978)『憲法小辞典』増補版,有斐閣)。

 現在存在する君主国では、王位継承法の制定や改正の際に議会の議を経らないという方式を採用する国はほとんど見られない。先進国ではルクセンブルクがわずかに挙げられる程度である。一方、19世紀には、このような方式を導入する国は比較的多く見られた。帝政ロシアデンマーク、ドイツなどが挙げられる。ホイシュリンク(2012)は、この種の方式を採用していた国の多くは、ドイツの影響を受けていたと指摘する。ドイツには、Fürstenrecht(侯爵法)と呼ばれる法領域が伝統的に存在していた。14世紀、神聖ローマ帝国内の王家は、通常の私法規範への服従を拒んだ。王の死亡の際に、政治権力と不動産の移転の問題について通常の相続法規範の適用を回避するためである。各王家は、王家内の相続およびそれに関連する「家の事柄」に関する法の発布権限が王家に帰属することを皇帝に承認させた。これがFürstenrechtという法領域の誕生である。ドイツの君主国の多くでは、1922-23年のドイツ革命・ヴァイマル共和国成立までFürstenrechtは存続した。

 日本において、皇位継承法を憲法とは別に定める方針は、明治14年の岩倉具視憲法意見書(実質的な執筆者は井上毅)によって定まった。この意見書にはロエスレルの影響がうかがえる。ロエスレルは、ドイツ人のお雇い外国人であり、井上毅と密接な関係にあった。ロエスレルも皇位継承法を憲法とは別に定めるべきとする意見を持っており(「皇室典範並皇族令ニ付ロエスレル氏答議」)、Fürstenrechtの概念は、ロエスレルを通じて日本に影響を与えたといえよう。

 さて、皇室典範の性質について、伊藤博文皇室典範義解』では以下のように説明されている。「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非す。…又臣民の敢て干渉する所に非さるなり。」皇室典範は、皇室の「家法」であり、大臣の副署が無く、臣民にも公布されなかった。しかし、皇室典範を家法とし、公布しなかったことは、皇室典範の国法としての地位を不明確にした。皇室典範は、国法としての効力を持つのか、臣民・政府に対して拘束力を持つのかが曖昧な状態にあった。

 この問題の是正を図ったのが、帝室制度調査局である。明治36年に伊東巳代治が帝室制度調査局副総裁に就任すると、伊東が中心となり、帝室制度調査局は典範関係の不備の是正に取り組んだ。

 明治40年、帝室制度調査局の作成した草案をもとに、皇室典範増補・公式令が制定される。皇室典範増補は公布された。そして公式令4条では、皇室典範改正の際には、宮相・全国務大臣が副署し公布する旨が明記された。すなわち、皇室典範を家法とみなす『皇室典範義解』の思想からの転換である。皇室典範は、家法ではなく国法であり、臣民・政府に対しても有効であることが明確となった。また、公式令5条では、”皇室令”という勅令や法律とは異なる新たな法形式が創設された。皇室令は、「皇室典範に基づく諸規則、宮内官制、其の他皇室の事務」を規定するとされた。

 この明治40年の改革により、国法上に「二元的な憲法秩序」が出現した(大石2005:291)。すなわち、大日本帝国憲法を最高法規とする国務法(政務法、国家法、憲法法とも)の系統の他に、皇室典範を最高法規とする宮務法(皇室法、典範法とも)の系統が誕生したのである。国務法は、大日本帝国憲法の下で、法律・勅令・閣令等で「国家の事務」を規定し、宮務法は、皇室典範の下で、皇室令・宮内省令等で「皇室の事務」を規定した。これをもって、明治典憲体制は、名実ともに完成したのである。 

 

 国務法・宮務法の二分体制には問題もあった。国家の事務か皇室の事務か単純に峻別できない事務が存在するということだ。この問題ゆえに、大正時代には「大礼使官制問題」と呼ばれる論争が勃発した。

 大礼使官制問題は、大礼使官制の制定形式を巡る論争である。登極令(明治42年皇室令第1号)は、新天皇の”即位の礼”の事務を掌理する”大礼使”を宮中に設置し、大礼使官制を制定することを求めていた。明治45年7月、皇太子嘉仁親王殿下の践祚により「大正」と改元する。第一次山本権兵衛内閣は、大礼使官制を勅令で制定し(大正2年勅令第303号)、大礼使を内閣総理大臣の管理に属するとした。この山本内閣の処置について、一部の憲法学者や議員の間で「大礼使官制は皇室令で制定すべきであり、勅令での制定は違法である」との批判が起こる。一方で、山本内閣の処置を合法とみる憲法学者も多く存在し、大礼使官制を勅令で制定すべきか皇室令で制定すべきかについて、憲法学者を中心に論争が勃発した。昭憲皇太后崩御に伴い即位の礼の延期が決定され、大礼使官制は一旦廃止される。大正3年、第二次大隈内閣は本問題を枢密院へ委ねた。枢密院小委員会では勅令での制定が妥当であるとする説が6対4で賛成多数となり議決され、大礼使官制は勅令(大正4年勅令第51号)として再制定された。

 本問題の発生は、国家の事務・皇室の事務の線引きが難しいことを如実に表している。「即位の礼」が皇室に関係する儀式であることは間違いない。ただ、「即位の礼」の本質が、統治権の総覧者である天皇の即位を、内外にしらしめるための儀式であると解釈すれば、即位の礼は国家の大祭であるとも考えられる。

 国家の事務か皇室の事務か曖昧な領域について、誰もが納得するような線引きを設けることは困難であった。国務法・宮務法の二分体制は、このような領域の事務について管轄争いが生じる可能性を秘めていた。

 

参考文献

大石眞(2005)『日本憲法史』第2版、有斐閣
川田敬一(2001)『近代日本の国家形成と皇室財産』原書房
国分航士(2015)「明治立憲制と『宮中』」(『史学雑誌』124巻9号)
高久嶺之介(1983)「大正期皇室法令をめぐる紛争 上」(『社会科学』32巻)
三浦裕史(2003)「解説二 皇室法研究雑纂」(穂積八束皇室典範講義・皇室典範増補講義』信山社)
ホイシュリンク・リュック (2012)「ナッソー協約・侯爵法・皇室典範」井上武史訳(『岡山大學法學會雜誌』62巻2号)
皇室典範並皇族令ニ付ロエスレル氏答議」(伊藤博文編(1970)『秘書類纂』19巻、原書房

定例勉強会報告4 東西のナショナル・アイデンティティ探求の対照――谷省吾における国学とゲルマン学の比較研究を手がかりに

はじめに

 日本とドイツは、双方ともに、十九世紀における政治的な近代国民国家の確立に先立ち、十七世紀・十八世紀における文化的な国民国家概念の形成を経験した。こうした文化的な国民国家概念の形成は、日本においては国学によって担われ、他方でドイツにおいては、ロマン主義によって担われる。こうした日本とドイツにおける十七世紀・十八世紀の思潮がしめす相似は、両者の比較研究を多く生み出してきた。日本とドイツは、いかにして文化的な国民国家概念を形成したか、すなわち両者のナショナル・アイデンティティ探求の実像はどうだったか、こうした問いが幾度も投げかけられてきたわけである。

 本稿も、こうした日本とドイツのナショナル・アイデンティティ探求の実像を、主題としたい。具体的に、比較対象として選択するのは、日本における国学と、ドイツにおけるゲルマン学である。ゲルマン学は、ドイツにおけるロマン主義が生み出した一思潮であるが、文献学的手法を前提としたゲルマン文化への学際的接近を試みた点において、日本における国学ときわめて相似しており、比較対象として最適だ。本稿は、国学とゲルマン学の相似と差異を検討し、東西におけるナショナル・アイデンティティ探求の対照を明らかにする、一材料として企図される。

 ところで、日本における国学の存在は巷間でも知られているが、ゲルマン学については未だそういった状況にまでは至っていない。まず、ゲルマン学の搔い摘んだ説明が必要だ。ゲルマン学は、ヤーコプ・グリムが提唱した思想・学問である。グリムは、最初はドイツ私法学の巨星であるカール・フリードリヒ・サヴィニーに師事し、私法学への法史学的手法の導入を主張するサヴィニーに影響され、ゲルマン慣習法の研究に進む。だが、研究の範囲は法史に留まらず、ゲルマンの言語・伝説・歴史に波及した。弟であるヴィルヘルムと共に編纂し、「グリム童話」として知られる『グリムの家庭と子供の童話』(1812年~1815年)は、こうしたゲルマンの言語・伝説・歴史についての研究の成果である。

  そして、後年になって、法学・歴史学言語学の三領域から、ゲルマン文化へと学際的な接近を企図する、ゲルマン学(ゲルマニスティーク)を提唱した。現代のドイツでは、ゲルマニスティークは「ドイツ文学」という限定された学問領域しか含意していないが、そもそもゲルマニスティークとは、こうしたゲルマン文化へと学際的な接近を企図する、包括的な学問・思想のことだったのである。このように、文献学的手法や学際的アプローチ、あるいはナショナル・アイデンティティ探求といった諸側面において、ゲルマン学は国学と相似していた。

 こうした国学と相似したゲルマン学が存在したわけだが、両者を比較した先行研究は、一定数だが残されている。まず、戦前においては、国文学者の芳賀矢一が、『芳賀矢一文集』(冨山房、1937年)に所収された「国学とは何ぞや」で、国学の伝統を現代的な文献学として再生させ、「日本文献学」を構築するため、国学に相似したゲルマン学の紹介を行った。また、戦後においては、神道学者の谷省吾が、国学との相似からゲルマン学に関心を寄せ、『鈴木重胤の研究』(神道史学会、1968年)に所収された「グリム兄弟の学問」や『ドイツの国学』(皇學館大学出版部、1984年)を著した。そして、法哲学者の堅田剛は、「ヤーコプ・グリムの『ドイツ法古事誌』――ドイツ学と国学のあいだ」(『獨協法学』67号、2005年)において、ヤーコプ・グリムの法思想の研究にあたって、国学との相似も視野に入れなければならないと指摘している。

 芳賀・谷の研究は、いわば国学の視点からゲルマン学を眺め、堅田の研究は、いわばゲルマン学の視点から国学を眺めているわけである。本稿では、こうした両者の研究を参照しつつ、とりわけ谷省吾の業績から多大な恩恵を受け、国学とゲルマン学の比較検討を行い、東西のナショナル・アイデンティティ探求の実像が、いかなるものであったかを明らかにしていきたい。

 

一 物語としての歴史

 谷省吾は、グリム兄弟の学問的営為の核心を、「言語」と「伝承」の研究による「古代学」の完成である、と指摘した。まず、「言語」の研究としては、グリムの関心は、勿論だがドイツ語に注がれている。それが、ゲルマン民族母語だからだ。業績としては、ヤーコプとヴィルヘルムの共著である『ドイツ語辞典』をはじめとして、ヤーコプの『ドイツ文法』や『ドイツ語の歴史』が、そしてヴィルヘルムの『ドイツのルーン文字について』が挙げられる。一方の「伝承」の研究としては、第一に「神話」の研究が、第二に「伝説」の研究が、第三に「童話」の研究が、第四に「文学」の研究が、第五に「法」の研究が内包されていた。これらは、当然だが、ゲルマン民族の古伝承が対象とされている。「神話」の研究としては、ヤーコプの『ドイツ神話学』があり、「伝説」の研究としては、ヤーコプとヴィルヘルムの共著である『ドイツ伝説集』があり、「童話」の研究としては、先述の『グリムの家庭と子供の童話』があり、「文学」の研究としては、ヤーコプとヴィルヘルムの共著である『八世紀の二つの最古のドイツ詩』があり、「法」の研究としては、ヤーコプの『ドイツ法古事誌』があった。そして、こうした「言語」の研究と「伝承」の研究が構成するのが、「古代学」であるとされていた。

 「言語」の正確で実証的な理解は、「言語」によって構成された「伝承」の解釈に不可避である。そして、「伝承」において展開された「言語」の使用者であるゲルマン民族の心情を反映しなければ、「言語」そのものの存立が危うくなる。そして、こうした「言語」と「伝承」の直結した関係の連続が「歴史」なのであり、こうした「歴史」の探求の究極こそ、ゲルマン民族の理想的な古代を検証する「古代学」である。こうした「言語」の研究と「伝承」の研究と「古代学」の不可分なトリアーデは、ゲルマン民族の心情の投影として「言語」と「伝承」を理解し、こうした「言語」と「伝承」から、歴史の彼方にある、遥かなゲルマン民族の古代を透視する試みだった。すなわち、グリム兄弟は、「言語」を基礎として、「歴史」を「物語」として理解しようとしたのである。

 また、こうした「歴史」を「物語」として理解しようとする姿勢は、「歴史」を「体系」として理解しようとする恩師であるサヴィニーへの対抗意識に起因していた。サヴィニーは、私法学への法史学的方法の導入を主張しつつ、ローマ法の体系的研究によって成果を上げている。サヴィニーの「体系」的な歴史認識に対置された「物語」的歴史認識として、グリム兄弟の「古代学」は解釈できる。そして、こうした「言語」を基礎として、「歴史」を「物語」として理解する試みは、国学とも通底していた。賀茂真淵は、儒仏の移入によって、日本人に固有の心情が喪失されたとし、古代文学の研究を通して、本来の日本人の心情へと回帰しようと企図する。そして、万葉の詩的世界に終生傾倒したこの国学者の思惟は、国学の大成者である本居宣長に継承された。真淵も宣長も、グリム兄弟と同様に、言語や伝承を媒介に、民族に固有の心情に接近し、「歴史」を「物語」として理解しようとする。

 

二 フィロロギーと民族意識

 グリム兄弟は、自身の学問的営為を、「古代学」と呼称しつつ、その中心的手法を「フィロロギー」であると規定した。「フィロロギー」は「文献学」という含意だが、こうした「フィロロギー」はフリードリヒ・アウグスト・ヴォルフによって確立されている。この「フィロロギー」は、アウグスト・ベークによって、さらに体系的な整序が進められ、学問として大成した。こうした、同時代の「フィロロギー」の発展から、グリム兄弟が影響を受けたのは当然である。そして、こうした「フィロロギー」は、シュレーゲルに刺激を与え、ロマン主義の思潮とも関連があった。グリム兄弟・「フィロロギー」・ロマン主義という、「言語」・「伝承」・「古代学」に続く、第二のトリアーデが出現しそうである。だが、こうした「フィロロギー」とグリム兄弟には、重大な差異があった。ヴォルフやベークがギリシャ古典を対象とした古典文献学として「フィロロギー」を展開したのに対し、グリム兄弟はゲルマン民族の過去に注目したのである。ローマ法の体系的研究を手がけた恩師であるサヴィニーや、ギリシャ古典を研究したヴォルフやベークから影響を受けつつ、グリム兄弟はギリシャやローマに民族の規範を発見しようとはしなかった。あくまで、グリム兄弟は、ゲルマン民族の古代にこそ、ゲルマン民族のあるべき姿を見出そうと試みたのである。

 堅田剛の表現を借用すれば、「普遍への固有の対置」を、ゲルマン学は志向した。すなわち、こうした、ローマ法に規範を見出すロマニステン(ローマ法主義者)や、ギリシャに憧憬の念を抱くロマン主義者といった、国境を越えた普遍的に理想とされる古代にゲルマン民族のあるべき姿を投影しようとする同時代の思潮に対抗し、グリム兄弟はゲルマン民族に固有の古代に遡行することで、そのあるべき姿を発見しようと試みた。同時代のギリシャ・ローマ崇拝の風潮への対抗から、グリム兄弟は民族意識を自覚するに至ったのである。ここで、グリム兄弟の「古代学」は、民族意識に裏打ちされた「ゲルマン学」へと発展した。ロマニステン(ローマ法主義者)に対抗したゲルマニステン(ゲルマン法主義者)の法学者を集めた1846年のゲルマニステン大会において、ヤーコプ・グリムはドイツの法・歴史・言語を学際的に研究する「ドイツ学」の構築を宣言し、この学問・思想を「ゲルマン学(ゲルマニスティーク)」と命名する。そして、この三領域の研究者の糾合を主張した。これが、ゲルマン民族へと学際的な接近を企図する、ゲルマン学が誕生した瞬間である。

 こうした、ギリシャ古典を対象とした「フィロロギー」から方法論的に影響を受けつつ、こうした「フィロロギー」への対抗から民族意識を自覚するゲルマン学の姿は、国学の成立過程との相似を指摘できた。契沖や荷田春満を先駆とし、真淵や宣長において大成した国学は、江戸儒学における古学派から方法論を継受している。伊藤仁斎荻生徂徠を代表者とする古学派は、実証主義的文献批判を手法として、既存の朱子学における経典解釈を解体した。そして、こうした中国古典を対象とした実証主義的文献批判を、国学は継受した。だが、国学は他方で、反中華主義の姿勢を鮮明にし、こうした実証主義的文献批判を、日本古典へと適用したのである。このように、「フィロロギー」からの影響と「フィロロギー」への反逆において、そして民族意識への自覚において、国学とゲルマン学は同様の歴史を辿ったのである。

 

おわりに

 本稿では、国学とゲルマン学の相似を、反体系的な「物語としての歴史」への志向と、反普遍的な「民族意識」への自覚に見出した。こうした反合理主義・反普遍主義に力点を設定した両者の理解は、啓蒙主義へのアンチテーゼとして国学とゲルマン学を解釈することになる。だが、啓蒙主義国学・ゲルマン学の関係は、そこまで単純に処理すべきなのか、という課題が思い浮かぶ。この課題については、また別稿で取り組みたいと考えている。たしかに、ゲルマン学の生みの親のヤーコプ・グリムは、啓蒙主義へのアンチテーゼを貫徹した。ひたすら古事の列挙に終始する彼の著作からは、啓蒙主義の体系的・概念的操作への忌避が感じられる。だが、国学の大成者である本居宣長については、どうだろうか。東より子は、『宣長神学の構造』(ぺりかん社、1999年)において、宣長記紀研究を検討し、記紀の忠実な読解としての叙述に見えつつ、それが宣長による高度な概念的・体系的操作を経て、一箇の精緻な神学体系として完成されていると指摘した。東は、宣長朱子学をはじめとする、近世日本における形而上学の危機を目撃し、新たな価値規範を提示するため、「擬制」として神学体系を確立したと説明する。ここにあるのは、神学という装いをしつつ、きわめて合理主義的な発想だ。恩師である真淵ほど、宣長は日本人に固有の情感というテーゼそのものを確信することもなかった、とも東は述べている。宣長については、啓蒙主義へのアンチテーゼというよりも、啓蒙主義そのものを換骨奪胎していると表現した方が適切ではないか、という感想をもつ。いずれにせよ、別稿において、啓蒙主義国学・ゲルマン学の関係については、検討を加えたい。

 

参考文献

芳賀矢一国学とは何ぞや」同『芳賀矢一文集』(冨山房、1937年)
谷省吾「グリム兄弟の学問」同『鈴木重胤の研究』(神道史学会、1968年)
谷省吾『ドイツの国学』(皇學館大学出版部、1984年)
東より子『宣長神学の構造』(ぺりかん社、1999年)
佐野晴夫「芳賀矢一国学観とドイツ文献学」『山口大学独仏文学』23号(2001年)
堅田剛「ヤーコプ・グリムの『ドイツ法古事誌』――ドイツ学と国学のあいだ」『獨協法学』67号(2005年)

書評1 新保祐司『「海道東征」への道』(藤原書店、2016年)

 本書では、気鋭の文藝批評家である著者が、2005年から2016年まで、産経新聞の「正論」欄で執筆した時評が集成されている。音楽を糸口とした社会批評から、明治期の精神史をあつかった論説まで、多岐に渡る時評が全五部の構成で所収されているが、これらの時評の基調音になっているのは、紛れもなく表題にある「海道東征」だ。「海道東征」とは、1940年に皇紀2600年を記念し、神武東征に素材を求めて、信時潔が作曲した交声曲である。戦前はさかんに演奏された「海道東征」は、戦後は長らく封印状態だった。だが、近年になって、大阪と東京で演奏会が挙行され、満員の盛況となっている。

 著者は、こうした「海道東征」が現代に蘇生することによって、戦後日本の閉塞した言語空間に風穴が開いたと確信した。ボードレールヴァーグナーの「タンホイザー」のパリ公演に衝撃を受け、これを「精神史的」な事件だったと評価し、「リヒャルト・ヴァーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」を執筆したが、著者も同様に信時潔の「海道東征」の演奏会に衝撃を受け、これを「精神史的」な事件だったと評価したわけである。本書の主題は、日本的なるものが禁忌となった戦後の時空において、建国の記憶を刻印した「海道東征」の蘇生がもたらした、自己の来歴を省みよという、日本人に投じられた真摯な声を、いかに受け止めるかという問いにあった。

 第一部「『海ゆかば』と『海道東征』の復活」と第二部「音楽が語りかけるもの」に所収された時評では、「海ゆかば」や「海道東征」といった、日本人の来歴を刻印している歌曲が、戦後の封印を打破して復活しつつある、近年の状況の「精神史的」な意義が語られる。「海ゆかば」と「海道東征」は、ともに信時潔が作曲を手がけた。著者は、『信時潔』(構想社、2005年)でも、信時潔の批評を試みているが、『信時潔』での著者の表現を借用すると、信時潔は音楽の領域を凌駕した「精神史」的作曲家である。

 著者は、父親が師事したキリスト者内村鑑三と、長年友人だった洋画家の小出楢重に、信時潔の思想形成への重大な影響を看取した。どちらも、キリスト教や洋画という「西欧」と対峙しつつ、自らが依拠する「日本」を探求した人物だった。そして、信時潔の音楽も、こうした西欧と日本の相剋と融合の系譜を継ぐ。そして、こうした西欧と日本の相剋と融合こそ、近代日本の宿命なのであり、こうした近代日本の宿命を背負う信時にこそ、「日本」の自覚的探求が成し遂げられた。こうして、日本人の来歴から鳴り響く「精神史的」音楽である、「海ゆかば」や「海道東征」が生み出されたわけである。

 第三部「明治の精神から考える」と第四部「戦後日本を問い直す」に所収された時評では、「海ゆかば」や「海道東征」といった、日本人の来歴を刻印している歌曲が生み出された「精神史的」状況を、明治期の精神史に求める試みがなされ、こうした精神史が忘却された戦後日本における病理が剔出された。著者は、信時潔の「精神史的」原型を、明治期の精神史に見出す。これは、先述した内村鑑三からの影響といった、信時潔の個人的事情から説明されるだけでなく、明治に誕生した精神が、大正には影を潜めて、昭和に入って再生したという、著者の歴史意識が反映されている。

 著者は、『内村鑑三』(構想社、1990年)において、明治に誕生した精神を、「ざらざらしている」と表現した。変革の時代がもつダイナミズムに包まれた精神は、荒々しく躍動的で、その質感は「ざらざらしている」わけである。また、保田與重郎は、「明治の精神」(1937年)において、明治に誕生した精神を、「正気」と表現した。藤田東湖の表現から借用した「正気」において、保田が意図していたのは、変革の時代に発揮される、精神史の底力である。こうした底力によって、歴史の激動は乗り越えられるわけだ。すなわち、明治に誕生した精神は、変革の時代がもつ、荒々しく躍動的だが、力強いエネルギーなのである。こうした精神によって、日本は西欧と対峙し、確固たる自我を確立するため格闘した。

 だが、こうした明治の荒々しい創業の精神は、大正には影を潜める。著者は、桶谷秀昭との対談である『歴史精神の再建』(作品社、2012年)において、大正は「精神の時代」だった明治とは対照的に「文化の時代」であり、明治の荒々しい創業の精神は喪失されたと述べた。華美だがダイナミズムに欠落した「文化の時代」である大正を経て、昭和に入って明治の荒々しい創業の精神は蘇生する。これは、日本が未曾有の危機に見舞われ、変革の時代へと向かったためだった。こうした明治に誕生し、大正に影を潜め、昭和に入って爆発した「精神史的」状況において、「海ゆかば」と「海道東征」は生み出されたのである。

 だが、日本が大東亜戦争において敗北を喫し、西側陣営に従属する対価として付与された「平和」に安住するうち、戦後日本は昭和に入って爆発した「精神史的」なダイナミズムを再び喪失した。戦後日本の退廃は、こうした「精神史的」なダイナミズムの喪失に起因している。第五部「東日本大震災から日本を問う」に所収された時評では、大震災という未曾有の危機に見舞われたのち、すなわち著者の表現を借用すれば「災後」において、日本が再び変革の時代に向かい、「精神史的」なダイナミズムが蘇生することが期待されている。しかし、東日本大震災から5年あまりが経過した現在も、こうした「精神史的」な変革は、いまだに生じていない。著者は、こうした変革の兆候として、「海ゆかば」や「海道東征」の復活を評価しているのだろう。「海ゆかば」や「海道東征」が投げかける、自己の来歴を省みよ、という真摯な声に日本人は応答しなければならない。

投稿論文1 アジア主義から世界主義へ――摸倣子・文化圏・同一性

                              トモサカ アキノリ

 アジアという地域区分には、なんら蓋然性はない。我々は全世界における民族(Ethnic groups)の連帯を優先するべきである。そして、過去と未来の共栄圏建設は、あらゆる点でそのように読み直されなければならない。つまり共栄圏は、アジアや東洋や有色人種を解放するためではなく、植民地主義帝国主義から民族・国民を解放するために建設され、内なる敵を含めて、その敵対者と戦ったのである。しかしながら、主体としての我々は当面日本帝国内に限られており、拠点としての国民国家日本に注目せざるを得ない。そのため、旧共栄圏と同様、新共栄圏は、地政学的な戦略を含めて、その周辺の環境を重要視しなければならない。その範囲は当面のところ、戦前の「アジア主義」と同じ範囲となるだろう。

 アジアはある面では存在し、ある意味では存在していない。生産と交換の様式から見て、アジアは全く成立していない。あるのは重層的かつ非対称である複数の「文化圏」のみである。「文化圏」は微妙に排他的な側面を持ちながらも基本的には重複可能であり、そうである以上、一般的な経済競争や軍事力の衝突などとは異なり、対立があいまいである。例えば、支那文化圏では、ブラフミー文字や漢字といった文字や、漢語仏教系の語彙など音声言語の影響、スゥンドゥー(インド)教や仏教儒教といった思想体系、稲作や食文化、建築様式や服装などの摸倣子の体系が地理的に成立している。幾分かスィンドゥー文化圏でもある支那文化圏はアジア的とされる。だが支那文化圏だけでは、シベリアや東南アジアや中央アジアなどを含めたアジアという地域を説明することはできない。文化圏の定義は、文化的影響がある範囲である。したがって今日、帝国を含め世界のすべての土地は、単一の西ローマ文化圏に含められていることは言うまでもないだろう。一方その中で、日本の食文化が受け入れられている範囲を考えれば、オーヤシマ(日本)文化圏が世界に成立しているともみなしうる。

 もともと地理的なアジアは他称である。アジアはおそらくなまったイングランド(英)語である。イングランド語の前提としてラテン(ローマ)語であり、さらにヘラス(ギリシャ)語、カナアン(フェニキア)語を経てスーリャ(アッシリア)語のアス(「東」)に起源する。技術革新と大航海時代を迎えた東西ローマ文化圏にとっての東方の大陸という地域規定を、当地人が受け入れて自称し始めたに過ぎず、妥当性などない。

 その延長線上に、そもそもアジアのみならず、南北アメリカ、オケアニア、アフリカなどの西ローマ的な地理認識や、西ローマ人による「発見」がされた土地の名前がまかり通ること自体、あくまで西ローマ的な植民地主義に基づく思想的桎梏であると考えなければならない。当然エウロペでさえ地域の蓋然性も存在しない。カエサルがガリアを征服することなしに、カールが西ローマの帝位につくことなしにエウロペ(ヨーロッパ)がありえただろうか。エウロペは、ローマ帝国というあくまで特殊な存在が、その近隣の陸地からケルト系やテウトニ系やスラヴ系の文化圏を駆逐して、結果制圧した地域をそう呼んだに過ぎない。

 ではそもそも地域の同一性にとっては、何が妥当なのか。これにはいくつかの解がありうる。そもそもそんなものがありえないとする解は、客観的な事実体系から、最もわかりやすい。次に、自然に何らかの条件(陸地と海、山脈、河川、砂漠といった自然の境界など)で分割することを考えることは妥当である。次に成り行き、つまり歴史である。偶然と必然の堆積としての歴史は、しばしば妥当性の根拠とされる。例えばある土地が、以前は特定の集団の持ち物であったという歴史を認識させることは、現代の侵略者に対してその不当性を訴える根拠とされうる。だが、北アジア北アフリカアラビア半島以外の中東、アメリカ大陸とオーストラリアなどの諸地域を見る限り、その原則は全く履行されていない。次に法律・文化的正当性である。しかしそれらは、それ自体としては存在せず、物質的な現実に有らしめるための暴力(例えば軍事力や経済力、求心力など)を伴わなければ存在できない。現在のチベット亡命政府は好例である。三者を統合すると、地域的な同一性は客観的には存在していないが、暴力に裏打ちされた法律や文化的正当性が、暴力を持ちえなかったそれを蹂躙している状況と説明できる。

 以上の思索から、既存の地域の同一性には、基本的に蓋然性がないという結果が得られた。

 そこで、地域の同一性を存在させるために以下の通り提案する。まず、文化圏の間に、摸倣子の量や質により強弱の差を認める。次に、言語や神話や服装、食文化といった比較的強固な摸倣子やその体系に同一性を持つ集団を想定する。それを民族(Ethnic groups)と定義する。次に、文化や文化圏を、民族を基準に体系化する。次に、世界の土地において、固有かつそれ以前に遡及できないと理解しうる民族の先住権及び正統性を想定する。次に、その正統性を継承する集団が現実に存在したとき、何らかの事情で永続できないとみなしうる集団を除き、等しく力強い条件の暴力を与え、実際の土地に配置する。民族の定義上、最初は文化と同一性を配置すれば事足りる。以上である。

時論2 イロニーとしての「日本」――「日本論」の氾濫を横目に

 眼前の机上に、私が購読している「国民同胞」という、ある保守系の団体の機関紙が載っている。そこでの記事に、海外在住の日本人会社員の手記があった。論旨を掻い摘むと、海外で生活するには、祖国を心の支えにする必要がある、ということである。確かに、その通りだ。海外で生活する日本人には、祖国の歴史や文化を喪失した、デラシネ(根無し草)が少なくない。では、どのようにすればデラシネにならずに済むのだろうか。その回答を期待しつつ紙面を追うと、祖国の歴史や文化を学べとの提案があった。確かに、その通りだ。だが、一抹の失望感を味わう。意地悪な言い方をすれば、祖国の歴史や文化を一通り学びさえすれば、簡単に日本人になれるのだろうか。まるで、カルチャーセンターでの稽古事のように。ここで私が言いたいのは、日本人であることの「困難さ」であり、日本なるものを把握することの「困難さ」である。

 このように、日本人に祖国の歴史や文化を学ぶように求め、祖国の歴史や文化の本質を掴み取ろうとする「日本論」の氾濫は、今に始まった話ではない。われわれは、書店の店頭で溢れる「日本」の文字に、もはや慣れつつある。だが、ここに、日本人であることの「困難さ」や、日本なるものを把握する「困難さ」への自覚は、どれほどあるのだろうか。ここで、私が想起するのが、西部邁の『生まじめな戯れ』(筑摩書房、1984年)に所収された「日本主義」という小論である。西部は、日本自慢を繰り返すサラリーマンと宴席で喧嘩になったエピソードから稿を起こし、日本主義を曖昧模糊な雰囲気の産物であると看做して、日本主義は「空気」であると結論付けた。だが、山本七平の「空気」論とは異なって、西部は「空気」の積極的な側面も認める。こうした「空気」こそ、われわれの根底を形作る一部だとされた。ここで、日本主義をイデオロギーとしてしか看做さない戸坂潤の『日本イデオロギー論』(岩波書店、1935年)は、単なる啓蒙的なイデオロギー批判でしかないと反駁されることになる。西部は、「日本」を「空気」だと看做しつつ、他方で「空気」の重要性も指摘したわけだが、この見解に立脚すると日本人であることは、日本なるものを把握するのは、ひどく困難になってしまう。なにせ、曖昧模糊な「空気」なのだから。

 また、日本人であることの「困難さ」や、日本なるものを把握する「困難さ」については、長谷川三千子の『からごころ』(中央公論社、1986年)に所収された「からごころ」も思い出される。長谷川は、表意文字である漢字を借用しつつ、日本語の表現を企図する訓読が形成された経緯を概観しつつ、われわれの固有性の根源にある言語の領域において、外来の要素が混入している現実を指摘した。外来の文物を、外来であることを無視しつつ、それを取り入れて固有なるものを形成したことで、日本人は固有なるものを追求すればするほど、その固有なるものから乖離してしまう、「無視の構造」が形成される。日本に固有のものを追求しているにも関わらず、気が付けば外来性へと逢着してしまう、こうした「無視の構造」がもたらすジレンマを、本居宣長は「漢意(からごころ)」と呼んだ。こうした「漢意(からごころ)」は、われわれに絶望をもたらす。曖昧模糊な「空気」ではない、確固たる固有性としての「日本」を追求しても、われわれはむしろ固有性から引き離されていく。

 「日本」を追求しても、曖昧模糊な「空気」に終わってしまう。それに甘んぜず、更に追求し続けても、固有性から乖離したほど遠い場所にしか辿り着けない。日本人であることの「困難さ」や、日本なるものを把握する「困難さ」は、ここまで究極的なかたちでわれわれに突き付けられるのである。ここで、もっとも参照すべきなのが、保田與重郎らの日本浪漫派のテクストだろう。保田らは、日本に固有なるものへの回帰が不可能であることを知りつつ、観念的な日本的なるものの構築によって、擬制に過ぎないとはいえ日本に固有なるものの再現を企図した。こうしたロマンティッシュ・イロニーとしての「日本」こそ、この難問への回答ではないだろうか。これを、真実の日本の追求の断念であり、単なる観念の遊戯に過ぎないと断ずるのは容易だろう。だが、日本に固有なるものの断念から、日本に固有なるものの構築へと、巨大な距離を飛翔してみせる詩的想像力は、「空気」としての日本も、「漢意(からごころ)」としての日本も、軽やかに超越してみせるのである。遥かなる日本への憧憬は、その詩的想像力の内部で、ロマンティッシュ・イロニーとしての「日本」を顕現させるのだ。

時論1 アジア主義の陥穽を探る――世界南モンゴル会議結成大会に臨席して

  先日は、参議院議員会館で挙行された世界南モンゴル会議結成大会に臨席した。ゴビ砂漠以北のモンゴル民族は独立を果たしたが、ゴビ砂漠以南のモンゴル民族は中国共産党の圧政下にある。今回は、こうした圧政に抵抗するため、南モンゴルの諸団体が糾合し、世界南モンゴル会議が結成されたのだ。この集会は、日本の保守派の後援もあって開催されたようで、大会の冒頭では複数の自民党議員のスピーチが行われ、水島総氏や三浦小太郎氏といった言論人の顔触れも見える。また、登壇した世界南モンゴル会議の役員も、戦前における日本のモンゴル独立運動への支援について言及する機会があった。ここで、アジア諸民族の解放を企図したアジア主義の文脈が、時空を越えてこの会場において息づいていることに気付いたわけである。そこで、私はこの結成大会の模様を注視しつつも、現代におけるアジア主義のあり方に思いを巡らせることになった。この結成大会を契機として、いかに日本はアジアとの関係を築くべきか、という問題設定が脳裏に浮かんできたわけである。それでは、ここから、アジア主義について管見を開陳したい。

 過去のアジア主義において、陥穽となったのが「アジア」なる単位はあるのか、という根源的な問題だった。日本が「アジア」という単位の一部であり、だからこそ「アジア」の窮状に日本は立ち上がらなければならない、という論理がアジア主義の前提である。この「アジア」なる単位はあるのか、という根源的な問題に焦点が当たったのが、原理日本社と津田左右吉の論争においてだった。中国とインドの精神的伝統を受け継ぎ、その卓越した実現を成し遂げた日本こそ、アジアの一体性を象徴しており、アジアの解放に従事しなければならないと説く蓑田胸喜や松田福松に対し、津田左右吉は『支那思想と日本』(岩波書店、1938年)において、中国とインドと日本はそれぞれ固有の文化を構築してきたのであり、共通した「アジア」文化なるものは空想にほかならず、現代日本はむしろ西欧近代化を遂げたため「ヨーロッパ」文化の陣営に位置していると主張していた。蓑田や松田は、津田を原理日本誌上において批判し、論争に展開したわけである。ここでは、アジア主義の立場において前提にされていた「アジア」という単位の自明性が、津田左右吉によって批判されたのだ。

 そして、こうした「アジア」という単位の自明性を批判し、現代日本をむしろ西欧の陣営に位置付ける試みは、梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社、1967年)における日本と西欧の並行的進化という着想において徹底される。梅棹は、アジアとヨーロッパという世界文化圏の二大区分を批判し、巨大なユーラシア大陸を中間地帯として、日本とヨーロッパが並行した歴史的展開を辿り、類似した文化を構築したと主張した。ユーラシア大陸における乾燥地帯では、古代文明が数多く勃興する。だが、これらの古代文明遊牧民族の脅威によって、瓦解と再建を繰り返すこととなった。対して、これらの古代文明の周辺地域だった日本とヨーロッパは、こうした脅威とは無縁であったため、文化・技術・資本の蓄積に成功し、類似した近代文明を構築することになった。こうした歴史理論によって、梅棹は「アジア」の自明性を完全に否定し、日本と西欧を類似した文化圏であると結論付けた。

 そして、こうした梅棹における日本と西欧の並行的進化という着想を受けて、福田和也は日本がアジアにおいて必然的に孤立せざるをえないと述べている。福田は、『遥かなる日本ルネサンス』(文藝春秋、1991年)において、梅棹における日本と西欧の並行的進化という着想を援用しつつ、アジアにおいて唯一日本だけが主体的に近代を経験したとし、いまだに前近代の状況にある、あるいは植民地化というかたちで近代化を果たしたアジア諸国のなかで、こうした特異な歴史的経験をもつ日本は孤立せざるをえないと説いた。ここから、福田は外交上の指針として、日本にモンロー主義的な孤立主義外交を提案する。ここで、「アジア」という単位の自明性への批判は、アジア主義的な介入主義外交そのものへの批判へと発展するのだ。

 私が臨席する機会があった世界南モンゴル会議をはじめとする南モンゴル解放運動にせよ、チベット解放運動ウイグル解放運動にせよ、アジアの民族独立運動には、アジア主義の系譜を意識した多くの人々が助力している。こうした支援活動には大いに敬服の念を抱いているが、こうした支援活動に携わっている人々には、アジア主義の前提である「アジア」という単位の自明性について問うて頂きたい。これこそ、アジア主義の陥穽なのであり、今も生き続けている課題なのである。これを避けて、アジア主義を検討することはままならず、アジア諸民族の解放運動という実践的活動に従事することもできないだろう。なぜなら、現代のアジア諸民族の解放運動も、アジア主義の系譜の影響をはじめとして、自由や民主主義あるいは法の支配といった普遍的な理念よりも、「アジア」という単位の自明性に依拠しているからである。