定例研究会報告 ベトナム民族運動と「民族の権利」

1.「民族の権利」としての基本的人権

 東遊運動最大の指導者ファン・ボイ・チャウは、次のように言う。

「けだしヴェトナム人の今日フランス人に要求するところは、土地の回復ではない。権利の回収でもない。いっさいの土地利権は、ただカトリック教フランス人の壟断するところに任して、ヴェトナム人は恨むまい。ヴェトナム人の要求はすなわち、ただ天賦人権の一小部分のみである。この小部分とは何か?曰く、願わくばフランス人よ、われらの眼を解いて、その自由に見ることを許せ!願わくば、フランス人よ、われらの耳を放って、その自由に聞くを許せ!願わくばフランス人よ、われらの頭脳を釈いて、思想の自由を許せ!われらをして、かくのごとき要求を満たさしめば、すなわち天賦の一部分はすでにやや完く、幸福はすでに極点に達したりといい得る。」(『天乎!帝乎!』2573年)

 ファン・ボイ・チャウの以上の主張は、天賦人権思想に基づくものである。しかし、この権利観はその後のベトナム民族運動に大きな影響を与えた。

 ホー・チ・ミンは、第一次世界大戦後のベルサイユ会議に対し、『民族の権利』と題する嘆願書を執筆し、提出した。ここでは、フランスからの完全な独立の権利については触れられていないが、自決、民主的自由について説かれている。

 2580年のイエン・バイ事件により、知識人・小ブルジョアジーらによる民族運動は壊滅した。マルクスレーニンも読んだことのなかったホー・チ・ミンは、レーニンの『民族・植民地問題についてのテーゼ』に出会い、以後、マルクス主義による民族運動を展開していくこととなる。

 2605年、彼は、ハノイで『ベトナム民主共和国独立宣言』を読みあげる。ベトナム研究者バーナード・フォールによれば、「宣言には、ソビエト同盟の功績については言及がなく、むしろ、(西暦)1776年の精神、およびフランス革命そしてテヘランとサンフランシスコの諸宣言に言及している」という。

 『独立宣言』は、アメリカ合衆国独立宣言を冒頭に引用し、「世界のあらゆる民族はすべて平等に生まれ、どの民族であれ生きる権利、幸福の権利、自由の権利をもっている」とする。アメリカの独立宣言と決定的に違うのは、主体が「個人」「人間」「市民」ではなく「民族」という点である。『独立宣言』の意義は、「人権宣言」が「民族の権利の宣言」としてあらわれた点にあるのである。

2.「基本的な民族権」

 「民族の権利」は、上述した基本的人権と「基本的な民族権」から成る。

 「基本的な民族権」なる概念は、ジュネーブ協定(2614年)で成立し、ファン・バン・ドン政治報告(2625年)において完成したとされている。その具体的内容は、独立・主権・統一・領土保全の4要素である。

 マルクス主義法学者の平野義太郎は、この権利について、「『民族の基本権』という被抑圧民族の反帝国主義の権利主張」あるいは、「民族の主権・独立・統一・領土保全・平和・民主主義のたたかいをすすめる原理として、うちだしてきている高次の総括的な権利概念」であるとして、「全人類の人間的解放の礎」になるとともに、「帝国主義的抑圧・侵略戦争の不法性とたたかう」権利であるとしている。

 ベトナムの法律家グエン・ゴック・ミンによれば、基本的な民族権の保障こそが「人民の生存と十全な発達」にとって不可欠のものであり、市民的自由あるいは基本的人権の基礎であるとされる。つまり、基本的な民族権は、基本的人権を保障する条件にある。また、基本的な民族権は、すべての人民の熱望に合致しているものでなければならず、民族的・国民的合意の確立が不可欠であるとされる。

 基本的な民族権は、基本的人権とともに「民族の権利」を構成し、同時に、基本的人権の前提としても機能しているわけである。

3.総括

 法学者の浦田賢治は、「植民地・半植民地・従属国では、個人の基本的権利は、自然権として発展することは原則としてありえず、民族主権(民族自決権)と固く結びついた民族権利が実現される過程ではじめて具体化される」と分析している。ここで言う民族主権とは、本稿で言えば「基本的な民族権」を指す。

 今日のいわゆる先進諸国は、侵略する側であり、帝国主義に抗する立場になかった。国家の主権が確立している先進諸国においては、個人の基本的権利を考える上で、まずその前提としてナショナルな原理を持ち出して根拠付ける必要がなかったのである。普遍主義に立脚していたローマ帝国は侵略する側であったし、近代においてナショナリズムが台頭した日本・ドイツも、諸外国・ナポレオンの脅威に晒され、産業革命においては後進国であった。ナショナリズムは、侵略する側ではなく、侵略される側にこそ生まれるものなのである。

 しかし、先進諸国においても表出しないだけであって、ナショナルな原理がその基底にあるはずである。政治的独立なくして、いかなる民主的自由もない。基本的人権を考えるにあたって、当然に自然権として保障されると考えるのではなく、民族の権利としての国家主権の確立を前提として考えるべきであろう。

参考文献
鮎京正訓『ベトナム憲法史』(日本評論社、2653年)
鮎京正訓「「基本的な民族権」概念の構造」(早稲田法学会誌集二九巻、2638年)
作本直行編『アジア諸国憲法制度』(アジア経済研究所、2657年)
西岡剛ベトナム社会主義共和国憲法の概要」(ICD NEWS第52号 2672年9月号)

 

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ホー・チ・ミン

 

定例研究会報告 本居宣長の神道思想における「擬制」の概念――江戸儒学からの影響を踏まえて(第2回・完)

二 本居宣長記紀研究の手法――実証主義と「神代」の再構築

 記紀解釈において要点となるのが、「神代」をいかに解釈するかという問題だ。日本初の正史である「日本書紀」は、冒頭に天地・国土や神々の誕生と神々の物語を記す「神代」巻を置いている。それは残存する最古の歴史文献である「古事記」においても同じだ。古代大和王権が中央集権国家建設のための一環として編纂したこれら記紀は、いわゆる「神代」を時間軸の始まりと捉えているのである。中国の史書に範をとりつつ、「神代」の物語を冒頭に挿入することで、大陸の形式から離れた独自の歴史叙述をとった。一般的通念からすれば、歴史的時間軸から除外される「神代」を冒頭に配したことは、日本人の歴史意識を検討するうえで、たえず問題にされてきた。そして、近世期における「神代」観は、儒学的合理化の方向を強めてきた。林羅山「本朝通鑑」や水戸光圀大日本史」は、いずれも本編から「神代」を削除している。これは、歴史的時間から「神代」を除外することで、歴史を合理化したわけだ。また、新井白石は、「神代」といってもそれは上代の歴史的事実の比喩的表現に過ぎないと主張した。これは、歴史的時間に「神代」を含めつつ、だがそれを合理的に解釈しようと試みているわけである。

 こうした「神代」の合理的解釈を「漢意」として批判し、「神代」の事象を不可解なままに捉え、その解釈に決定的な転回をもたらしたのが本居宣長だった。すなわち、宣長は「神代」の実在を確信し、「神代」を「人代」に連続する歴史的時間と捉えるとともに、繰り返される始原の時という原型的時間と見なしたのである。こうして、宣長は、人間の限られた理性をもって「神代」を理解するのではなく、神典に記載されたことをそのまま確信しつつ「神代」と向き合い、その「神代」に社会の規範を読解しようと試みた。このアプローチは、賀茂真淵記紀研究よりもラディカルである。真淵は、万葉集研究から古事記研究に進んだが、これは「人代」について検討してから、それより過去の「神代」に向き合おうとしたアプローチで、「神代」から「人代」への歴史的時間の流れを前提に、それを遡行する試みだった。それに対して、宣長においては、「神代」は真淵のような歴史的時間としての意義もあるが、それと共に繰り返し現前する理念としての意義も有しており、明確に規範的意味をもっているのである。こうしたアプローチは、「歴史家」の態度というよりも、「信仰者」のそれである。つまり、真淵のアプローチが「歴史学」ならば、宣長のアプローチは「神学」なのである。

 しかし、宣長は、数々の国語学的に重要な貢献を成し遂げた、文献実証主義に立脚する言語学者であった。精緻な実証主義的手法を駆使する古典文献学者の相貌と、記紀に規範的な文脈を読み込み、その内容を確信する信仰者の相貌は、われわれにとって酷く不釣り合いに映る。だが、宣長の意図を、記紀に準拠した神話的世界観を規範として人為的に提起しようと試みる、擬制共同幻想の樹立であると捉えれば、実証主義的な文献学者と敬虔な信仰者の相貌は、整合的に重なり合う。宣長の意図は、単に古代日本人の情感を再構築する点だけでなく(そして、こうした試みが最終的には不可能であることも宣長は察知していた)、儒仏の世界観に染まった自身の生きる近世日本の思想状況への異議申し立てにもあった。近世日本において朱子学をはじめとする形而上学的世界観が危機に陥るのを目にしつつ、儒仏に代わりえる規範を擬制共同幻想によって構築しようとする意識を、宣長は抱いていたのである。ここに、「神代」を再構築し、自身の生きる近世日本において蘇生させる意味が、はっきりと明らかになるのである。

 そして、宣長のこうした記紀解釈によって、「神代」は再構築された。合理化の対象でしかなかった「神代」は、擬制共同幻想として提起された結果として、規範的な意味を獲得していった。こうして、記紀神話は、単なる皇統起源譚や摩訶不思議な伝説ではなく、日本の始原を物語る、幾度も現前する理念として解釈されるようになったわけである。記紀は、人間の生や救済を、そして幽冥や超越性を提示する、民族神話として読み換えられることによって、民心を天皇制の祭祀へと統合していくことになった。こうした「神代」を民族の原型として理解する枠組は、十八世紀後半に構築された宣長擬制共同幻想を端緒となし、現在においても機能し続けている。

おわりに

 ここでは、これまでの叙述を整理し、本稿の意図を明確にしたい。第一章では、本居宣長賀茂真淵神道観を対比し、両者の差異から宣長神道思想の特異性を析出した。宣長は、初期の真淵からの影響から脱却し、独自の地平を開拓するにいたった。それは、「自然之神道」から「神の道」への転回として整理できる。汎神論的神道論への一神教神道観の対置と、霊としての神格概念への実在としての神格概念の対置は、それぞれが真淵の神道観への根源的批判となっており、宣長の注目すべき神道観を余すことなく表現している。そして、この一神教神道観と実在としての神格概念は、それぞれが儒教と仏教の自然観や合理主義を鋭利に反駁しており、儒教や仏教にかわりえる記紀に準拠した神話的世界観を、擬制共同幻想として提起することが、宣長神道観の根源にあると明らかになる。こうして、宣長神道観の具体像が主題とされ、神道的世界観を擬制共同幻想として提起するという試みの肝心な内実である、神道的世界観の具体像が明確にされた。

 続いて、第二章では、本居宣長記紀研究における方法論を検討し、「神代」の取り扱いから、宣長実証主義的な文献学者と敬虔な信仰者の二重性を抱えていたと指摘される。そして、この二重性こそ、宣長が、儒仏の形而上学が危機に陥るなかで、これらにかわる擬制共同幻想を提起しようと試みた証左だと明らかにされた。こうして、宣長神道研究の方法論が主題とされ、神道的世界観を擬制共同幻想として提起するにあたっての、実証主義と信仰の結合という方法論が明確にされた。このように、第一章と第二章によって、宣長神道思想の核心である、記紀に準拠した神話的世界観を擬制共同幻想として提起するという試みの全体像が明らかにされた。また、これは、江戸儒学における「擬制」論の展開の極めて興味深い事例としても解釈できる。

参考文献
東より子『宣長神学の構造:仮構された「神代」』(ぺりかん社、2657年)
同『国学曼陀羅宣長前後の神典解釈』(ぺりかん社、2676年)
大久保紀子「本居宣長神道思想の特質について」お茶の水女子大学人文科学研究(2667年)
子安宣邦本居宣長』(岩波書店、2652年)
相良亨『本居宣長』(東京大学出版会、2638年)
丸山真男『日本政治思想史研究』「第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」(東京大学出版会、2653年)

 

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本居宣長

 

定例研究会報告 本居宣長の神道思想における「擬制」の概念――江戸儒学からの影響を踏まえて(第1回)

はじめに

 江戸儒学において特徴的な概念である「擬制」は、荻生徂徠の思想を端緒として見出される。徂徠は、もはや再現しえない古代中国の理想的秩序を、言語的習熟という手段によって、かりそめであれ作為的に構築しようと試みた。こうした「擬制」論は、朱子学宇宙論によって担保された形而上学的な正統性が瓦解するなかで、社会秩序の基底をいずこに求めるかという思想的課題を背景としている。ここから、「擬制」論は徂徠のみにとどまらず、江戸儒学の系譜において多くの思想家に共有されていく結果となった。そして、こうした「擬制」論の共有は、江戸思想において、儒学の学域も超え、国学の大成者として名を知られている本居宣長にまで波及している。

 宣長は、賀茂真淵から、仏教や儒教の移入によって日本人に固有の情感が損なわれたとの主張や、古典研究によって古代日本人の感性へと回帰を試みる方法論を継承した。だが、他方で、宣長は、真淵ほどには本来性には依拠しなかった。仏教や儒教の移入によって日本人に固有の情緒が損なわれたとの見解に立脚しつつ、真淵が主張するほど容易に古代日本人の心情へと回帰しえるとは解釈していなかったのである。そこで、宣長は、徂徠の「擬制」論を導入し、一定の言語モデルに習熟することによって、情感を「自然」と見紛うほどに改変し、古代日本人の心情に類似した感性を構築することを目指した。

 こうした、「擬制」として古代日本人の情感を構築しようとする宣長の思想的営為は、国史有職故実・歌学といった諸領域において展開されていく。そして、その中核に据えられているのは、古代日本人の信仰を明らかにしようとする、「古事記伝」に代表される記紀研究である。「うひ山ぶみ」において、宣長国学に包摂される諸学を分類し、こうした神道研究を「道」の学であるとし、諸学の根底に置いているのだ。ここで、「擬制」として古代日本人の情感を構築しようとする宣長の思想的営為が、より具体的には仏教的世界観や儒教的世界観に対抗しえる記紀に準拠した神話的世界観の樹立を意図していると判明する。言語モデルの習熟といった手段によって、構築が志向される「擬制」すなわち共同幻想は、日本神話の世界観にほかならない。

 ここで、徂徠を端緒として江戸儒学において共有された「擬制」論が、宣長の思想的営為においていかなる役割を果たしたかを検討するうえで、その分析対象を宣長神道思想とすることが、きわめて有効であると理解できる。宣長の「擬制」論は、神道思想を中核として展開されたのであり、記紀に準拠した神話的世界観こそ、宣長が構築を志向した「擬制」だった。本稿では、こうした宣長神道思想を検討し、宣長における「擬制」概念の展開を考察したい。まず、第一章では、宣長と真淵の神道思想の差異を主題とし、宣長がいかなる神道観=「擬制」像を抱いていたかを検討していく。続いて、第二章では、宣長記紀研究の中心的手法である実証主義的評釈に着目し、宣長が「擬制」=記紀に準拠した神話的世界観を展開するうえで、いかなる方法論を使用したかを分析していく。

一 本居宣長賀茂真淵神道観の差異――自然から神へ

 宣長神道思想の形成過程は、真淵の強い影響下にある初期(著作では「石上私淑言」までに該当)の「自然之神道」論から、真淵を乗り越え独自の議論を構築していった後期(著作では「直毘霊」からに該当)の「神の道」論への移行として整理できる。初期における「自然之神道」論は、真淵の自然哲学に立脚した神道観だ。真淵は、仏教や儒教の合理主義的性格を批判し、その対極にある自然の称揚を展開する。万葉の詩的世界に終生傾倒し続けた真淵は、そこに表現された自然にこうした儒仏の合理主義を打開する方途を見出した。こうした自然哲学に立脚した真淵の神道観は、汎神論的な性格を強く帯びる。真淵において、神道は自然に内属する非人格的な神霊を祭祀する自然信仰を意味していた。そして、真淵の強い影響下にあった初期の宣長の「自然之神道」論も、こうした汎神論的な神道観を継承している。上古の日本社会を理想化しつつ、宣長はそこでの自然への信仰を称揚した。このように、宣長の初期の古道論は、汎神論的な自然観を背景とした神道論(「自然之神道」論)として表現されたのである。

 だが、宣長神道思想は、真淵の強い影響下を脱し、独自の方向性を目指して転回していく。具体的には、自然に内属する神を中心とした「自然之神道」論における汎神論的な神道観から、自然を超越した神を中心とした「神の道」論における一神教的な神道観へと、宣長神道思想は移行を経験するのである。なぜ、現世の根源に「自然」を発見した宣長は、「自然」をも超越した「神」を措定しなければならなかったのだろうか。これは、宣長が、真淵の自然哲学の背後に、儒学老荘思想における「天地」概念の影響を垣間見たためである。太極陰陽五行説に立脚した儒学老荘思想の自然哲学は、「天地」=自然による人倫の規律を基底としていた。儒家神道記紀の宇宙生成とこうした儒学老荘思想の自然哲学を調和的に理解していたが、宣長はこうした「自然」を基調とした神道観が儒学老荘思想の自然哲学へと回収されかねないと危惧したのである。ここで、「天地」=自然を超越した、絶対者としての神が要請され、「神の道」論における超越的存在を中心とする一神教神道観が提示されるにいたったのだ。そして、こうした一神教神道観の方向性は、宣長記紀解釈の前提となる、天照大御神・産巣日神・禍津日神を中心的神格として選出し、その序列や機能を明確化する作業によって、可能となったのである。

 また、こうした宣長神道思想の真淵の影響下からの脱却と、その独自の展開において、汎神論的神道観(「自然之神道」)から一神教神道観(「神の道」)への転回のみならず、神格概念の「霊」(観念的存在)から「現身」(物質的存在)への転回も注目するに値する。真淵は、伝統的な神格概念の範疇に準拠して、神を人間には把握しがたい「霊」として、すなわち観念的構築物として理解していた。それに対して、宣長は、こうした伝統的な神格概念から脱却し、神を人間にも認識しえる「現身」として、すなわち経験的実在物として解釈していた。「神は物質である」との命題は、われわれを当惑させるかもしれない。だが、ここには、宣長の儒仏の合理主義への批判が背景に存在している。宣長は、古代人の思惟を、理性的な世界認識ではなく、感性的な世界認識であると考察した。こうした、観念から出発する理性的認識ではなく、経験から出発する感性的認識を人間の知の根本と見なす思考においては、神はまず知覚される実在でなければならない。こうした合理主義の思弁性への批判が、神の身体性という特異な主題として、宣長神道思想には表出しているのである。そして、こうした実在する神という思考は、現人神としての天皇という政治的観念とも結合していた。宣長にとって、天皇制は神の実在性の具現でもあったのである。

 これまで、宣長神道思想の形成過程を、真淵との対比をまじえつつ追ってきた。初期は真淵の影響下にあった宣長神道思想は、後期にいたってその問題圏を超え、独自の地平を開拓する。こうした宣長神道思想の展開は、「自然之神道」から「神の道」への転回として整理された。この転回において、宣長は、真淵の汎神論的神道観と、霊としての神格概念の双方を乗り越えようと試みた。そこで対置されたのが、一神教神道観と、実在としての神格概念である。また、こうした真淵の問題圏からの脱却は、単なる真淵との思想的な対峙のみならず、儒教や仏教との思想的な対峙をも意味していた。儒教や仏教の自然概念や霊としての神格概念が、宣長神道思想においては批判されている。こうした真淵との対比を通じて浮かび上がってくる宣長神道思想は、記紀に準拠した神話的世界観を儒教的世界観や仏教的世界観に対抗しえる「擬制」=共同幻想として提起しようとする試みとして理解できる。また、こうした宣長神道思想における一神教神道観や実在としての神格概念は、自然から脱却した人為の問題圏を示唆し、経験主義的認識の重視を提示している点において、近世から近代への過渡的性格をもつものとして評価できる。

 

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本居宣長

 

ブログ巻頭言

 このブログでは、活動の中心である定例研究会についての報告や、昨今の社会情勢を切り取った時論、そして感銘を受けた著作への感想をつづる書評など、会員の手による様々な随筆を掲載していく予定です。また、定例研究会をはじめとする当会の主宰する催事についての予定なども掲載し、情報発信の場としても活用していきます。すなわち、このブログは、当会の活動の状況を、まさにリアルタイムで記録していく場となっていくわけです。しかし、同時に、そうした記録のみに留まらず、このブログに掲載された記事が、たとえ様々な形態をとっていても、当会の問題意識を表現するものとなっているような、そうした誌面づくりを心がけたいとも考えています。そのためには、会員の各位が、深く思索の根を下ろして、単なる情報の流動に留まらない、自らの問題意識にしっかりと立脚した文章をつづるように、心がけなければなりません。このブログは、こうした決心に裏打ちされて、これから運営されます。また、読者には、このブログを通して、少しでも当会について知って頂きたいと考えています。そして、できれば、さらに進んで、定例研究会への参加など、当会の活動に直接触れて頂きたいと思います。こうした読者と当会の媒介としての役割を、このコラム欄が担うのならば、このブログは十分にその意義を果たしたと言えるでしょう。

 

当会の紹介

 民族文化研究会は、早稲田大学によって「学生の会」として公認されている政治学術サークルである国策研究会のOBを中心として結成されました。国策研究会は、昭和19年の創設から、政治を中心とする諸学の研究を通して、会員の知見を深める活動を展開し、早稲田大学でも有数の伝統をもつ政治学術サークルです。ですが、こうした実績を誇る一方で、学生サークルという性格から、卒業した会員は国策研究会での勉学や活動から距離を置かざるを得ない現状がありました。そこで、平成28年に、卒業した会員の有志によって、勉学や活動を継続するため、国策研究会のOB組織である民族文化研究会が結成されました。

 これから、民族文化研究会では、学術的な研究を通して、会員の知見を深める、国策研究会の方針を継承し、定例研究会の開催や、会報誌の発刊といった活動を展開していきます。ですが、国策研究会のOB組織とはいえ、外部から会員を募り、独立した組織として運営していく以上は、民族文化研究会も独自の方針を提示しなければなりません。こうした独自の方針として、民族文化研究会が提示するのが、伝統的な民族文化・民族生活を、活動の立脚する理念とすることです。グローバル化が進展し、人間・資金・物資の世界的流通が加速するなかで、伝統的な民族文化・民族生活の退潮が見られるとともに、文化摩擦の結果としてテロや紛争が勃発しています。いわば、グローバル化の矛盾として、エスニック・アイデンティティの衰微と暴発が、同時並行的に発生しているといえるでしょう。こうした現代的課題を解決するためには、伝統的な民族文化・民族生活を再検討していく必要があります。民族文化研究会では、こうした伝統的な民族文化・民族生活の再検討を、活動の中心としていく予定です。具体的には、わが国の伝統的な民族文化・民族生活の研究と、世界の諸民族を取り巻く問題の考察の二つを、活動の主軸とします。民族文化研究会は、こうした方針に基づいて、定例研究会の開催や会報誌の発刊を通して、研究と教育を展開していきます。